11月19日の富雄丸山古墳の記事から、さらに想像の翼を拡げてみる。
富雄丸山古墳の築造された4世紀後半というと、いわゆる天皇陵と、それに付随する大規模古墳が狭義のヤマト(桜井市や天理市周辺)から佐紀の地(奈良市北部)に移った時期である。
定説ではそれは権力そのものが交替したのでなく、築造を担った豪族が替わった、あるいは大王家が新たな土地を開拓したのだろうといわれている。
要するに当時、現奈良市北部には有力な豪族が栄えていたことは間違いない。
いわば、東京都千代田区はヤマトのままでも、佐紀の地は新宿区ぐらいの位置だったように思われる。
富雄丸山古墳は佐紀そのものではないが、その奈良市北部の周辺あたりと言ってもよい場所にある。
富雄丸山古墳のすぐ後の5世紀になると古墳時代のピークを迎えるが、それが古市・百舌鳥古墳群で、その特徴は「見せる古墳」だと言われている。
例えば西日本の豪族が首都圏たる大和に向かう場合、彼らをして腰を抜かさんばかりに驚かすという思想があったのだろうという説が有力になっている。
葺石に覆われた巨大古墳の威容はスカイツリーやハルカスの比ではなかっただろう。
その根拠は、巨大古墳が難波津から大和に向かう大道(メーンストリート)に見事に沿っていることによる。
上海や香港、そして西域諸国の現在の大都市に林立するタワーや高層ビルを見るとき、私はそこに古墳時代の思想を見る。
5世紀のメーンストリートは今の大阪上本町から堺まで南下し、その後、イメージとしては大和川を遡って大和に向かうが、その前の4世紀後半、奈良市北部の豪族たちはどのように難波津と行き来していたのだろうかと想像する。
で、思いつくのは、後の大仏経由伊勢参りの伊勢街道のイメージである。(古墳時代は河内湖の南岸沿い?または船?)
これは上方落語「東の旅」が一番のテキストだ。
いよいよ玉造で見送りの人々と別れ、道は一直線に生駒山に向かい、越えた峠が暗峠、さらに矢田丘陵をひとまたぎして、大和盆地に入ったところが砂茶屋(古老はスナンジャヤと呼ぶ)で、その南方面に「これでもか」と造られていたのが富雄丸山古墳である。
もしかしたらこの古墳、5世紀古墳の初期の思想(見せる古墳という思想)がここで生まれていなかったか。
根拠はないがそういう想像も楽しい。
喜六、清八もきっと見ていたに違いない丸山古墳。残念ながら落語には出てこない。
写真2枚は大阪から大和見物経由伊勢参りの起点の玉造稲荷神社。
古墳時代よりさらに以前から勾玉を作っていた先進技術集団がいた。
19日の記事を書いた後、そんな想像の翼が拡がった。
0 件のコメント:
コメントを投稿