2017年2月2日木曜日

真田丸の余韻

   大河ドラマ「真田丸」が終わった。
 その最終回、・・・元和元年大坂夏の陣、家康は四天王寺の直ぐ西にある茶臼山に本陣を構えた。捨て身の真田幸村が斬り込むも討取ることができず、幸村は茶臼山の少し北側にある安居神社境内で戦死した。
 
 ただしである。・・・堺市にある臨済宗南宗寺(なんしゅうじ)の南宗寺史には「家康は茶臼山で敗れ、逃げる途中後藤又兵衛の槍に倒れ、遺骸は南宗寺に隠され、徳川(替玉家康以降)の世になってから久能山、さらに日光山に移送された」とあり、堺人は全員?そちらの方を信じている。信じていない者は戸籍上は堺市民ではあるが堺人と認定されない。

 それはともかく、安居神社には「幸村戦没地」の碑がいくつかあり、昨年中は相当賑わったことと推測された。

 そもそもこの神社は、菅原道真が大宰府に左遷の折り休んだ地との説があり、故に普通には安居天神と言われる。

 「摂津名所図会」には「安井天神山花見」の図があり、酔客が「安井とてけふ揚げつめの天神をいでいでかりてまゐらせん」と唄って踊っている。
 本によると、江戸時代の遊女の最上位は太夫(吉原では花魁)で次が天神。天神の揚げ代は25匁で天神さんの縁日25日に掛けて天神であったとある。
 この狂歌・・揚げ代が安いからといって、今日揚げ詰めの天神に扮して愛でて、さあさあ騒いで舞って差し上げましょう・・の意か? どなたか綺麗に狂歌として現代語訳をしていただきたい。

   傷心と怨嗟の菅公因縁の地も、江戸時代の大阪庶民にかかればこのような宴席になっているのが可笑しい。というか、これが普通の歴史というものなのだろう。
 天満の天神さんも繁昌亭と受験競争のおかげで賑わっている。 

   初天神日の本一(ひのもといち)の夢の跡


 ミリオンさんから後藤又兵衛終焉の地、道明寺合戦の碑の写真が送付されてきたので追加して掲載。なお、道明寺合戦と茶臼山合戦の時間的問題はコメントに記載した。ミリオンさんありがとう。

2 件のコメント:

  1. 一昨年の夏に堺の南宗寺に友人達とブラブラした時 説明され思い出しました。家康の秘密?の墓 後の将軍が 内緒で墓参りに来た証拠に 墓の近くの瓦に葵の紋が彫ってありました。近鉄の道明寺駅に 大阪夏の陣 道明寺合戦で 後藤又兵衛が 伊達軍に負けた場所として 碑が何年か前に建ちました。だからかな 真田丸は真剣にみていました。楽しみながら のんびり ちゃんと。

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  2.  南宗寺の不思議は本当に不思議です。
     さて、後藤又兵衛は慶長20年5月6日(1615年6月2日)に道明寺の戦いで討ち死にした。一方、幸村は5月7日に家康軍に斬り込んでいる。なので家康が又兵衛に一突きされることはあり得ない。・・と言われるが、堺人は「勝者の歴史は当てにならん」と今でも思っている。それは堺人の洒落心の深さであり都会人たる所以である。
     それを理解できない男たちが堺を大阪都に吸収しようと言っている。噴飯ものだ。

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