そのニュースとこの神社が何の関係があるのかといえば、祭神の武内宿禰(たけのうちのすくね)は明治22年(1889)に紙幣の肖像となり、昭和33(1958)に発行停止になるまで史上一番長く使用されていて、その紙幣は法律上は現在でも使用可能という繋がりによる。
さらにいえば、武内宿禰と同時代と記紀がいう神功皇后(じんぐうこうごう)は明治14年(1881)に「政府紙幣」の肖像になっている。
なお、武内神社はここ以外にも各地にある。
「神功皇后と武内宿禰だって? それは神話の世界でしょ」との声もないことはないが、埼玉(さきたま)稲荷山古墳出土鉄剣には、雄略天皇(ワカタケル)に仕えた被葬者が大彦に仕えた8代前からの系譜を述べて名乗っている。
臣下でさえそれくらいの系譜を述べるのに、古事記の素材となった「帝紀」「本辞」が残っていた当時、雄略から7代前の仲哀天皇、そのあとの応神天皇が全くの物語であるはずがない。
さらには、武内宿禰の父とされる葛城襲津彦は外国の歴史書である百済記等の記録にも書かれている。
しかし、記紀では葛城襲津彦も武内宿禰も200何歳とされている。
これを合理的に解するとすれば、歌舞伎役者や落語家の襲名ではないが、初代、二代目、三代目あたりの実績を、記紀が一人の英雄にまとめたからだろう。
百舌鳥・古市古墳群の大王(天皇)を、従来の大和の王権とは系譜の異なった「河内王朝」と考えた場合、応神天皇の母である神功皇后、皇后に表裏一体であった武内宿禰の検討無くして古代史は語れないのではないか。
と、話が佳境に入ってきたところで、今日はこれまで。明日に続く。
0 件のコメント:
コメントを投稿