2017年8月15日火曜日

敗戦記念日

 先日NHKが『昭和の選択「ポツダム宣言受諾 外相東郷茂徳・和平への苦闘」』という番組を放送したが、その中で東郷が(日本への)ソ連の参戦を望んで画策していたことを知った。これは目から鱗だった。
 自民党などの常套句に「日ソ中立条約を信じていた日本に対してソ連は一方的にそれを破った」というのがあったからである。東郷の証拠はそうではなかったことを物語っている。
 結局、東郷の思惑は外れ、後に彼は「迂闊(であった)」と手帳に記していた。

 言い古されてきたことだが、昭和20年4月にナチスドイツが崩壊し、日本の指導部も1月頃からは敗戦必至と考えていたが、有名な「一撃してから講和」という方針をとったため、沖縄の悲劇、広島の悲劇、長崎の悲劇を招いてしまった。
 この一点だけでも日本指導者の国民に対する戦争責任は大きいし、アメリカとの講和を有利にするためにと実は日本へのソ連の参戦さえ画策していた罪は重い。

 昨今、トランプと金正恩の瀬戸際外交のため、国を守るために軍事力が必要との宣伝が政府から展開されている。
 しかし歴史はどうだったのか。軍は国民を守ったか。冷静に歴史を振り返ってみよう。

 沖縄では、軍が沖縄県民に徹底抗戦、はては自決まで強要し、沖縄県民の実に4人に1人が亡くなった。
 満州では、民間人を放置したまま軍部関係者だけが撤退し、従軍看護婦の橋本ナツミさんの証言によると、足手まといになるからと居留民の乗った貨車を日本軍が爆破した。
 沖縄でも満州でも「敵に見つかるから赤子を泣かすな」と母親に赤子を殺させた。

 軍自身で言っても、「日本軍の戦没者230万人のうち半数以上が餓死だった」とは陸軍軍人としてあの戦争を体験した歴史学者藤原彰氏の『飢死した英霊たち』にある記録である。つまり過半数の軍人も「敵に殺された」のではなく日本軍に殺されたのである。
 これが「国を守る軍隊」の実像だった。

   しかし、やはり8月15日に日本人が最も振り返らなければならないのは、主にアジア諸国に対する加害責任であろう。
 「南京大虐殺はなかった」と安倍晋三や百田尚樹は言いふらしているが、旧陸軍将校と元自衛隊幹部の親睦団体「偕行社」の機関誌『偕行』が1984~85に「虚妄の批難に対し具体的に反証・・」するために投稿を呼びかけたところ、実は大虐殺を認める証言が多く、ついに執筆責任者の加登川幸太郎氏は「(死者数の)膨大な数字を前にして暗然たらざるを得ない・・・この大量の不法処理には弁解の言葉はない」「中国人民に深く詫びるしかない。まことに相すまぬ、むごいことであった」と述べている。

 13日に放映されたNHKスペシャル「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験」では生きた民間人をマルタと呼んで生体実験を行い、国際法違反の細菌兵器を中国・満州で使用したという証言テープが次々と流された。

 民間人の虐殺、強姦、食料強奪、家屋放火、果ては乳児を銃剣で突き刺して掲げたり、妊婦の腹を裂いて胎児を殺したり、どうして温厚な日本の農民(庶民)がこのような残虐行為ができたのかというのが日本軍と戦争の姿だった。
 よって、インドのネルーは著書で「日本は恥知らず」と怒り、シンガポールのリー・クアンユーは回顧録で「英国よりも残忍で常軌を逸し・・・同じアジア人として我々は日本人に幻滅した」と記録した。

 安倍晋三や日本会議の面々は、侵略や虐殺や強制連行の証拠がないなどというが、8億円国有地値引き問題や加計学園問題で彼等の証拠隠滅体質は白日の下に明らかになっている。彼等の言う「証拠がない」とはあんなことである。
 私の父は民間会社ではあるが軍需産業に勤めていて、敗戦時には軍関係のありとあらゆる証拠を焼却した。そういう焼却=証拠隠滅は海外の前線を含め全国で行われた(7月11日付け朝日新聞「天声人語」)。

 それでも個人が残した従軍日誌などに悲惨な加害行為が残されたのだ。現代日本人は、こういう真実を読み返す必要があるだろう。

 今日は8月15日、「自虐」などという汚い悪罵に惑わされず、日本という国の加害責任を冷静に振り返る日にしたい。
 そうでないと、再び「邦人のため」「邦人企業のため」に戦争をしでかす馬鹿が出る。

 蛇足ながら、冒頭のNHK『昭和の選択・・』の番組では、最終的に昭和天皇がポツダム宣言受諾を決した理由は、広島・長崎の原爆をみて本土決戦では日本国そのものがなくなると判断したからであるとのナレーションがあったが、これは事実に反する。

 昭和天皇独白録によると、例えば7月25日、「もし本土決戦となれば・・・皇祖皇宗よりお預りしている三種の神器も奪われることも予想される。それでは皇室も国体も護持しえないことになる。もはや難を忍んで和を講ずるよりほかはないのではないか」と述べ、8月9日深夜の最高戦争指導者会議、いわゆるご聖断のあった会議の折りの独白では、「敵が伊勢湾付近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込が立たない、これでは国体護持は難しい、故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思った」と語っている事実を指摘しておきたい。

    8月は時代劇でなし敗戦忌

1 件のコメント:

  1.  8月15日ぐらいは日本の加害責任を語ろう!という私の主張はあまり広がらない。どうしてだろうか?

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