ご近所から「吊るし柿のしかたが解らないから」と立派な渋柿をいただいた。
「しかたが解らない」というよりも「作る気がない」ので持て余したというのがほんとうのところだろう。
といって、我が家にも吊るし柿のノウハウはないから、妻が、入所している母に聞いてきた。
結論は全く単純なもので、皮を剥いて、カビ防止のために熱湯にくぐらせて、後は屋外に干しただけである。
「月に叢雲」ではないけれど、寒風が欲しい時には穏やかなインディアンサマーの日が続き、心配したがカビは生えてこなかった。
そして、時々揉んで少し平べったい形に成形した。
そうすると、あの大きかった渋柿が頃合の大きさにまで小さくなった。
義母が帰ってきたとき試食してもらったが完璧に完成していて、あっという間に3人で10個ほどたいらげた。
特に義母は懐かしそうに喜んでくれた。
友人のブログに「毎年吊るし柿を作る」話が登場するが、お正月用の串柿でなく100%食用の吊るし柿を少し柔らかいうちに食べるのはほんとうに美味しい。
来年は本格的に作ってみようかという気になっている。
今年の分は、孫がやって来ると直ぐになくなってしまうだろう。
吊るし柿が美味しくなったらほんとうに晩秋である。
「季節の風物詩」というような決まり文句が頭をよぎる。
京都の新聞に、「よく似たバードバスだな」と思って眺めたら、私が投稿した尉鶲(ジョウビタキ)の写真が掲載されていた。
山背(やましろ)だより・・・京阪奈の狭い範囲の役にも立たない些細な日常を綴っています。・・・(お気軽にコメントください)(匿名で記載し本文に名前を入れる方法も簡単です)。 スマホの場合は、最終ページの「ウェブバージョンを表示」をタッチして、ウェブバージョンの右にあるアーカイブで年月をタッチしていただくと以前の記事を読んでいただくことができます。ウェブバージョンの最終ページの「前の投稿」で遡ることも可能です。
2014年11月29日土曜日
空間能力
地図の読めない人は南に向かうとき 地図を反対向けにする |
首相の発言を国民は信用していないから大問題になっていないのだと思われるが、この発言は立場や主張に拘らず‟支離滅裂”で、「景気が悪ければ元も子もない」なら1年半後も景気を勘案して判断すべきだし、増税が絶対必要なら来年10月に引き上げるべきだろう。
要するに1年半の延期というムードだけで選挙に勝利?(後退を少なく)し、選挙後は「信を得た」とか言って悪政へ一気呵成を狙っているわけで、それは、公明、民主ほかの消費税に反対しない与野党も同じである。
あらゆる経済指標をちょっと拾い上げてみてもアベノミクスの失敗(増税不況)は明らかなため安倍首相と自民党は、「今は道半ば、この道しかない」というキャッチコピーを考えついたが、浜矩子同志社教授は、「これが道半ばなら、到達点まで行ったときには『そして誰もいなくなった』でしょう」と鋭く言い放っている。
この『道』をテレビで共産党の小池副委員長は、「道の方向が間違っている」「消費税に頼らない道がある」と切り返していたが、その方向は11月19日に「消費税は福祉を壊す」とこのブログで書いたとおり、所得税と資産税を中心とした応能負担の伝統的民主的税制に戻せばいいだけのことである。
そして、大企業の内部留保のほんの僅かを賃上げと正規雇用化に使わせれば、国民に痛みが生じないまま税収も上がるのだから話は簡単である。
それが簡単でないのは大企業の欲の皮が厚く、その献金で買収された自民党等が逆立ちをした「アホノミクス(浜矩子造語のひとつ)」を推進しているからである。
私は首相の一連の発言を聞いていて『話を聞かない男、地図が読めない女』という本のことを思い出した。
首相は道の行先も現在地も解っていない。あの本に言わせれば「右脳の前の方に問題がある」男であり空間能力が劣っている。※
本は、「空間能力の劣った男は狩りができない」と断じているが、狩りのできないリーダーについて行った家族の行末は悲惨なものとなるだろう。
なお、共産党には「地図の読める女」がいっぱいいる。
地方議員の35.7%、都道府県議員の50.9%、政令市議員の52.0%、都議会議員は17人中11人で65,0%、昨年の参議院議員は比例5人中1人、選挙区3人中2人が女性である。
※ もちろん私は安倍氏の右脳に身体的欠陥があるなどとは思っていない。しかし、このように支離滅裂な主張を貫き通す性癖というか人格には、政治家なかんずく首相としては決定的な欠陥があると思っている。
2014年11月28日金曜日
ボルサリーノならぬ・・・
先輩がそのエッセイを書いた年齢に私もほゞなっている。
だが、私は帽子が似合わない。それは昔から解っている。
解ってはいるが、「今度こそ似合うかも知れない」と思って買ってしまう。その繰り返しで反省ばかりしている。
さらに、この年代の性癖かもしれないが「みんな一緒」の流行が嫌いで、人が驚かろうがどうしようが、どちらかというと個性的であることを好む。(「この年代」などと皆を道連れにしていいかどうか???)
そんな癖が出て3歳の孫に「この帽子はどう?」と持っていたハンティングを前後反対に被ったら、間髪を入れずに「かっこいい」と評論してくれた。
そんなもので、即、ハンティングの後ろに「花喰い鳥」の大きなピンバッチをつけ、それを前にして被ることにした。
近頃はそういう格好で外出もしている。孫の評価以上の評価があろうか。
昨日もその格好で大阪市内に行き、何人かの友人たちと会ったが、誰も「かっこいい」とも「おかしい」とも言わなかった。
さんまが、お笑い芸人に対する殺し文句は「普通や」ということやというようなことを言っていた。この場合の「殺し文句」というのは芸人として抹殺されるという意味の「殺し文句」なのだが、・・・・同様に全くの反応の無いのも寂しいものである。
といって、ゆっくり考えると面と向かって「そらおかしいで」と言うのが可哀想なのでみんな黙っていただけに違いない。
でも、孫だけが承認していてくれたら爺ちゃんに動揺はない。
2014年11月27日木曜日
チキンレース
チキンレースは、崖などに向かって2台の車を激走させ、先にハンドルを切ったり飛び降りたりした方がチキン(臆病者)として敗者になり屈辱を味わわされるというもので、ジェームス・ディーンの『理由なき反抗』(1955年)で有名になった。あまり気分のいい話ではない。
そんな言葉が毎日新聞の記事の中に登場したのでオオッと思ったが、橋下、松井両氏が「やったらやりかえす」と公明現職の衆議院議員の選挙区に立候補しようとした騒ぎの中で、維新の市議が「公明への最後のチキンレースだった」と述懐したというのである。
だとしたら、橋下氏らは大義名分も何もなしで公明を脅しただけのもので、かつ、先に飛び降りた臆病者だということを自ら告白していることになる。
それにしても、政治の世界でチキンレースを仕掛ける彼らの精神は私は生理的に受け付けない。
ところで、核抑止力論というものがある。
核兵器は使う気はないが「使うぞ、使うぞ」と脅して平和を守り戦争を抑止するという考えで、結構少なくない人々に承認?されている考えである。核というほどではないが戦力・軍事力と読み替えると世界中の国のもしかしたら多数意見かもしれない。
しかし、これって結局はチキンレースではないかと私は常々疑問に思っている。
少し考えてみてほしい。一般社会でも一番「怖ろしい」のは会話の成立しない‟キレてる人物”である。
同じように、キレていない「国」は軍事力が強大でも怖くないのではないだろうか。
抑止力論が成立するためには、必ずもしかしたらキレることのある「危ない国」であることが必要である。
そういう核抑止力的外交をバートランド・ラッセルは瀬戸際外交と評したが、外交のチキンレースで勝つのは「何を考えているのかわからない」「独裁者が面子のためには国民の犠牲も顧みない」危ない国だろう。
「あの国は絶対に核のボタンを押さない」と皆が思えばチキンレースは成り立たないから、「あいつは最後には何をするかわからない」奴しか勝者にはなれないと私は思う。
第二次世界大戦後この理論というか信仰が信じられてきたのは、事実として、米ソの二大大国が度々「キレて」他国を侵略し戦争をしてきたからである。
思い起こせば、よくここまで核のボタンを押す奴が出てこなかったものだというのが率直な感想で、不思議なくらいである。
だから私の感想をいえば、核抑止力論は常に戦争の危険を膨らませている。
チキンレースでせめぎ合えば、降りたくて仕方がなかっても観衆の手前、国のリーダーがぎりぎりまで降りられない事態は必ず生まれる。そのぎりぎりのタイミングを外せば・・・・そんなことが起こらないとどうして断言できるだろうか。
21世紀の今日、本気で、軍事力ではない「北東アジア平和協力構想」的な外交を大きな声で語るべき時ではないかと思っている。それは臆病者の主張ではない。
ASEANは現実に踏み出している。日本共産党のいう「北東アジア平和協力構想」は韓国では大きく注目されている。こんな理性的な政党がもっと大きくなればいい。
※ 北東アジア平和協力構想
① 紛争の平和解決のルールを定めた北東アジア規模の「友好協力条約」を締結する。
② 北朝鮮問題を「6か国協議」で解決し、この枠組みを地域の平和と安定の枠組みに発展させる。
③ 領土問題の外交的解決をめざし、紛争をエスカレートさせない行動規範を結ぶ。
④ 日本が過去に行った侵略戦争と植民地支配の反省は、不可欠の土台となる。
この構想の主旨は、日本共産党が提案し、9月のアジア29か国75政党により開催されたアジア政党国際会議で全会一致で採択されたコロンボ宣言に盛り込まれた。
そんな言葉が毎日新聞の記事の中に登場したのでオオッと思ったが、橋下、松井両氏が「やったらやりかえす」と公明現職の衆議院議員の選挙区に立候補しようとした騒ぎの中で、維新の市議が「公明への最後のチキンレースだった」と述懐したというのである。
だとしたら、橋下氏らは大義名分も何もなしで公明を脅しただけのもので、かつ、先に飛び降りた臆病者だということを自ら告白していることになる。
それにしても、政治の世界でチキンレースを仕掛ける彼らの精神は私は生理的に受け付けない。
ところで、核抑止力論というものがある。
核兵器は使う気はないが「使うぞ、使うぞ」と脅して平和を守り戦争を抑止するという考えで、結構少なくない人々に承認?されている考えである。核というほどではないが戦力・軍事力と読み替えると世界中の国のもしかしたら多数意見かもしれない。
しかし、これって結局はチキンレースではないかと私は常々疑問に思っている。
少し考えてみてほしい。一般社会でも一番「怖ろしい」のは会話の成立しない‟キレてる人物”である。
同じように、キレていない「国」は軍事力が強大でも怖くないのではないだろうか。
抑止力論が成立するためには、必ずもしかしたらキレることのある「危ない国」であることが必要である。
そういう核抑止力的外交をバートランド・ラッセルは瀬戸際外交と評したが、外交のチキンレースで勝つのは「何を考えているのかわからない」「独裁者が面子のためには国民の犠牲も顧みない」危ない国だろう。
「あの国は絶対に核のボタンを押さない」と皆が思えばチキンレースは成り立たないから、「あいつは最後には何をするかわからない」奴しか勝者にはなれないと私は思う。
第二次世界大戦後この理論というか信仰が信じられてきたのは、事実として、米ソの二大大国が度々「キレて」他国を侵略し戦争をしてきたからである。
思い起こせば、よくここまで核のボタンを押す奴が出てこなかったものだというのが率直な感想で、不思議なくらいである。
だから私の感想をいえば、核抑止力論は常に戦争の危険を膨らませている。
チキンレースでせめぎ合えば、降りたくて仕方がなかっても観衆の手前、国のリーダーがぎりぎりまで降りられない事態は必ず生まれる。そのぎりぎりのタイミングを外せば・・・・そんなことが起こらないとどうして断言できるだろうか。
21世紀の今日、本気で、軍事力ではない「北東アジア平和協力構想」的な外交を大きな声で語るべき時ではないかと思っている。それは臆病者の主張ではない。
ASEANは現実に踏み出している。日本共産党のいう「北東アジア平和協力構想」は韓国では大きく注目されている。こんな理性的な政党がもっと大きくなればいい。
※ 北東アジア平和協力構想
① 紛争の平和解決のルールを定めた北東アジア規模の「友好協力条約」を締結する。
② 北朝鮮問題を「6か国協議」で解決し、この枠組みを地域の平和と安定の枠組みに発展させる。
③ 領土問題の外交的解決をめざし、紛争をエスカレートさせない行動規範を結ぶ。
④ 日本が過去に行った侵略戦争と植民地支配の反省は、不可欠の土台となる。
この構想の主旨は、日本共産党が提案し、9月のアジア29か国75政党により開催されたアジア政党国際会議で全会一致で採択されたコロンボ宣言に盛り込まれた。
2014年11月25日火曜日
公約よりも進級試験
一時、マニフェスト、マニフェストと言われたことがある。
好い方にとれば、業界や地域のしがらみで投票するのでなく各党のマニフェストを比較検討して判断しようという掛け声であったが、結果は、ズバリ、耳あたりのよい言葉を並べた者が勝ちというようなムード選挙を演出しただけだった。
言葉を飾りたてたというレベルならまだしも、TPP絶対反対とか増税反対と言って選挙に臨み当選したら推進するというありさまだったし、選挙時に一言も触れていなかった憲法の解釈改憲を強行したのだから、マニフェスト選挙が聞いてあきれるというのが歴史的事実だった。
マスコミが煽るこの種のキャッチコピー・・・マニフェスト選挙、第三極、政権交代、はては「争点がない」に誘導された結果が現代社会の行き詰まりをもたらしたのではないだろうか。
では、我々は何をメートル原器にして選挙を考えればよいのだろうか。と思うと、私は選挙は各党の進級試験だと考えるのがよいと思う。
つまり、学生でいえば過去の学習態度と到達点を評価するのである。面接会場でしおらしく「これからはああします。こうします」と言っても駄目である。
例えば、今日の消費不況は人為的な円安と消費税にあることは明らかで、その消費税を合意して推進したのは自民、公明、民主だし、維新等の第三極もこれを応援した。
社会保障の根幹である国民皆保険制度や食の安全を破壊するTPPも自民、公明、民主や維新等が推進し、いよいよ崖っぷちに迫っている。
憲法違反の集団的自衛権の閣議決定、秘密保護法を実行した自民、公明と維新等の責任は大きいが、民主の腰のキレ方も悪かった。ここでも、絶対多数政権をここまで追い込んだ力は公平にみて共産党だった。
原発も、先の選挙前には口をすぼめていたが多数を取ると再稼働を推進している。
つまり、進級試験のつもりで皆が考えれば、政治の対決軸は自民対共産党であったことは明らかだし、庶民の立場で検討すれば、一貫して正直に主張し与党を追及したのが共産党で、選挙前には嘘をつきまくり、ごく一部の大企業経営者と大金持ちの利益のために国民の生活と安全を危機に曝してきたのが自民党であることは明らかだろう。
それにしても、それらの検討を十分に行えるような情報がないという感想もあるだろう。今日のマスコミ状況が作っている大問題のひとつである。
そうであるなら、共産党を支持するしないは別にしても、権力や広告主に一切影響を受けない、そういう意味ではタブーの無い赤旗をこの期間だけでも購読してほしい。
2014年11月23日日曜日
誰の身を切る
テレビの出演者たちが非常に軽い飾り文句で「政治家は身を切る努力もしないまま解散してけしからん」という言葉を吐いているが、その「身を切る」という言葉の中身は議員定数削減であり、その中身は、実際「小選挙区を削減すべし」と言った声は聞かないから、政治的には与党の乗りやすい比例代表定数の削減ということになっている。付言すれば、多くの場合、不思議なことに政党交付金廃止をあまり言わない。
22日に発表した維新の党の選挙公約も「身を切る」がキャッチフレーズで、定数削減を掲げるが政党交付金にはだんまりだ。まあ、この党の公約などは眉唾もので、当選したなら「全権委任されたも同然」と好き勝手をしてきたことは大阪で証明済みだ。
元に戻って、・・・だとすると、庶民の声が国会に届かないというもどかしさの一方で、少なくない私腹を肥やす議員への正当な怒りに発した声の側面があるにしても、「身を切るべし」のその声はブーメランとなって庶民の声を切り捨てることになる。
私の結論めいた意見を先に言えば、現代ニッポンの政治を歪めている二大要因は、①政党交付金と ②小選挙区制 であるが、身を切れ論はそれを温存助長する役割しか果たさず、民主主義を後退させろという論に行きつく。
それを過去4回の国政選挙の自民党と民主党と共産党の得票率で検討する。
平成21年8月第45回衆議院議員選挙結果
小選挙区 比例代表
得票率 議席数 議席率 得票率 議席数 議席率
自民党 38.68% 64 21.3% 26.73% 55 30.55%
民主党 47.43% 221 73.7% 42.41% 87 48.33%
共産党 4.22% 0 0% 7.03% 9 5.00%
平成22年7月第22回参議院議員選挙結果
小選挙区 比例代表
得票率 議席数 議席率 得票率 議席数 議席率
自民党 33.38% 39 53.42% 24.07% 12 25.00%
民主党 38.97% 28 38.35% 31.56% 16 33.33%
共産党 7.29% 0 0% 6.10% 3 6.25%
平成24年12月第46回衆議院議員選挙結果
小選挙区 比例代表
得票率 議席数 議席率 得票率 議席数 議席率
自民党 43.02% 237 79.00% 27.62% 57 31.66%
民主党 22.81% 27 9.00% 16.00% 30 16.66%
共産党 7.88% 0 0% 6.13% 8 4.44%
平成25年7月第23回参議院議員選挙結果
小選挙区 比例代表
得票率 議席数 議席率 得票率 議席数 議席率
自民党 42.74% 47 64.38% 34.68% 18 37.50%
民主党 16.29% 10 13.69% 13.40% 7 14.58%
共産党 10.64% 3 4.10% 9.68% 5 10.41%
以上のとおり、小選挙区制は多様な意見を切り捨て、多数党に虚構の議席数を配付する。
その上に立った内閣はいわば「上げ底政権」(神戸学院大上脇教授の命名)で、民意とはるかに乖離した暴走が可能になっている。
そもそも連邦国家でもない我が国で、選挙区を小さく分けてそのほとんどを一人区にすること自体が民主主義と相いれない。
選挙区の比較第一党がその選挙区の代表意見だというのは暴論に近いし、選挙区を小さくすれば清廉になるという夢物語の馬鹿馬鹿しさも歴史が証明している。
こういう正論を真っ向から主張しているのは共産党しかないし、事実、共産党以外の全政党が政党交付金を懐に入れている。
選挙制度は民主主義の根幹である。
こういう民主主義と相いれない選挙制度に目をつぶって他国の人権問題も何もないものだ。
残念ながら、それでもこの不当な制度の下でも勝っていかなければならない。
歴史はそういう困難を厭わない先駆者によって切り開かれてきた。
22日に発表した維新の党の選挙公約も「身を切る」がキャッチフレーズで、定数削減を掲げるが政党交付金にはだんまりだ。まあ、この党の公約などは眉唾もので、当選したなら「全権委任されたも同然」と好き勝手をしてきたことは大阪で証明済みだ。
元に戻って、・・・だとすると、庶民の声が国会に届かないというもどかしさの一方で、少なくない私腹を肥やす議員への正当な怒りに発した声の側面があるにしても、「身を切るべし」のその声はブーメランとなって庶民の声を切り捨てることになる。
私の結論めいた意見を先に言えば、現代ニッポンの政治を歪めている二大要因は、①政党交付金と ②小選挙区制 であるが、身を切れ論はそれを温存助長する役割しか果たさず、民主主義を後退させろという論に行きつく。
それを過去4回の国政選挙の自民党と民主党と共産党の得票率で検討する。
平成21年8月第45回衆議院議員選挙結果
小選挙区 比例代表
得票率 議席数 議席率 得票率 議席数 議席率
自民党 38.68% 64 21.3% 26.73% 55 30.55%
民主党 47.43% 221 73.7% 42.41% 87 48.33%
共産党 4.22% 0 0% 7.03% 9 5.00%
平成22年7月第22回参議院議員選挙結果
小選挙区 比例代表
得票率 議席数 議席率 得票率 議席数 議席率
自民党 33.38% 39 53.42% 24.07% 12 25.00%
民主党 38.97% 28 38.35% 31.56% 16 33.33%
共産党 7.29% 0 0% 6.10% 3 6.25%
平成24年12月第46回衆議院議員選挙結果
小選挙区 比例代表
得票率 議席数 議席率 得票率 議席数 議席率
自民党 43.02% 237 79.00% 27.62% 57 31.66%
民主党 22.81% 27 9.00% 16.00% 30 16.66%
共産党 7.88% 0 0% 6.13% 8 4.44%
平成25年7月第23回参議院議員選挙結果
小選挙区 比例代表
得票率 議席数 議席率 得票率 議席数 議席率
自民党 42.74% 47 64.38% 34.68% 18 37.50%
民主党 16.29% 10 13.69% 13.40% 7 14.58%
共産党 10.64% 3 4.10% 9.68% 5 10.41%
以上のとおり、小選挙区制は多様な意見を切り捨て、多数党に虚構の議席数を配付する。
その上に立った内閣はいわば「上げ底政権」(神戸学院大上脇教授の命名)で、民意とはるかに乖離した暴走が可能になっている。
そもそも連邦国家でもない我が国で、選挙区を小さく分けてそのほとんどを一人区にすること自体が民主主義と相いれない。
選挙区の比較第一党がその選挙区の代表意見だというのは暴論に近いし、選挙区を小さくすれば清廉になるという夢物語の馬鹿馬鹿しさも歴史が証明している。
こういう正論を真っ向から主張しているのは共産党しかないし、事実、共産党以外の全政党が政党交付金を懐に入れている。
選挙制度は民主主義の根幹である。
こういう民主主義と相いれない選挙制度に目をつぶって他国の人権問題も何もないものだ。
残念ながら、それでもこの不当な制度の下でも勝っていかなければならない。
歴史はそういう困難を厭わない先駆者によって切り開かれてきた。
2014年11月21日金曜日
こんなエアリハを知った
老人ホームの家族会で秋の行事を行った。
役員の中にこの種のことをよくお知りの方がいて、落語もエアリハ?もする理学療法士『日向亭葵』氏をお招きした。
この方が、予想以上に本格的に話芸を披露された。
正直に言えば繁昌亭の若手よりも格段に上手で、なんというか安心して話に入っていけた。
その上で、エアリハなるものを教えてくださった。エアのリハビリテーション・・・・。
例えば、「片手を思い切り上げましょう」と言っても脇腹の筋肉は伸びないが、「その上のトイレットペーパーを取るように」というと確かに筋肉に力がいく。
腕の筋肉も、「曲げたり伸ばしたりしましょう」と言っても大した負荷は掛らないが、「ゴムチューブを引っ張るつもりで」してみると確かにリハビリだ。
聞けば「な~~んだ」ということばかりだが、知らなかった世界にパチーンと目を開かせられた気分がする。
安い講演料で申し訳ないような充実したものだった。
著書もあり、関心のある方は私のアドレスに問い合わせていただければよい。
第二部は、役員会メンバーによる「みんなで歌おう」をした。
ピアノ、ギター、フルートで伴奏し皆で歌ったのだが、少人数の役員会の中で自前でこんなことができるというのは大変なことだと自画自賛している。
この企画、言いだしっぺは私で「私はハーモニカぐらいはするから」と言ったのだが、孫のハーモニカで練習してみるともう全くどうにもならなかった。
ブルースハープでのアドリブも手に負えなかった。
で、結局、中の1曲だけでマラカスを振っただけだった。気持ちはあるが技術はないというのは、ああ、なんとも情けない。
だから何かの手作りイベントをするときに、技術があるのにあれこれ理由をつけて嫌がる人を見ると腹が立つ。こちとらは、もしもピアノが弾けたなら~ だ。
ということで、歌う方に徹したのだが、最初から用意済みのアンコール曲??「見上げてごらん夜の星を」を歌い終わったときには何か胸の熱くなるのを感じた。
歳がいくと感激しやすくなるようだ。
少ない役員会メンバーだが、技術は別としても、皆が前向きに取り組む行事は気持ちがいい。
役員の中にこの種のことをよくお知りの方がいて、落語もエアリハ?もする理学療法士『日向亭葵』氏をお招きした。
この方が、予想以上に本格的に話芸を披露された。
正直に言えば繁昌亭の若手よりも格段に上手で、なんというか安心して話に入っていけた。
その上で、エアリハなるものを教えてくださった。エアのリハビリテーション・・・・。
例えば、「片手を思い切り上げましょう」と言っても脇腹の筋肉は伸びないが、「その上のトイレットペーパーを取るように」というと確かに筋肉に力がいく。
腕の筋肉も、「曲げたり伸ばしたりしましょう」と言っても大した負荷は掛らないが、「ゴムチューブを引っ張るつもりで」してみると確かにリハビリだ。
聞けば「な~~んだ」ということばかりだが、知らなかった世界にパチーンと目を開かせられた気分がする。
安い講演料で申し訳ないような充実したものだった。
著書もあり、関心のある方は私のアドレスに問い合わせていただければよい。
第二部は、役員会メンバーによる「みんなで歌おう」をした。
ピアノ、ギター、フルートで伴奏し皆で歌ったのだが、少人数の役員会の中で自前でこんなことができるというのは大変なことだと自画自賛している。
この企画、言いだしっぺは私で「私はハーモニカぐらいはするから」と言ったのだが、孫のハーモニカで練習してみるともう全くどうにもならなかった。
ブルースハープでのアドリブも手に負えなかった。
で、結局、中の1曲だけでマラカスを振っただけだった。気持ちはあるが技術はないというのは、ああ、なんとも情けない。
だから何かの手作りイベントをするときに、技術があるのにあれこれ理由をつけて嫌がる人を見ると腹が立つ。こちとらは、もしもピアノが弾けたなら~ だ。
ということで、歌う方に徹したのだが、最初から用意済みのアンコール曲??「見上げてごらん夜の星を」を歌い終わったときには何か胸の熱くなるのを感じた。
歳がいくと感激しやすくなるようだ。
少ない役員会メンバーだが、技術は別としても、皆が前向きに取り組む行事は気持ちがいい。
2014年11月19日水曜日
消費税は福祉を壊す
安倍自民党の口ぶりだと解散総選挙の争点は「消費税再々引き上げの1年半延期の諾否」と言いたいらしい。自民党に投票してくれたら延期、そうでなければ即引き上げかのように騙し脅している。いつもながら詐欺師さながらのロジックだ。
そして情けないことにマスコミはその不当性を指摘するのでなく、延期に反対している野党がないのだから争点の無い選挙だというピントのボケた論評でお茶を濁している。
そもそも消費税10%は自公民3党合意の産物だし、維新やみんな等も基本的に推進してきたものだからマスコミの論評も一見したところそのように見えるが、現在の経済状況が明確に示している通り、争点は共産党のいうように「消費税引き上げは延期ではなくきっぱり中止」かどうかだと思う。
では、消費税を10%にせずに社会保障は推進できるのか、景気は悪化しないか、財政赤字は破綻しないか、ここの展望が重要だ。
景気については、結局のところ消費不況であって、消費者の懐(賃金等)を温めないと幾ら金融政策を連打してもどうにもならないことが明らかになった。ズバリ、賃金抑制と消費税こそが景気を冷え込ませているのであって消費税を廃止する方が景気は回復するのである。
なら、社会保障と財政はどうか。
冷静に考えれば、現在は不況だといっても経済規模は20数年前と比べるなら大きくなっている。にもかかわらず20数年前の税収が上げられていない。理由は、税収の上がらない税制、つまり・・・・・「法人税を下げないと企業が海外へ行ってしまう」という大嘘に乗って、消費税を基幹にした税制にしたからである。
そうしておいて、「事業仕分け」だとか「公務員の定員削減・非正規化」で財政赤字が解消できるかのようなデマを流してきたからである。自公だけでなく民主もそうだ。
「海外へ逃げる」論についていえば、企業自身が言っている通り、その判断のポイントは立地先の需要であり、法人税が高いから海外移転するわけではないし、法人税を安くしたって逃げる時は逃げるのである。それであっても本社に還流された所得には税を負担させることができるから、それはそれでどうにでもなる。
大企業が「円高になったら海外へ行く」とか「法人税を下げなかったら海外へ行く」というのは雇用問題を心理的に人質に取った使い古したブラフ(脅し文句=こけおどし)である。
そもそも、所得税と資産税を中心とした税制こそが公平な税制であり、民主主義的税制の伝統的な原則であった。
そういう応能負担型の税収と財政構造こそ所得の再分配という効果を生み福祉国家をつくるのだ。国家の機能とはそういうものだ。
そういう「垂直的所得再分配」に対して、消費税を中心にすれば「水平的所得再分配」になり、『国民総痛み分け』にしかならない。
残念ながら、小泉氏や安倍氏に群がった「新自由主義」経済主義者だけでなく、民主党のブレーンになった「ポスト福祉国家」論者も「グローバル経済の下では法人税よりも消費税が取りやすい」という理由でこのように税制をゆがめてきたことが今日の経済・財政の行き詰まりを招いているのである。
この「垂直的所得再分配」は国のレベルでしかできないから、道州制だとか何でもかんでも地方分権というアジテーションに乗ると、「国民総痛み分け」をベースにした恐ろしいほどの格差社会が生まれるだろう。堤未果氏の「沈みゆく大国アメリカ」等のシリーズを読めばわかる。
争点は共産党のいうように「消費税再引き上げはきっぱり中止」だし、その先には穏やかな福祉国家が見えてくる。
重ねて言えば、消費税を上げれば福祉が充実するのでなく、消費税中心の税制こそが福祉を破壊するのである。
日本共産党は応能負担の税制を主張している。
(この記事は、二宮厚美神大名誉教授の講演記録を参考にさせていただいた。)
そして情けないことにマスコミはその不当性を指摘するのでなく、延期に反対している野党がないのだから争点の無い選挙だというピントのボケた論評でお茶を濁している。
そもそも消費税10%は自公民3党合意の産物だし、維新やみんな等も基本的に推進してきたものだからマスコミの論評も一見したところそのように見えるが、現在の経済状況が明確に示している通り、争点は共産党のいうように「消費税引き上げは延期ではなくきっぱり中止」かどうかだと思う。
では、消費税を10%にせずに社会保障は推進できるのか、景気は悪化しないか、財政赤字は破綻しないか、ここの展望が重要だ。
景気については、結局のところ消費不況であって、消費者の懐(賃金等)を温めないと幾ら金融政策を連打してもどうにもならないことが明らかになった。ズバリ、賃金抑制と消費税こそが景気を冷え込ませているのであって消費税を廃止する方が景気は回復するのである。
なら、社会保障と財政はどうか。
冷静に考えれば、現在は不況だといっても経済規模は20数年前と比べるなら大きくなっている。にもかかわらず20数年前の税収が上げられていない。理由は、税収の上がらない税制、つまり・・・・・「法人税を下げないと企業が海外へ行ってしまう」という大嘘に乗って、消費税を基幹にした税制にしたからである。
そうしておいて、「事業仕分け」だとか「公務員の定員削減・非正規化」で財政赤字が解消できるかのようなデマを流してきたからである。自公だけでなく民主もそうだ。
「海外へ逃げる」論についていえば、企業自身が言っている通り、その判断のポイントは立地先の需要であり、法人税が高いから海外移転するわけではないし、法人税を安くしたって逃げる時は逃げるのである。それであっても本社に還流された所得には税を負担させることができるから、それはそれでどうにでもなる。
大企業が「円高になったら海外へ行く」とか「法人税を下げなかったら海外へ行く」というのは雇用問題を心理的に人質に取った使い古したブラフ(脅し文句=こけおどし)である。
そもそも、所得税と資産税を中心とした税制こそが公平な税制であり、民主主義的税制の伝統的な原則であった。
そういう応能負担型の税収と財政構造こそ所得の再分配という効果を生み福祉国家をつくるのだ。国家の機能とはそういうものだ。
そういう「垂直的所得再分配」に対して、消費税を中心にすれば「水平的所得再分配」になり、『国民総痛み分け』にしかならない。
残念ながら、小泉氏や安倍氏に群がった「新自由主義」経済主義者だけでなく、民主党のブレーンになった「ポスト福祉国家」論者も「グローバル経済の下では法人税よりも消費税が取りやすい」という理由でこのように税制をゆがめてきたことが今日の経済・財政の行き詰まりを招いているのである。
この「垂直的所得再分配」は国のレベルでしかできないから、道州制だとか何でもかんでも地方分権というアジテーションに乗ると、「国民総痛み分け」をベースにした恐ろしいほどの格差社会が生まれるだろう。堤未果氏の「沈みゆく大国アメリカ」等のシリーズを読めばわかる。
争点は共産党のいうように「消費税再引き上げはきっぱり中止」だし、その先には穏やかな福祉国家が見えてくる。
重ねて言えば、消費税を上げれば福祉が充実するのでなく、消費税中心の税制こそが福祉を破壊するのである。
日本共産党は応能負担の税制を主張している。
(この記事は、二宮厚美神大名誉教授の講演記録を参考にさせていただいた。)
2014年11月18日火曜日
狐か狸
17日に発表された7~9月期GDPは、前期比△0.4%と2四半期連続のマイナスで、年率では△1.6%であったが、アベノミクスの張本人たちからも、アベノミクスの効果を煽りまくっていたエコノミストたちからも「謝罪の言葉」は一切報道されていなかった。
もちろん、「謝罪の言葉」なんぞは全く希望もしていないが・・・・、マスコミも含めて彼らのおかした犯罪的責任は大きいと思っている。
この動かしがたい事実(数字)は、結局、的確にこういう事態を予測していた日本共産党以外には、消費税引き上げを合意した自公民3党、それを煽った維新やみんな・・・には、この国の統治能力がなかったことを明らかにしたと思う。
可笑しいことは、写真のとおり我が国の三大証券が揃って大外れであったことで、当時の彼らの予想がほんとうだったとしたら、このようなエコノミストたちによって動かされている日本経済の未来はないというしかない。
ただ私は、穿ち過ぎかもしれないが、きっと超トップクラスの学歴を持ち百戦錬磨の戦場を潜り抜けてきた彼らがそんなに阿呆だとは思えない。
だとしたら、最後まで安倍内閣の手先となって統計を押し上げるよう、世論を誘導していたに違いないと私は考えている。
「政府と株屋は嘘をつく」
それでも国民に、大企業が潤えばそのうちにおこぼれが庶民に廻ってくると信じ続けろというのだろうか。
もちろん、「謝罪の言葉」なんぞは全く希望もしていないが・・・・、マスコミも含めて彼らのおかした犯罪的責任は大きいと思っている。
この動かしがたい事実(数字)は、結局、的確にこういう事態を予測していた日本共産党以外には、消費税引き上げを合意した自公民3党、それを煽った維新やみんな・・・には、この国の統治能力がなかったことを明らかにしたと思う。
可笑しいことは、写真のとおり我が国の三大証券が揃って大外れであったことで、当時の彼らの予想がほんとうだったとしたら、このようなエコノミストたちによって動かされている日本経済の未来はないというしかない。
ただ私は、穿ち過ぎかもしれないが、きっと超トップクラスの学歴を持ち百戦錬磨の戦場を潜り抜けてきた彼らがそんなに阿呆だとは思えない。
だとしたら、最後まで安倍内閣の手先となって統計を押し上げるよう、世論を誘導していたに違いないと私は考えている。
「政府と株屋は嘘をつく」
それでも国民に、大企業が潤えばそのうちにおこぼれが庶民に廻ってくると信じ続けろというのだろうか。
2014年11月17日月曜日
沖縄からの手紙
16日午後8時、テレビは沖縄知事選での翁長(おなが)候補当確のテロップを流した。
開票もしていないのにテレビ局が判断するなよ!との不満もあるにはあるが、それほどの圧勝であった。
政府自民党が「仲井眞知事なら予算をつける」的な買収行為まがいの利益誘導を繰り広げたのに沖縄県民はNOを回答した。
あるいは、翁長陣営の裏方をどっしり支えた日本共産党に引っ掛けての強烈なデマと反共宣伝にもNOを回答した。
また、那覇市長選でも後継者である城間氏が自公候補に勝利したから、これは確信的なNOである。
今回の結果は沖縄の良心であり沖縄の勇気の勝利だと私は思う。
沖縄から本土への、大阪への手紙だと思う。
よくテレビの選挙のニュースなどでは「町の声」的なインタビューが放映され、「誰がなっても同じ違うの」とか「よくわからない」と映し出されるが、それは間接的な批判のような体裁をとって権力者を利している報道姿勢だろう。
政府と米軍(米国)を相手に前知事が認可した辺野古の埋め立てを阻止することが相当困難なことは県民の誰もが解っていたと思う。
だから、札束が現実的だとの宣伝が吹き荒れたのだが、それにNOを言ったのだ。
私たち本土のヤマトンチュも勇気を持って、安倍内閣を批判して退陣させたいものだ。
嬉しいことに、この度は首相の方から総選挙を持ってきてくれた。
もう一度再確認しよう。
沖縄からの手紙には「投票すれば社会は変わる」と書いてある。
12月には、私たちは沖縄からの手紙に返事を出さなければならない。
私のブログは公職選挙法で許されたものになるので、引き続き自由な立場で政治と選挙を語っていきたい。
こんな時期でもあるので、コメントも安心してよろしくお願いします。
開票もしていないのにテレビ局が判断するなよ!との不満もあるにはあるが、それほどの圧勝であった。
政府自民党が「仲井眞知事なら予算をつける」的な買収行為まがいの利益誘導を繰り広げたのに沖縄県民はNOを回答した。
あるいは、翁長陣営の裏方をどっしり支えた日本共産党に引っ掛けての強烈なデマと反共宣伝にもNOを回答した。
また、那覇市長選でも後継者である城間氏が自公候補に勝利したから、これは確信的なNOである。
今回の結果は沖縄の良心であり沖縄の勇気の勝利だと私は思う。
沖縄から本土への、大阪への手紙だと思う。
よくテレビの選挙のニュースなどでは「町の声」的なインタビューが放映され、「誰がなっても同じ違うの」とか「よくわからない」と映し出されるが、それは間接的な批判のような体裁をとって権力者を利している報道姿勢だろう。
政府と米軍(米国)を相手に前知事が認可した辺野古の埋め立てを阻止することが相当困難なことは県民の誰もが解っていたと思う。
だから、札束が現実的だとの宣伝が吹き荒れたのだが、それにNOを言ったのだ。
私たち本土のヤマトンチュも勇気を持って、安倍内閣を批判して退陣させたいものだ。
嬉しいことに、この度は首相の方から総選挙を持ってきてくれた。
もう一度再確認しよう。
沖縄からの手紙には「投票すれば社会は変わる」と書いてある。
12月には、私たちは沖縄からの手紙に返事を出さなければならない。
私のブログは公職選挙法で許されたものになるので、引き続き自由な立場で政治と選挙を語っていきたい。
こんな時期でもあるので、コメントも安心してよろしくお願いします。
2014年11月15日土曜日
鈴懸の木
街路樹の落ち葉も風情があるが、それが自分の家の前の現実となると話は複雑になるようだ。
鈴懸の木(プラタナス)は幹もきれいで立派な街路樹だが、落ち葉の季節になると、茶色い大きな葉っぱが”バサッ バサッ”と投げつけるように落ちてきて側溝を塞いでしまうほどだから、そこの木の前の家の方は毎年秋にはボヤイテおられた。
だから、街路樹ではないが、近所に植わっている鈴懸の木(プラタナス)を見るたびにその人のことが思い出される。
つまらない薀蓄だが、鈴懸という名前の由来は、〽旅の衣は篠懸の~~ の勧進帳・安宅のとおり、この木の丸い実の形が山伏の結袈裟のぼんぼり(房)に似ていることから山伏の衣=篠懸(すずかけ)となったらしい。
しかし、そんな由来は最近まで知らなかった。
それよりも、一番身近には 〽友と語らん~ の灰田勝彦の「鈴懸の径」が思い出されるから、実際の鈴懸の木を知ったときにはそれまで抱いていたイメージよりもその黄葉の大雑把なことに違和感があった。
同じようなことは、作詞北山修の名曲、シューベルツの「風」の2番ぐらいの 〽プラタナスの枯葉舞う~ にも言えることで、鈴懸の木とかプラタナスという名前のもつロマンチックなイメージとは相当隔たった嫌われ者の落ち葉である。というか、誰も知らないことをいいことにプラスイメージだけが広まっている。
こういう風に、私だけかもしれないが、世の中のほとんどの事柄は知ってもいないのに解ったようなイメージだけで解ったような気になっている。
※ 上の写真の鈴懸の落ち葉は例外的に美しい落ち葉で、圧倒的にはただただ焦げ茶色のゴミのような落ち葉である。
黄葉ついでに・・・、近くの公園で「木津川アート」というイベントが行われていた。
木陰に鉄製の2匹の大きな蟻が展示されていた。ひとつは抽象で、写真のひとつは具象だった。
鉄製とはいかないが、木製あたりでちょっと真似をしてアートを作ってみたくなった。
この歳になると無芸大食が少し寂しい。
鈴懸の木(プラタナス)は幹もきれいで立派な街路樹だが、落ち葉の季節になると、茶色い大きな葉っぱが”バサッ バサッ”と投げつけるように落ちてきて側溝を塞いでしまうほどだから、そこの木の前の家の方は毎年秋にはボヤイテおられた。
だから、街路樹ではないが、近所に植わっている鈴懸の木(プラタナス)を見るたびにその人のことが思い出される。
つまらない薀蓄だが、鈴懸という名前の由来は、〽旅の衣は篠懸の~~ の勧進帳・安宅のとおり、この木の丸い実の形が山伏の結袈裟のぼんぼり(房)に似ていることから山伏の衣=篠懸(すずかけ)となったらしい。
しかし、そんな由来は最近まで知らなかった。
それよりも、一番身近には 〽友と語らん~ の灰田勝彦の「鈴懸の径」が思い出されるから、実際の鈴懸の木を知ったときにはそれまで抱いていたイメージよりもその黄葉の大雑把なことに違和感があった。
同じようなことは、作詞北山修の名曲、シューベルツの「風」の2番ぐらいの 〽プラタナスの枯葉舞う~ にも言えることで、鈴懸の木とかプラタナスという名前のもつロマンチックなイメージとは相当隔たった嫌われ者の落ち葉である。というか、誰も知らないことをいいことにプラスイメージだけが広まっている。
こういう風に、私だけかもしれないが、世の中のほとんどの事柄は知ってもいないのに解ったようなイメージだけで解ったような気になっている。
※ 上の写真の鈴懸の落ち葉は例外的に美しい落ち葉で、圧倒的にはただただ焦げ茶色のゴミのような落ち葉である。
黄葉ついでに・・・、近くの公園で「木津川アート」というイベントが行われていた。
木陰に鉄製の2匹の大きな蟻が展示されていた。ひとつは抽象で、写真のひとつは具象だった。
鉄製とはいかないが、木製あたりでちょっと真似をしてアートを作ってみたくなった。
この歳になると無芸大食が少し寂しい。
2014年11月13日木曜日
これも戦後レジーム?
安倍首相が「脱却したい」「否定したい」という戦後レジームとは、要するに「戦後民主主義体制」のことだろう。彼にはそれが、「押し付けられた体制」「ポツダム民主主義」に見えているらしい。
そのことが‟さもありなん”と思わせることが国会であった。
カジノ法案を巡る宮本岳志衆議院議員の「なぜ賭博が刑法で禁じられているのか」との問いに、法務省は、「賭博行為は、勤労その他正当な原因によらず、単なる偶然の事情により財物を獲得しようと他人と相争うもので、国民の射幸心を助長し、勤労の美風を害するばかりでなく、副次的は犯罪を誘発し、さらに国民経済の機能に重大な障害を与えるおそれすらあることから、社会の風俗を害する行為として処罰することとされている」と答弁した。
この答弁の背景には昭和25年11月22日最高裁大法廷判決があり、「賭博行為は・・・勤労その他正当な原因によるのでなく、単なる偶然の事情により財物の獲得を僥倖(ぎょうこう)せんと相争うがごときは、国民をして怠惰浪費の弊風(へいふう)を生ぜしめ、健康で文化的な社会の基礎をなす勤労の美風(憲法27条1項参照)を害するばかりでなく、はなはだしきは暴行、脅迫、殺傷、強窃盗その他の副次的犯罪を誘発し、または国民経済の機能に重大な障害を与える恐れすらあるのである」と断じている。(以上のことは宮本議員のFBで知った)
近頃の風潮からすると「青臭い理想論」に思えるかもしれないが、この国のある種青春時代の直球勝負の正論であり、その時代の同種の正論(労働法も)が戦後民主主義の礎を築いたのだ。
だから、不労所得者の利益を代弁する安倍首相がカジノ法案を推進し、戦後レジームからの脱却を叫ぶのも全て符号は合っている。
内田樹氏は、パチンコのようなものは裏町の景品交換所で半ば後ろめたく換金する程度がよいという趣旨のことを言っているが、私もおおむね賛成である。
世の中「白か黒か」で割り切れないことぐらいこの歳になると判っている。
しかし、ベースには青臭いほどの正論を踏まえておかないと、ホンネばかりでは人間は下品になる。
戦後レジーム万歳!
そのことが‟さもありなん”と思わせることが国会であった。
カジノ法案を巡る宮本岳志衆議院議員の「なぜ賭博が刑法で禁じられているのか」との問いに、法務省は、「賭博行為は、勤労その他正当な原因によらず、単なる偶然の事情により財物を獲得しようと他人と相争うもので、国民の射幸心を助長し、勤労の美風を害するばかりでなく、副次的は犯罪を誘発し、さらに国民経済の機能に重大な障害を与えるおそれすらあることから、社会の風俗を害する行為として処罰することとされている」と答弁した。
この答弁の背景には昭和25年11月22日最高裁大法廷判決があり、「賭博行為は・・・勤労その他正当な原因によるのでなく、単なる偶然の事情により財物の獲得を僥倖(ぎょうこう)せんと相争うがごときは、国民をして怠惰浪費の弊風(へいふう)を生ぜしめ、健康で文化的な社会の基礎をなす勤労の美風(憲法27条1項参照)を害するばかりでなく、はなはだしきは暴行、脅迫、殺傷、強窃盗その他の副次的犯罪を誘発し、または国民経済の機能に重大な障害を与える恐れすらあるのである」と断じている。(以上のことは宮本議員のFBで知った)
近頃の風潮からすると「青臭い理想論」に思えるかもしれないが、この国のある種青春時代の直球勝負の正論であり、その時代の同種の正論(労働法も)が戦後民主主義の礎を築いたのだ。
だから、不労所得者の利益を代弁する安倍首相がカジノ法案を推進し、戦後レジームからの脱却を叫ぶのも全て符号は合っている。
内田樹氏は、パチンコのようなものは裏町の景品交換所で半ば後ろめたく換金する程度がよいという趣旨のことを言っているが、私もおおむね賛成である。
世の中「白か黒か」で割り切れないことぐらいこの歳になると判っている。
しかし、ベースには青臭いほどの正論を踏まえておかないと、ホンネばかりでは人間は下品になる。
戦後レジーム万歳!
2014年11月11日火曜日
寒肥の季節
間もなく寒肥の季節がやって来るので、我が家から遠くない地の「三春の滝桜(みはるのたきざくら)の子孫樹」の衰弱ぶり、つまり手入れが必要だということについて、京都の地方紙に投稿して掲載された。
内容は、ロータリークラブが植樹をした立派な滝桜だったが、その後は誰も手入れをしないので衰弱しつつあり、「育てる会」でもできないものか・・・というもの。
どうしてそういう回りくどい投稿をしたのかというと、その地が隣の自治体だからである。
自治体の境界というのは得てして清掃工場などの「嫌悪施設」を造りあいしたりして、いろいろ難しいことがある。
11月2日付けの「跳び出し注意の看板にライトを設置した」記事についても、その場所は我が自治体であるが、もし事故が起こったらその看板の前の十字路は隣の自治体というところ。
近世以前なら市(いち)が立ちアジールが形成されるところ(網野善彦)だろうが、現代はややこしいだけである。
この桜も、自治体の中心部ならきっとこんなことにはなっておらず、自治体の端(はずれ)なために打ち捨てられているのだろう。
もう一つ、そこは「ハイタッチリサーチパーク」と名付けられた企業群の間にあり、普通の民家には接していない。
と思うと、周囲の美や健康やなんかをウリにしている企業の精神の貧弱さも露呈しているように私は思う。先年までは、PHP研究所もあったのだ。
一言で言えば、周辺の企業は我が町内のことであっても「儲けにならないことには見て見ぬふり」をしているようだ。
そして自治体も、ロータリークラブも…。
現実問題としては、寄贈してそのプレートも飾っているロータリークラブこそ率先垂範すべきだと思うが・・・。
三春の滝桜の子孫樹は、故郷フクシマは見捨てられ、新天地でも本人が見捨てられ、どうにも可哀想な桜だと思う。
写真のとおり、真ん中に天井のように支柱が立っているが、もともとはこの上にまで枝があり、支柱は枝垂れる枝を受けていたもの。つまり、一回り二回り小さくなったことを表している。
なお、掲載翌日には木津川市の共産党の市会議員から「読みました」「現地を見てきました」「知りませんでした」「早速取り組みます」と電話があった。ありがたいことである。
内容は、ロータリークラブが植樹をした立派な滝桜だったが、その後は誰も手入れをしないので衰弱しつつあり、「育てる会」でもできないものか・・・というもの。
どうしてそういう回りくどい投稿をしたのかというと、その地が隣の自治体だからである。
自治体の境界というのは得てして清掃工場などの「嫌悪施設」を造りあいしたりして、いろいろ難しいことがある。
11月2日付けの「跳び出し注意の看板にライトを設置した」記事についても、その場所は我が自治体であるが、もし事故が起こったらその看板の前の十字路は隣の自治体というところ。
近世以前なら市(いち)が立ちアジールが形成されるところ(網野善彦)だろうが、現代はややこしいだけである。
この桜も、自治体の中心部ならきっとこんなことにはなっておらず、自治体の端(はずれ)なために打ち捨てられているのだろう。
もう一つ、そこは「ハイタッチリサーチパーク」と名付けられた企業群の間にあり、普通の民家には接していない。
と思うと、周囲の美や健康やなんかをウリにしている企業の精神の貧弱さも露呈しているように私は思う。先年までは、PHP研究所もあったのだ。
一言で言えば、周辺の企業は我が町内のことであっても「儲けにならないことには見て見ぬふり」をしているようだ。
そして自治体も、ロータリークラブも…。
現実問題としては、寄贈してそのプレートも飾っているロータリークラブこそ率先垂範すべきだと思うが・・・。
三春の滝桜の子孫樹は、故郷フクシマは見捨てられ、新天地でも本人が見捨てられ、どうにも可哀想な桜だと思う。
写真のとおり、真ん中に天井のように支柱が立っているが、もともとはこの上にまで枝があり、支柱は枝垂れる枝を受けていたもの。つまり、一回り二回り小さくなったことを表している。
なお、掲載翌日には木津川市の共産党の市会議員から「読みました」「現地を見てきました」「知りませんでした」「早速取り組みます」と電話があった。ありがたいことである。
2014年11月9日日曜日
八本脚の仮説に遊ぶ
2013.10.20の記事に貼付した写真 |
その1 製作者が蝶や昆虫について無知なため誤って8本にしたという仮説。
その花瓶は元禄5年(1692)の元禄開眼会の折りに池坊の藤掛似水が寄贈したものらしいから、そんな「出来損ない」を寄贈したとは私は思えない。
その2 突然変異の蝶を見つけて感動してデザインしたという仮説。
この説は少し楽しい。「奈良観光」というネットに紹介されていたが、この蝶を見たスイス・バーゼル大学ワルター・ゲーリング博士は「歴史上最初のホメオティック突然変異の発見者は日本人だ」と驚嘆したと、東大出版会の著書名をあげて書いている。でもねえ。
その3 仏教に紛れ込んだ道教(陰陽道)が八という数字を目出度いものとしたからという仮説。
中国の古代思想に「八觚」「八通」「八卦」「八節」「八風」「八方」等『八』を重視した考えが見受けられるが、だからと言って、なかなか八本脚にまでは辿り着かない。
その4 蝶は神仏の使いであるからという仮説。
変態する蝶が「不死不滅」「不死→吉祥」「輪廻転生」「霊魂の化身」「異界と往復する」のイメージと重なるというのは、能等でもいくつも確認できるから、阿修羅のごとく千手観音のごとくその霊力を表現したと考えうるが、では、八本の脚は何を表現しているのかなかなか想像が及ばない。
その5 「寄る辺の定まらぬ様」の補強という仮説。
中国古典、源氏、能でのもう一つの蝶のイメージは「寄る辺の定まらぬ様」であるから、そのマイナスイメージを八本脚でしっかりと花瓶(仏前)を掴むことで克服しようとしたとは穿ち過ぎか。
その6 桃山文化後の遊び心の装飾性という仮説。
以上5つの仮説を検討したがもう一つピンとこなかった。
そんな検討の過程で「新日本大歳時記・春」の「蝶の意匠」を見ていたところ、『梅樹揚羽蝶紋様狩衣』(黄地蝶梅文様繍狩衣)白山長滝神社(白山中宮長滝寺)の宝物が飛び込んできた。明らかに八本脚である。
元和6年(1620)の墨書があるというから家光の時代である。
これは、前5つの仮説を下敷きにした作家のデザイン力、デフォルメではなかろうか。
花瓶はその72年後の元禄時代で、時代の気風はよく似ていたのでは…。
ということで、私の辿り着いた感想は、5つの説を下敷きにしながらも、われらが先輩である職人が「六本脚では物足りない」との遊び心で膨らませたデザインだという説に納得したい。
そして、「こんな蝶々見たことあるか!」と造った先輩たちの遊び心に、300有余年後の平成人が首を捻っているのを、高いところから先輩たちが笑っているのを想像すると一緒にこちらも笑いたくなるから、我々は先輩たちの思う壺にはまっているのである。
かつて上岡龍太郎氏が弁護士であった父の思い出を語って、「ベンゴシもマンザイシもシは同じやが人の不幸で商売しているベンゴシより人を楽しませて商売しているマンザイシの方が上や」と父親に言われたというようなことを聞いた気がする。
歳がいくと難しそうな顔をして感情を抑制して生きるのが正しいと思っている方もおられるが、「いやいや、常識の外に笑いと遊び心を羽ばたかせませんか」と大仏殿の蝶は御仏の伝言を私たちに教えているのではないだろうか。
2014年11月7日金曜日
植物は不思議だらけ
妻がフジバカマの匂い袋制作中 |
この清楚な香りを発するフジバカマが有毒などと信じられないが事実は小説よりも奇なり。
道で母娘と思しき二人連れが楝(おうち)の実を採ろうとしていたので、「試してはいませんが有毒ですよ」と声をかけたら驚いておられた。
その実を晩秋以降ムクドリやヒヨドリが盛んに啄ばむのも考えれば不思議だ。
実母が老人ホームに入所していたとき、スタッフがたわわな赤い実の木で部屋を飾っていた。
そして「この木は何でしょうねえ」と私に聞くので、「ピラカンサです。有毒です」と正直に答えてちょっとだけ反省した。(せっかくの華やいでいたムードに冷風を送ったよう)
美味しい秋茱萸 |
圧倒的な野草も大部分の野菜も基本的には有毒だと本に書いてある。
キャベツを食べたペットが死んだり、犬がタマネギやカカオで死ぬこともある。
そして、人間だけは食べられたり、ある種の野鳥や昆虫だけは食べられるということもあるから、進化論というものも考えれば考えるほど解らない。(それが進化論だとの説もあるが)
だから、自然食という言葉の響きに乗って無闇に自然界に手を出すのは危険だが、どう見ても安全な秋茱萸(ぐみ)が道端に実っていた。
経験則上これは問題ない。
びっくり茱萸はもちろん一般的な夏茱萸に比べても小粒であるが、野鳥のようにこれを主食にするのでもないから文句はない。
誰もが通る遊歩道にあるので、今度孫が来たときにまだ残っているかどうか。ということで写真の分を冷蔵庫に保管した。
2014年11月5日水曜日
カジノ以上のギャンブルかも
「アベノミクスは日本を壊す」と 舌鋒スルドイ浜矩子同大院教授 ※印は教授の指摘 |
おかげで、それまであった近隣の中規模スーパーは次々に廃業していった。
その勝ち組であるはずのイオンモールの中がシャッター通りになりつつある。嘘のようなほんとうの話である。
9月の世帯当たり消費支出が前年同月比△5.6%と消費者の収入が減っているのだから当然かもしれないが、進行しつつある日本経済の未来に暗澹となる。
4~6月期のGDPは年率△7.1%。家計消費は△19.5%。安倍首相が言い訳に使った名目総雇用者所得も実質総雇用者所得では大幅に減っている。
世界トップクラスの「豊かな経済社会ニッポン」で相対的貧困率が16%に及び、それはデンマークの3倍以上となっている。※
OECDのデータで『就労していないひとり親世帯の貧困率50.4%に対し就労しているひとり親世帯の貧困率が50.9%』ということは、日本の非正規雇用問題が人権問題のレベルであることを示している。
いま再確認が必要なことは、デフレ問題は経済の成長力の不足が原因ではなく、分配がきちんとできていないことなのだ。※
それでも政府はアベノミクスを自慢し、メディアはそれを垂れ流す。4日の夕刊の株価を報じる見出しを見よ。それは景気の偽装ではないか。
実質賃金が14か月連続マイナス、その下げ幅拡大(毎月勤労統計)でも好景気だと???
塩崎厚労相は年金財源の国内外の株式投資率を各12%から25%に引き上げた。計50%。
黒田日銀総裁は長期国債の買い入れを年30兆円増の80兆円に拡大するなど、更なる金融緩和で円安、株高を演出した。実態の伴わないマネーゲーム以外の何ものでもない。
その日本株式市場のシェアの6割以上はハゲタカファンド等外国人投資家だから(日経)、どこかで彼らは売り抜く。当たり前だ。
かつての米国サブプライムローンのように、実体のないマネーゲームが永久に続くはずがない。そんなことは株をしている人々はみんな解っている。
もちろんそのとき株は暴落する。そして、年金財源は大損をする。
誰もがその前に売り抜けようと考えているのだろうが、誰もが損をしないことは絶対にありえない。絶対にありえない。
大臣が辞任しようが総裁が更迭されようが失ったお金は帰ってこない。
泣くのは年金受給者と被雇用者、つまり庶民である。
そんな風になりたくはないが必ずそうなる。
この国にカジノは要らない。
なぜなら、国民生活全部がギャンブルに賭けられているのだから。
どんなギャンブラーもこれほどえげつなくスリリングなギャンブルを見たことはないだろう。
このブログ記事が「取り越し苦労」であったという方に私は賭けたいのだが、そのためには沖縄をはじめとする地方選挙で自民党を落とし共産党を伸ばし、「安倍内閣とアベノミクスでは選挙は戦えない」と彼らに思い知らせることが大切だ。
この方法はカジノよりも堅実で現実的だ。
2014年11月3日月曜日
昭和は遠く
銀杏散る昭和は遠くなりにけり 詠み人知らず。
歴史の生き証人が順に鬼籍に入るのをよいことに、歴史を修正しようとする人々が跋扈しているから、そのうちに「文化の日とは明治天皇誕生日を祝日にしたものだ」と言うような人士が出てくるかもしれないからあえて書いておくが、これは日本国憲法公布の日を祝したものである。
公布は、当初は11月1日の予定であったがたまたま3日になったらしい。
小学校の頃は、「憲法発布の日」という言い方も多かった。
その憲法に難癖をつけて、押しつけ憲法だ、だから改憲だと主張する向きもあるが、戦後69年の事実で検証すれば、この国の平和と人権等に果たした役割はとてつもなく大きく、バランスシートが大黒字だというのが素直な評価だと思う。
朝ドラの「マッサン」では、壽屋(後のサントリー)の鳥井社長かその子の佐治敬三氏を想像させる鴨居社長の性格描写が少々えげつなくてサントリー関係の人びとは弱っているとの週刊誌の広告があったが、その佐治敬三氏が中心になって、サンフランシスコ講和条約発効1周年を機に、新しい国歌を作ろうとした運動があった。
佐治敬三氏は、後に黒田革新大阪府政に対抗する行動をしたり、東北の人びとを熊襲と言ったり問題の多い人であったが、戦後のそのとき彼は偉かった。
その呼びかけに応えた約5万点の応募曲の中からサトウハチローや山田耕作らの審査を経て選ばれた一曲が「われら愛す」という歌だった。幻の国歌とも言われている。
小学生であった私はこの歌を歌った。そして、近い将来この歌が国歌になると思っていたのだが・・・、この国に、こんな希望に燃えた青春時代があったことも今では遠い記憶の彼方に忘れ去られようとしている。(歌はYouTubeで聴くことができる)
来年は戦後70年。その1年前の憲法発布の日に、こんな記憶を書いておくことも全く意味がないこともないだろう。
今になると、「歴史的仮名づかひ」も妙に味がある。
同じような時代に「緑の山河」という国歌候補曲もあったが、それを歌う機会は私にはなかった。
『われら愛す』
作詞 芳賀秀次郎
作曲 西崎嘉太郎
一、われら愛す 二、われら歌ふ
胸せまる あつきおもひに かなしみの ふかければこそ
この国を われら愛す この国の とほき青春
しらぬ火 筑紫のうみべ 詩ありき 雲白かりき
みすずかる 信濃のやまべ 愛ありき ひと直かりき
われら愛す 涙あふれて われら歌ふ をさなごのごと
この国の 空の青さよ この国の 高きロマンを
この国の 水の青さよ この国の ひとのまことを
三、われら進む
かがやける 明日を信じて
たじろがず われら進む
空に満つ 平和の祈り
地にひびく 自由の誓ひ
われら進む かたくうでくみ
日本の きよき未来よ
かぐわしき 夜明けのかぜよ
歴史の生き証人が順に鬼籍に入るのをよいことに、歴史を修正しようとする人々が跋扈しているから、そのうちに「文化の日とは明治天皇誕生日を祝日にしたものだ」と言うような人士が出てくるかもしれないからあえて書いておくが、これは日本国憲法公布の日を祝したものである。
公布は、当初は11月1日の予定であったがたまたま3日になったらしい。
小学校の頃は、「憲法発布の日」という言い方も多かった。
その憲法に難癖をつけて、押しつけ憲法だ、だから改憲だと主張する向きもあるが、戦後69年の事実で検証すれば、この国の平和と人権等に果たした役割はとてつもなく大きく、バランスシートが大黒字だというのが素直な評価だと思う。
朝ドラの「マッサン」では、壽屋(後のサントリー)の鳥井社長かその子の佐治敬三氏を想像させる鴨居社長の性格描写が少々えげつなくてサントリー関係の人びとは弱っているとの週刊誌の広告があったが、その佐治敬三氏が中心になって、サンフランシスコ講和条約発効1周年を機に、新しい国歌を作ろうとした運動があった。
佐治敬三氏は、後に黒田革新大阪府政に対抗する行動をしたり、東北の人びとを熊襲と言ったり問題の多い人であったが、戦後のそのとき彼は偉かった。
その呼びかけに応えた約5万点の応募曲の中からサトウハチローや山田耕作らの審査を経て選ばれた一曲が「われら愛す」という歌だった。幻の国歌とも言われている。
小学生であった私はこの歌を歌った。そして、近い将来この歌が国歌になると思っていたのだが・・・、この国に、こんな希望に燃えた青春時代があったことも今では遠い記憶の彼方に忘れ去られようとしている。(歌はYouTubeで聴くことができる)
来年は戦後70年。その1年前の憲法発布の日に、こんな記憶を書いておくことも全く意味がないこともないだろう。
今になると、「歴史的仮名づかひ」も妙に味がある。
同じような時代に「緑の山河」という国歌候補曲もあったが、それを歌う機会は私にはなかった。
『われら愛す』
作詞 芳賀秀次郎
作曲 西崎嘉太郎
一、われら愛す 二、われら歌ふ
胸せまる あつきおもひに かなしみの ふかければこそ
この国を われら愛す この国の とほき青春
しらぬ火 筑紫のうみべ 詩ありき 雲白かりき
みすずかる 信濃のやまべ 愛ありき ひと直かりき
われら愛す 涙あふれて われら歌ふ をさなごのごと
この国の 空の青さよ この国の 高きロマンを
この国の 水の青さよ この国の ひとのまことを
三、われら進む
かがやける 明日を信じて
たじろがず われら進む
空に満つ 平和の祈り
地にひびく 自由の誓ひ
われら進む かたくうでくみ
日本の きよき未来よ
かぐわしき 夜明けのかぜよ
2014年11月2日日曜日
修繕工事
設置してあったソーラーライトが故障したので新しい器具を購入して修繕工事を行った。
その場所は我が家の裏の遊歩道である。
小山のようになった陸橋から自転車が下ってくるのと子供が出合い頭に衝突する可能性があるので、「跳び出し坊や」のような立看板を立ててあるのだが、これにソーラーライトを再設置した。
ソーラーパネルは我が家の庭に設置し看板までコードを引いてある。
写真のとおり効果は抜群で修繕工事の出来栄えには我ながら気をよくしている。
しかし、この場所は公道で、公道に私的な工事をしたことになるのだが、これって、もしかしたら良くないこと?
歳をとるというのも悪いことではなく、歳をとるとこのように堂々と「お節介爺さん」になることができる。
文句のある人は言ってきなさい。
その場所は我が家の裏の遊歩道である。
小山のようになった陸橋から自転車が下ってくるのと子供が出合い頭に衝突する可能性があるので、「跳び出し坊や」のような立看板を立ててあるのだが、これにソーラーライトを再設置した。
ソーラーパネルは我が家の庭に設置し看板までコードを引いてある。
写真のとおり効果は抜群で修繕工事の出来栄えには我ながら気をよくしている。
しかし、この場所は公道で、公道に私的な工事をしたことになるのだが、これって、もしかしたら良くないこと?
歳をとるというのも悪いことではなく、歳をとるとこのように堂々と「お節介爺さん」になることができる。
文句のある人は言ってきなさい。
2014年11月1日土曜日
黒部の山賊
子供たちが小さかった頃、毎年北アルプスなどへ、ファミリー登山に行っていた。
そして、大きくなった息子はそのような自分の思い出(つまり私たち両親の子育て)を肯定してくれたのだろう、同じように小さな子(私の孫)を連れてあっちこっちに行っている。
8月末に息子たちファミリーが立山の室堂に行き、携帯で「今ここにいます。見えてますか?」と連絡してきた。
室堂には定点ライブカメラが設置されており、パソコンやスマホを開けるとライブで様子(人々まで)が判るので、隔世の感を深くした。
私が山に行っていた頃はライブカメラどころか携帯もテレビもなく、地上とは隔離された別世界だった。
立山の内蔵助(くらのすけ)山荘に泊った翌年、その小屋のすぐ目の前で多数の遭難者が亡くなっていたという事故があったが、霧にまかれたときには10m先の小屋が見えずに力尽きたというのも実感としてよく理解できた。
現職の頃は事務所が閉鎖されての夏休みというものが無く、皆で調整して夏期休暇と年次有給休暇を取りましょうというものだったから、結局、部下の休暇を優先したりしているうちに長期休暇が取れずにいた。
それだけでもないが、雲ノ平、裏銀座縦走は何回も計画しながら結局行かずじまいだった。そこは黒部の源流である。
山登りは体育部というよりも文化部だと私は思う。
自然のすごさを知り、人間の小ささや薄っぺらい「文化」や「便利さ」の頼りなさを否応なしに教えてくれた。自然への畏敬というものである。
そんな北アルプス登山黎明期には、「文化」以前のバケモノもカッパも遭難者の幽霊もいた。そして山賊がいた。
伊藤正一著「黒部の山賊」山と渓谷社はそんな時代の嘘のような本当の話である。
山賊と言われた猟師たちの驚異的な体力と運動能力、後年彼らが都会に出たときには「道が滑って怖い」と歩けなかったこと、そして数々の自然の驚異と遭難、・・・熊とバケモノ・・・・近代化する法秩序との矛盾、現代に通じる人間の諸問題も考えさせられる。
この本は、昭和39年に出版され、平成6年に新版刊行、そして本年、「定本」として三度出版されたものである。
伊藤正一氏は労山(日本勤労者山岳連盟)の創設者の一人で、北アルプスでは有名な小屋主だった。そして、林野庁の一方的な地代改訂に裁判闘争をした人としても有名だった。
先日の御嶽山の噴火事故でも、テレビニュースは自衛隊や消防隊をクローズアップしていたが(彼らの努力は大きく評価するが)、小屋主や山小屋スタッフらの命を顧みないような努力で相当な人々が助かっていることを思い返したい。
10月31日付け朝日・声欄にも、噴火時に山頂にいた方の「山小屋の方々に感謝」という投稿が載っていた。
定本・黒部の山賊(定価本体1200円)山と渓谷社は、一気に読んでしまうのが惜しいから、秋の夜長にゆっくりとページをめくるのがよい。
そうしていると、どこか遠くからオーイオーイと声が聞こえてくる。
その声にオーイと応えると山では二度と生きては帰れない。
黒部市のホームページに2011年に「黒部峡谷欅平から祖母谷方面へ向かわれる方へ!」というお知らせがあり、写真の看板のことが詳しく「注意」されていた。(今はない)
看板には、「危ないんだぞーっ!」・・という標題の下に、「生きている黒部を押さえ込むことは人間には不可能です!」「怖いと思ったら、ここで引き返してください!」「しかし・・・自己責任で訪れた方にはきっと感動を与えてくれることでしょう。」とある。
いいねえ!
(写真の上でクリックすれば拡大されると思います。)
本日(11/1)、過労死防止法が施行された。
危ないんだぞーっ!、長時間過密労働は。
怖いと思ったら、そこで引き返してください。
そして、大きくなった息子はそのような自分の思い出(つまり私たち両親の子育て)を肯定してくれたのだろう、同じように小さな子(私の孫)を連れてあっちこっちに行っている。
8月末に息子たちファミリーが立山の室堂に行き、携帯で「今ここにいます。見えてますか?」と連絡してきた。
室堂には定点ライブカメラが設置されており、パソコンやスマホを開けるとライブで様子(人々まで)が判るので、隔世の感を深くした。
私が山に行っていた頃はライブカメラどころか携帯もテレビもなく、地上とは隔離された別世界だった。
立山の内蔵助(くらのすけ)山荘に泊った翌年、その小屋のすぐ目の前で多数の遭難者が亡くなっていたという事故があったが、霧にまかれたときには10m先の小屋が見えずに力尽きたというのも実感としてよく理解できた。
現職の頃は事務所が閉鎖されての夏休みというものが無く、皆で調整して夏期休暇と年次有給休暇を取りましょうというものだったから、結局、部下の休暇を優先したりしているうちに長期休暇が取れずにいた。
それだけでもないが、雲ノ平、裏銀座縦走は何回も計画しながら結局行かずじまいだった。そこは黒部の源流である。
山登りは体育部というよりも文化部だと私は思う。
自然のすごさを知り、人間の小ささや薄っぺらい「文化」や「便利さ」の頼りなさを否応なしに教えてくれた。自然への畏敬というものである。
そんな北アルプス登山黎明期には、「文化」以前のバケモノもカッパも遭難者の幽霊もいた。そして山賊がいた。
伊藤正一著「黒部の山賊」山と渓谷社はそんな時代の嘘のような本当の話である。
山賊と言われた猟師たちの驚異的な体力と運動能力、後年彼らが都会に出たときには「道が滑って怖い」と歩けなかったこと、そして数々の自然の驚異と遭難、・・・熊とバケモノ・・・・近代化する法秩序との矛盾、現代に通じる人間の諸問題も考えさせられる。
この本は、昭和39年に出版され、平成6年に新版刊行、そして本年、「定本」として三度出版されたものである。
伊藤正一氏は労山(日本勤労者山岳連盟)の創設者の一人で、北アルプスでは有名な小屋主だった。そして、林野庁の一方的な地代改訂に裁判闘争をした人としても有名だった。
先日の御嶽山の噴火事故でも、テレビニュースは自衛隊や消防隊をクローズアップしていたが(彼らの努力は大きく評価するが)、小屋主や山小屋スタッフらの命を顧みないような努力で相当な人々が助かっていることを思い返したい。
10月31日付け朝日・声欄にも、噴火時に山頂にいた方の「山小屋の方々に感謝」という投稿が載っていた。
定本・黒部の山賊(定価本体1200円)山と渓谷社は、一気に読んでしまうのが惜しいから、秋の夜長にゆっくりとページをめくるのがよい。
そうしていると、どこか遠くからオーイオーイと声が聞こえてくる。
その声にオーイと応えると山では二度と生きては帰れない。
黒部市のホームページに2011年に「黒部峡谷欅平から祖母谷方面へ向かわれる方へ!」というお知らせがあり、写真の看板のことが詳しく「注意」されていた。(今はない)
看板には、「危ないんだぞーっ!」・・という標題の下に、「生きている黒部を押さえ込むことは人間には不可能です!」「怖いと思ったら、ここで引き返してください!」「しかし・・・自己責任で訪れた方にはきっと感動を与えてくれることでしょう。」とある。
いいねえ!
(写真の上でクリックすれば拡大されると思います。)
本日(11/1)、過労死防止法が施行された。
危ないんだぞーっ!、長時間過密労働は。
怖いと思ったら、そこで引き返してください。