父親は神戸で洋服のテーラーであったから顧客には外国人もいた。
紀元二千六百年(昭和15年)の頃、小学生のHはスケッチが好きで家から近い須磨沖の軍艦をスケッチしたこともあったが、父親は「写真や本を見て描いてもええけど、実際のものを見てスケッチするのはやめときよ」と真顔で念を押した。
当時は、こんなことまでが軍事機密とされていた。
また、知り合いの消防署長に火の見櫓の望楼に登らせてもらったが、これも父親から「登ったことを絶対に友だちにもいうたらあかんよ。許可されている人以外は防諜法違反になるからな」と本気で怒られた。
片やメディアは、Hの父母が通っていた教会の牧師が逮捕されたことも、当時父は消防手であって出動した兵庫駅南の空襲で死者が出ていた事実も、それらは一切報道されなかった。これも防諜法(スパイ防止法)の一面だった。
そんな中、ある朝、私服刑事が父を連れて行った。帰国した顧客から以前に絵葉書が送られていたからだった。それは以前にHが友だちに絵葉書を見せたことがあったからだった。
この小説(自伝)は映画にもなったが、映画では父親は拷問を受けて帰って来ていた。
「僕のあの絵葉書のことで、お父ちゃんが引っ張られた」と悲しみながら、翌日学校に行ったHは飛び上がるほど驚いた。Hの机に白墨で、スパイと大きく書いてあったのだ。
スパイ防止法が声高に語られる今日、この本は自宅の書架に置いておき、適宜読み返すのがよいと思う。講談社の文庫にもなっている。

孫の夏ちゃんが来たので、「読んでみないか」と『少年H単行本上と下』を引っ張り出した。まんざらでもない顔で持って帰った。さて。
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