我が家の裏は遊歩道で街路樹がケヤキだから、この頃は毎日イヴ・モンタンのシャンソンを歌いながらレレレ小父さんになっているが、それでも数時間後には「何処を掃いたの」という景色になっている。
夜中に木枯らしが吹いた朝は「どんな風に風が吹いたのだろうか」とコワゴワ窓を開けると、ほとんどの場合、道路じゅうの枯葉が我が家の前に集中して堆積していて、風の理不尽に溜息をもらしている。
我が家の前にはスイセンやオキザリス(ハナカタバミ)があって、それらが自然のクマデのように枯葉をキャッチしているからだ。
で、卑しい心の奥底で「(どちらかというと率先して掃いているのに)(道路じゅうの枯葉が我が家1軒に集中するなんて)この理不尽に神も仏もないのか」と毒づいている。
そういう卑しい心根から発想するのだが、日本人の古い信仰は、アニミズムだとか多神教だとかいろいろ理屈を言うよりも、「自然こそカミ・ホトケ(習合して)である」「カミつまり自然は偉大で人智を凌駕している」「カミつまり自然は恐怖や困難ももたらすし豊穣や安寧も運んで来てくれる」「それは基本的に理不尽である」というものではなかっただろうか。
そして、今日なおその気分は我々の奥底に残っているのではないだろうか。
いや、それとも、民族の奥底の信仰を忘れたが故に現代人は悩み、閉塞感に打ちひさがれているのだろうか。
自分の一時の溜息から、そんな想像が広がった。そして、それは大きな間違いではないような気がしている。
遠くフクシマや御嶽山のことを思い返してみても、我々はもっと自然を畏怖して生きなければならないように思う。
原発しかり、軍事しかり、金融しかり、今の政治には、自然の摂理を侮った驕りがあるように思えてならない。
「もっと自然と穏やかに共存していこう」という声に同意していただけるなら、総選挙の投票先は自ずと決まると思っているのだが、実際社会はそんなに単純ではない。やっぱりカミは理不尽でもある。
この感想は、「風頼みの選挙はダメ」というような高尚な暗喩のつもりではない。
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