2024年11月2日土曜日

神君伊賀越え(しんくんいがごえ)

    天正10年(1582)6月2日未明、本能寺の変で信長が明智光秀に殺害されたが、その日信長配下の家康は少数の手勢30名ほどで堺に投宿していた。どうする家康である。
 
 先日、近所の精華町竹川ますお町会議員の後援会ニュースの手伝いをしていたら、この神君伊賀越えの記事があった。
 バトンタッチをした柚木ひろ子前議員のご夫君の投稿で、氏の母上の実家が柘植だったと。

 写真は石川忠総留書に基くルートだが、堺から京を避け、枚方→京田辺→宇治田原→柘植→白子→伊勢湾を渡って岡崎城に帰還というのが有力な説とされている。
 途中家康は柘植で徳永寺に宿泊したが、寺が厚くもてなした縁で、後に広大な領地が与えられた。このお寺に、氏の叔母(母の妹)が嫁ぎ、氏も子どものころ境内でよく遊んだという話だった。

 ちなみに、伊賀越えのルートについては諸説あり、精華町のわが家の遠くない道を通ったという有力な説もある。
 後援会ニュースではあるが、私には読み応えのある記事であった。

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