話題の度合いは場所柄、法隆寺参道の舟塚古墳に分があるようだが、私は外山(とび)茶臼山古墳(桜井茶臼山古墳)に興味がある。
そのニュースの内容は、過去に発掘されていた三角縁神獣鏡などの銅鏡の破片を精査したところ、全国最多の103面以上の銅鏡が副葬されていたというもので一見したところ地味ではあるが、古墳時代最初期の3世紀末で墳丘長204ⅿでこの銅鏡数だから夢が膨らむ。
王墓(後のいわゆる天皇陵)について造詣の深い白石太一郎先生は、「外山茶臼山古墳とメスリ山古墳については、最初期の他の巨大古墳の地と少し離れていることや、古事記、日本書紀、延喜式などに陵墓としての伝承が伝えられていないが、この時期(古墳時代最初期~初期)(3世紀中葉~4世紀中葉)の王墓としては、箸墓→西殿塚→外山茶臼山→メスリ山→行燈山→渋谷向山の順に築造された巨大王墓であることはほぼ間違いない」と述べられている。
考古学と記紀などの史料や伝承との検討・突き合わせは非常に困難であるが、仮によく言われる「箸墓が卑弥呼の墓」だと仮定すれば、西殿塚は「台与の墓」、外山茶臼山は初代の天皇陵などということもできる。荒っぽい話の一つだが、外山茶臼山の地はイワレの地であるからイワレビコこと神武の墓と推定する主張もある。
そんな議論が飛び交うほど、ヤマト王権の出現期の貴重な古墳である。
そもそもが、メスリ山古墳が築造された時点では北に箸墓と西殿塚の二つの巨大古墳があっただけだから、外山茶臼山とメスリ山が「離れている」というのもおかしくないか。
古墳の被葬者の推定については、墓誌の埋納のないわが国では特定が非常に困難であり、白石太一郎説は有力ではあるが、すべてについて私も納得している訳でないが、今回の外山茶臼山の大量の銅鏡は、白石説を大きく補強していると考えられる。
このテ-マは非常に興味深いので、遠からず続きを書くつもりです。
返信削除