明治9年に県庁を失った奈良の今の奈良市周辺は廃れ、商家は堺県の中心地へ移転していった。
奇しくも私は未だその名残のある堺市の中心地で育ったので、大阪南方の拠点的商店街だった山之口商店街の、有名な奈良鹿呉服店などを知っている。確か奈良から移転してきたはずである。
戦後すぐ頃の山之口商店街の地図メモでも、奈良忠帽子店、奈良屋呉服店、三笠果物店、楢呉服店などの名が見えるから、当時の移転組ではなかろうか。山之口商店街には奈良農園という大きな園芸店もあり、そこの奈良君は同級生でもあったが、奈良移転組かどうかは聞くことがないままに来た。これらは裏側(堺側)から見た奈良の衰退を表している。
奈良県発行の『青山四方にめぐれる国』や奈良市のホームページにもあるのだが、当時の様子は次のとおりである。
🔳 県庁を失った奈良の町は活気をなくしてさびれ始めた。県庁への用事のある人を泊めた宿も客が少なくなって営業を続けることが困難になったので、奈良の町に見切りをつけて堺に移ることが多かったなどと「郵便報知新聞」は伝えている。
町家の取り壊しも毎日のように行われたという。奈良今小路町の旅館對山楼の主人は、明治11年ころのようすを、「雲井坂から手貝通りを見渡したところ、火影はただわが家の旅館の門灯だけで、そのほかはまっ暗だった」と語り、人影が消え、雑草が生い茂る京街道のさびれようを嘆いたと伝えられている。🔳
なお、明治20年に奈良県は再設置されたからその後は復興していったに違いないのだが、昨日書いた正岡子規の旅行は明治28年の10月。
柿を喰いながら東大寺の鐘の音を聞いたはずの子規がどうして法隆寺にしたのかの記録は残されていない。
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