1月早々に、中学校で非常に親しかった面々のミニ同窓会をした。
私は気安さで、少し気の張りつめたこの半年だったと近況報告をした。
変な話だが、辛さ自慢のようになってしまったみんなの苦労話で元気が貰えた。
そのときの旧友と昨日再会した。
彼は青春の思い出やその後の苦労の話をいっぱいしてくれた。
遠まわしであるが私を励ましてくれている心づかいが柔らかく伝わってきた。
同時に、文学者らしく「この頃言葉の力を深く感じるのだ」と話してくれた。
さて、この歳になると、一つや二つの辛い苦労のなかった者はいないだろう。当たり前だ。
しかし、その渦中では「自分ほど辛い境遇はない」などと人は思ったりする。
馬鹿馬鹿しいが、そういうものである。
振り返ってみると笑い話になるのだが。
その渦中の思いを乗り越えるのは会話の力、友人の言葉を借りれば「言葉の力」ではないだろうか。
話の内容などどうでもいい。
友を思ってくれる言葉が力をくれるのだ。
そういう言葉を吐ける人間になりたいとつくづく思う。
今般の再会以外にも直接あるいはメールでなど多くの友人から言葉をもらった。
私はというと、どうも「言わなくっても分かるはずだ」的に照れてしまったり、自分の思いが強すぎて言葉を呑み込んでしまう。反省したいところだ。
へんちくりんなブログになってしまったが、記録しておきたいと思った。
「言わなくったって分かっているだろう」でいいのかどうかは、15日の「同層生の熱い吐息」で書いた「家族はつらいよ」のテーマであった。
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