2021年8月6日金曜日

ノー モア ヒロシマ

   昨日の私のブログ記事にケンタさんが「小学校低学年の頃蜷川虎三知事に原爆の話を聞いた」とコメントがあった。さすが当時の蜷川京都民主府政とうらやましく思った。

 私はというとその頃、1954年(昭和29年)からビキニ環礁等で水爆実験が繰り返され、日本国中に放射能雨が降り注ぎ、「雨に濡れたらあかん」「放射能雨を被ると禿になる」と学校や親から注意されたが、何処からとも聞こえてきた「放射能ぐらいに負けたら元気に生きていかれへん」というヤンキー的な言葉に粋がって、知って濡れて歩いたりしていた。私が本格的に原爆のことを知り平和運動のことを知ったのは高校生になってからだった。

 さて全労働省労働組合(全労働)が核廃絶・被爆者援護の国民平和行進に本格的に参加したのは1976年のことで、正直に言って力の波はいろいろあるが今年まで継続して取り組んできた。その中で職場では「歩くだけで核廃絶が可能だろうか」「抑止力としての核兵器は無くならないだろう」という素朴な意見を死ぬほど聞いてきた。で、そのことについてほんの少し考えてみる。

 先日来、好きな歴史の本を適当に読み進めてきたが、世界の歴史を見ると、1945年以降76年間、本格的な戦争や兵役を知らずに生きてきた現代日本人はほんとうに例外ではないかと思うようになった。その力の根源が平和憲法にあることは間違いない。

 その歴史の俯瞰から、私は「現代日本76年が例外で、世界中はやがてさらに強力な兵器で殺し合うだろうと」諦めるのでなく、反対に、ぬるま湯的日本では見えにくかった世界の進歩を見たいと思う。

 歴史の物差しでは、たかだか76年前、ヒロシマ、ナガサキに原爆が落とされた時の日本には言論の自由はなく、思想警察が殺生与奪の力をもち、女性には選挙権すらなかった。

 また例えばアメリカで、キング牧師が暗殺されたのは1968年、その元となった公民権運動の出発点は日本では民主教育が進んでいた戦後でも、黒人は白人にバスの座席を譲らなければならないとか、スクールバスが白人と黒人で別々だというようなことだった。今でもBlack Lives Matter 運動があるが、当時から見ると時代は大きく進歩しつつある。

 お隣の韓国は、1980年に光州事件があったりして、軍事政権が本格的な民政に移管したのは1987年のことである。

 そうして1955年に発足した原水禁運動やその後取り組まれた国民平和行進は世界中に声を広げ、そしてついに、2017年7月7日核兵器禁止条約が国連総会で採択され、今年2021年1月22日に条約は発効した。問題は未だ批准しようとしない日本政府の姿勢であり、政権交代によって批准をさせたいものである。

 長々と書いたが、何も行動せずに「核兵器は無くならへんやろ」的に語る事への返書のつもりでこの記事を書いた。

 ハンナ・アーレントが問題提起した、一人ひとりの個人の「見てみぬふり」「思考停止」の罪である。先日逝かれた益川敏英先生の言葉でいえば「科学者(ここをそれぞれ会社員とか公務員とかに読み替えて)である前に人間たれ」である。先生はこうもおっしゃっておられる。「私は(思う)、あと200年経ったら戦争はなくなる」と。

 最後に重ねて言おう。政権交代で核兵器禁止条約を批准させよう! 2021年8月6日

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