そういう気分から逆算して自分の狭い範囲の2020年を振り返ってみると、客観的にはサクラや検察官人事や核兵器禁止条約の成立や大阪市の住民投票や安倍晋三氏の退場などがあったにもかかわらず、集合して語り合う行事が次々に中止になり、書面の会議で時は流れ、何となく捉えどころのない四季(一年)が過ぎ去っていったような不思議な感覚が残っている。孫たちの運動会への参加もなく、新年号原稿用の「私の一年にはこんなことがありました」というイメージもなかなか定まらない。
11月10日の読者の文芸・短歌・大井学選に採ってもらった一首は、そんな私の気分を詠んでみたものだった。
年ごとに時の長さは変わらねどのっぺらぼうの季(とき)は去りゆく
コロナ禍、ステイホームに終始した四季(一年)はのっぺらぼうの一年であったような気がした。のっぺらぼうは季(とき)に掛かっている。将来振り返って2020年はのっぺらぼうな年だったなと思うことだろう。私個人の”流行語2020”は「のっぺらぼう」だ。この感覚は肉体を通じてへとへとになるような体験の不足によるものだろうか。
なお短歌(の技術)としては少し頭韻を意識したと、こそっと付け加えておく。
のっぺらぼうの一年のほぼ最後に、そのおかげで短歌の入選をもらったのだから、瓢箪から駒と言うべきかアウフヘーベンと言うべきか。「さあさあご褒美ご褒美」と思って感謝している。
落語にです出てくるのっぺらぼうはただの怪談話だが長谷やんのこれはなんか意味がありそうですね、明日なにをしようか定まってないものはただ自信を探してうろたえるばかりです。
返信削除城陽の鶴
コロナ問題を真剣に眺めると、単に昔に帰ればいいというのでなく、地球規模でこれからの人類の生き方、そういう下での幸せや不幸せとはどういうものかという問題に悩みます。ただあまりに課題が大きくて悩んでいる間に時が流れていきます。流れた時をのっぺらぼうと感じるのは悩み方が浅すぎるからでしょう。匿名さんコメントありがとうございます。
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