2010年12月の発掘調査時に、これが八角墳であり、そのすぐ前のところにもう一つ古墳(越塚御門古墳)があることが発見された際に、その現地説明会に参加して以来13年ぶりの訪問だった。
上記のことの発見後は、小山全体が土砂崩れする可能性もあったので、周囲全体を補強・固定した後、復元作業が進められたので、現在、築造当初の形態を見ることができる。
13年前は八角形にしても実際には解り辛く、前にある古墳(越塚御門古墳)との位置関係も土砂の崩壊で解り辛かったが、それが現在は一目瞭然になっていた。石室も二部屋あることがはっきりと解る。
ただ、白石太一郎先生によると、「石室の年代観からして当初の墓は近くの岩屋山古墳であろう。それを、続日本紀・文武3年(持統太政天皇)に、斉明陵、天智陵を『修造』したとある、その斉明陵が今の姿だ」とされていて、私は説得力を感じている。
つまり、宮内庁はここを陵墓指定していないが、真の天皇陵、斉明天皇陵と言って間違いないと私は考える。
現地のガイドは「八角というのは四方八方見渡す意味だ」と他の人に語っていたが、そんな思い付きのような話ではなく、これは道教に間違いない。
特に斉明天皇とこの時代の天皇権力を見るとき道教は外せない。反対に道教を学習しておかないと、とりわけ飛鳥の古代史は正確には理解できたことにならない。
考えれば、有名な高松塚古墳などは小山の中腹の解り辛いところにあるが、この牽牛子塚古墳は小山の頂上にあるし、そして臨めば飛鳥の京(みやこ)がほゞ一望できる一等地といえる。
13年前は、説明を聞いてようやく理解できたという程度であったものが、今回訪れてみて「斉明天皇陵に間違いない」という実感を強めた。
もう少しいえば、この、まるで近代モダン建築のような威容は、古墳を「修造」させた持統太政天皇の作品として納得した。
そんなことをあれこれ思い。古墳を背にして飛鳥を一望しながら柿の葉寿司を頬張って、歴史のロマンを胸いっぱいに吸い込んだ。
【余談】飛鳥駅で近鉄特急『青の交響曲(シンフォニー)』と出会った。窓の外からすばらしい内装をいろいろ眺めているうちに発車した。しまった、写真を撮って鉄ちゃんに自慢できたのに。
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