K・マルクスと並ぶ天下の悪筆のため、多くは機械(PC)に依存しながら、ついては中身で勝負と言ったところだが、・・というほど大層なものではない。
ただ、少し今年考えたことを記録しておきたい。
今年の漢字は、いろいろと目出度い言葉を考えたが一周廻ってシンプルに迎春とした。春は多くの再出発の季節であり、その決意を固める言葉である。そういう風に新年を迎えられたことに感謝している。
迎春の横には『初春や陽はまたのぼる山河あり』という駄句を記した。
ヘミングウェイの「陽はまたのぼる」は聖書を底に敷いていて、それは素直に言えば「いろんなことがあっても未来を信じて生きていこう」につながると、先日の『哲人訓』を読んだ小学生の孫の夏ちゃんに教わった。
「山河あり」が杜甫の春望を意識していることは言うまでもない。杜甫は絶望はしていない。山河がある限り。(ここで一曲吟じたいがコロナ禍のため省略)
さて、上方の箸紙は箸を下から差す。箸紙の上には歳神様がおわすからだろう。その箸紙の一番上に、今年全く新たに掲載したのは今年2月に撮影した「幻日」(げんじつ)である。これが吉兆であることをコメントして皆に吉兆をおすそ分け・・。
まあまあの出来ではないかと、ひとり悦に入っている。
こういう作業を積み重ねながら反省したり決意をしてみたり、・・それが年中行事の意味ではないだろうか。
それを忘れて、商業主義が煽る料理や飾りつけをしても、何かがズレていくので微力ながら抗って今年も〆に入る。
0 件のコメント:
コメントを投稿