さて今日のテーマはミミズもオケラもアメンボもみんな友だちなのかどうかである。
子ども電話相談では「死んだら魂はどうなりますか?」というのがあるが、こことも関わる。
私は、医学的にいえば、魂は意識の問題つまり脳の働きだから、脳が医学的に死亡したら魂も死ぬというか無くなると思うが、文学的というか記憶の世界ではその人のことを思ってくれる、思い出してくれる人の心の中に生き続けると思う。そして自然科学的にいえば亡骸はガスや灰になってまわりまわって他の生物の栄養素になるから、遠い空から眺めていえば全くの「無」になるのではなく「生き続ける」ということもできる気がする。仏教の中の「輪廻」という考えとも似ている。
だから、ミミズやオケラやアメンボのおかげでできた食材で我われは生きているのであり、我われもまた彼らの食材などになるのだろう。
そんなことをボンヤリ考えると、やなせたかしの詞は深遠な真理か、あるいは生死の境の戦場体験から嫌味なく引き出された声のような気がする。
「お盆には蜻蛉(とんぼ)捕るなの言い伝え」
小さい頃、慶応生まれの祖母は虫捕りに出かけたい私に「あれは家へ帰る途中のどこかのご先祖様だ」と言った。何か全くの的外れでもないような気持になっている。
手のひらを太陽に
やなせたかし 作詞
いずみ たく 作曲
僕らはみんな生きている
生きているからうたうんだ
僕らはみんな生きている
生きているから悲しんだ
手のひらを太陽にすかしてみれば
真っ赤に流れる僕の血しお
ミミズだってオクラだって
アメンボだって
みんな みんな 生きているんだ
友だちなんだ

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