2025年10月26日日曜日

直木孝次郎氏のこと

    10月19日に直木孝次郎氏の遺稿が本になったことを書いたが、せっかくの機会だからもう少しだけ直木孝次郎氏のことに触れておくこととしたい。 
 私は1960年代前半に高校生であったが、社会の先生が山根徳太郎先生の難波宮(なにわのみや)発掘(遺跡発見)を、その日の科目テーマとは関係なしに熱く語られていたことを覚えている。
 直木先生はその難波宮の発掘とその地の遺跡保存運動を山根先生とともに積極的に進められた。
 時あたかも『高度経済成長政策』の時代であったから、大阪市中心部の超一等地の開発をストップさせ遺跡保存が成ったことは奇跡に近い。諸条件は異なるが、京都の平安宮は遺跡保存されていない。
 難波宮大極殿北西のNHKの南(第二合同調査東隣)も広場として残され、当時あったとされる大きな倉庫が一棟復元され、他の倉庫の柱の後もタイルで残されている。

 直木氏は、その後も各地で起こった遺跡保存運動に関わられ、2000年には文化財保存全国協議会の第1回和島誠一賞を受賞された。
 古代史研究の功績も多くこんなブログでは到底紹介できないが、例えば、671年(天智10年)唐の郭務悰が2000人で訪れたとき、近江朝廷から絁(あしぎぬ)1673匹・布2852端・綿666斤を賜ったと日本書紀が端数まで記すのは、郭務悰が白村江での日本の捕虜を返還しに来朝したことを示すという論など、そのするどい洞察力には感心する。なおこのことなどその他、古代史学者小笠原好彦先生の書かれた追悼文を参考にしてこの記事を書いた。

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