ナガサキというと、全労働省労働組合(全労働)元副委員長福田幸雄氏は被爆当時長崎に住んでいた。ただ、ほんとうに爆心地近くに住んでいたのだが2日前に疎開していた。紙一重というよりも「神一重」というのが相応しい気がする。
その上に、当日も爆心地に一番近い旧制中学校である県立瓊浦中学校で防空壕に逃げた後、警報解除で浦上駅にたまたま来た列車に乗り、少し離れた長与駅の列車の中で被爆された。
疎開していなかったら、防空壕の外だったら、下校しなかったら、列車が来ていなかったら、長与駅で列車の外に出ていたら、その内の一つでも外れていたら亡くなられていた可能性が高い。
そして本人は、証人がいないということで今も被爆者手帳をもらえていないという。
被爆者手帳というと、先日黒い雨裁判があったが、その根拠となった調査結果と見解をまとめられたのは気象学者増田善信氏だった。
私が全労働本部にいた頃、ほとんどの国公単組の本部は役所と共に霞が関にあったが、全労働本部と全気象本部は大手町にあった。その隣組である全気象本部委員長が増田氏だった。
戦争中天気予報は軍部の機密とされ公表されなかった。それゆえに台風その他の予防もできず、被災後の救援もできないケースが多かった。その痛恨の歴史から全気象や国公労連は行政民主化と平和運動を重視してきた歴史がある。
今コロナ禍を理由に改憲で緊急事態条項を目論む勢力が蠢動しているが、ノー モア ファシズム の声を忘れずにいたい。
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