如何に生き如何に死ぬかの死に方で盛り上がるのが団塊世代 (筑紫野市)二宮正博
妻は「団塊の世代がそんな歳になったということ。それに、こんなことを言うのも(つまり作者も)団塊の世代らしい」と言ったが、私は「二宮さんは少し下の世代で、日頃疎ましい先輩たちの様子を見て嗤っているのだろう」と言ったが、さあどうだろう。
永田和宏評は、「そうそんな話が切実な話題になる世代だ」とあった。
切実といえば、歌にまで詠まれなくても自然にそこへ近づいているのは厳然たる事実だ。
例えば、丁度いい高齢者施設への入居も課題になってきていて「何人待ち」ということが現実の問題になりつつある。おひとり様(上野千鶴子さんの言葉)ならなおさらだ。
ところで、「何人待ち」の順番が回ってくるということはその部屋やそのベッドを利用されていた方が亡くなられたということで、自分も又そのように「明け渡す」のがリアリズムだと、ウルトラ鈍感でない限り実感している。
やはり、四苦八苦の四苦(生病老死)の自覚が仏教の神髄なのだろう。
それを季節でいえば、やはり冬至近辺がそうだから、先人はその季節に多くの行事を考えたのではないだろうか。
そういう抑鬱感を大幅に増幅しているのがコロナによる「三密回避」。要するに人と人の交流が遮断されていることにある。
過剰反応、自粛馬鹿、ありえないリスクゼロ、そして思考停止。
先週から大寒波に抑え込まれているが、日の出日の入り、そして陽の角度は確実に生気を取り戻しつつある。「光の春」と言われる。とまれ世は光の春である。団塊の世代よ、さらなる生き方をこそ語れ。メッセージを語れ。メッセージの伝え方を語れ。
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