2021年8月28日土曜日

小池知事の悪意

   昨日の記事の最後に私は、『小池都知事の言い分は、 1「関東大震災の全ての犠牲者に哀悼の意を示しており、個別の追悼文は控える」 2「朝鮮人虐殺は歴史家が紐解くべきもの」 3「犠牲者数の数字に異論がある」というもの』と書いたが、私の指摘が当たっていれば、その論はただ「至らない、勘違い」などではなく、高度に悪質なものだと私は考える。

1に、天災と言ってよい震災被害者と、人災と言ってよい流言飛語による虐殺は峻別して記録・記憶しなければ科学としての歴史の意味がない。そこに追悼碑の意味もある。小池都知事の言葉の誤魔化しは、学術会議事件の際の上代文学会常任理事会声明のとおり、『前政権以来、この国の指導者たちの日本語破壊が目に余ります。日本語には豊かなコミュニケーションを担う力が十分備わっているのに、見せかけの形式に空疎な内容を盛り込んだ言説が今後も横行するなら、日本語そのものの力が低下してしまいます。日本語の無力化・形骸化を深く憂慮します。頼むから日本語をこれ以上痛めつけないでいただきたい』の指摘と同質と言ってよい。

2に、(未来の)歴史家が紐解くものとの主張は、無責任・無定見の極みだが、実はそんなレベルのことではなく、右翼の『歴史戦、思想戦』の戦略に則った発言(戦略)であるところが危険である。

集英社新書『歴史戦と思想戦―歴史問題の読み解き方』で著者の山崎雅弘氏は、書店に嫌中国・嫌韓国の本が溢れている状況を踏まえてこう述べている。

 ■ 過去の歴史について、日本に不都合なことを「なかった」と言い、日本は何も悪くないと語る本は、読んでいる間は日本人にとって心地いいものです。けれども、そんな安心感に身を委ねてしまうと、それと引き換えに大事なものを見失ってしまうのではないか。日本は何も悪くないと誰かに言われれば、一人の日本人として肩の荷が下りたような気になるが、本当にその結論でいいのだろうか……。■

 重ねて言うが、「歴史家が紐解くもの論」はこれも論理のすり替えで問題を誤魔化す論である。

 第3に、「犠牲者数の数字に異論」というのは、これも横車の典型で、例えばヤクザが行政の窓口に横車を押してくる場合の常套手段で、枝葉末節の泥沼に引き入れてものの本質を誤魔化すやり方だ。例えば百田尚樹の『日本国紀』は南京虐殺の記述で、まず「30万人」という数字に疑義を差し挟み、その数字の信憑性を述べた後、結論で『「客観的に見れば南京大虐殺はなかった」と考えるのがきわめて自然である』と論点をすり替えている。ちなみに産経新聞は、蒋介石秘録を掲載し、その中では南京虐殺の犠牲者数について「30万人とも40万人ともいわれ、いまだにその実数がつかみえないほどである」と記している。(1976623日、山崎雅弘著書)

 だいたいが報道が統制されていた戦前の記録は不十分で、敗戦時のように都合の悪い史料は焼却・隠蔽してきたのであるから、「数字に異論」は為にする印象戦術である。

 以上、小池都知事の主張は、単なる無責任というレベルでなく、非常に悪質なものだと言えよう。明日に続く。

 閉じぬ眼が片方の眼までを狂わせる

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