先日、奈良女子大学 小路田奏直副学長の「邪馬台国論争とは何か」という講演を受講した。
百家争鳴の感のある邪馬台国の所在地論争に関わって、各学者の主張と根拠、その批判というような話かと思って臨んだのだが、全く予想外の話の展開であったので驚くとともに、刺激的で楽しい数時間であった。
その、一番私が刺激的だと感じた話のくだりを乱暴極まりなく短く言ってしまえば、次のような事であった。
先生は、魏志倭人伝を素直に読めば邪馬台国は畿内のヤマトだと言う。
「
南と東の問題」でいえば、当時の中国の地理(地図)の常識は倭(日本列島)の国の最北は九州であり本州は右に90度曲がっていた。つまり、近畿は九州の南にあったことになる。この説には私も大いに説得力を感じている。
次に、「
不弥国から水行20日で投馬国、さらに水行10日陸行1月で邪馬台国という問題」でいえば、日本海ルートを使えば投馬国は出雲であり由良川・加古川ルート等を陸行すれば1月でヤマトに着くという。これは私が別に読んだ「出雲と大和」を著した村井康彦氏もそのように述べている。
このように、素直に読めばヤマトになるものを「邪馬台国は九州である」と最初に主張した東京帝大白鳥庫吉博士は何故そのように主張したのか?・・・・ここからが講演の本題になる。
私も、邪馬台国の所在地論争が東京帝大の白鳥庫吉対京都帝大内藤湖南の論争から始まったことぐらいは知っていたが、それは単に、方角や距離の記述に関する解釈の異同だと思っていた。
しかし、これに関して近代史が専門の小路田先生は、1905年(明治38年)に日露戦争が終わり、1907年に帝国国防方針が制定され、1910年に日韓併合・・
という1910年に、国策樹立の重要なシンクタンクである東京帝大で、白鳥庫吉という
いたって政治的な人物によって唱えられたことの意味を考えろと言うのである。
日本史(国史)の原則のようなものが未だ定まっていない時代に、西欧的な実証主義的な思想史では神の国も万世一系も成り立たず、水戸学的な史観でも中華文明が前に出すぎる。そうではなく、この国は朝鮮や中国には及びもつかない高度な文明を独自に作って来たという史学が当時の明治国家には必要であったのだ。
ところが、とんでもないことに史上最古の文献である魏志倭人伝には、文明発生期のこの国はそもそも魏の属国であったということが書いてある。
そこでそれを乗り越えるべく白鳥が考えついた結論が、倭人伝の邪馬台国と卑弥呼は九州の地方政権のことである。現天皇に繋がる真の大和政権は畿内において独自に高い文明国家を築いていたのだ。この歴史こそが正史であるというロジックだった。つまり邪馬台国九州説。
そうなると、以降の渡来の諸文化は、その折々に文明人たる日本人が主体的に取捨選択して取り入れ活用したということになってはなはだ都合がよい。(現代に脱線するが、そういう論調は現在も少なからず聞こえてくる。)
・・・・・等等々、という邪馬台国論争史は、脱亜して列強の一員になるべく選ばれた国にとってその当時必要な学説であった・・・という、つまりこの問題は近代史であるとの指摘に、言い古された形容ながら目から鱗が剥がれるような刺激を味わった。
私は、この話の内容をより深く知りたくて先生の著書を書店に注文したが絶版になっていた。ジュンク堂にもなかった。
国立国会図書館関西館(東京の本館にはある)や邪馬台国論争の一方の当事者たる奈良県や奈良市の図書館にもなかった。古代史に強い奈良大学の図書館にもなかった。そこで、そうだと思いついて、先生のお膝元の奈良女子大学の図書館に行って春の1日十分に読ませていただいた。
それらを書くと膨大になるのでもう止めるが、今現代、文科省が竹富町教委に育鵬社版公民教科書を使えと命令し圧力をかけている。その育鵬社版教科書作成とその採択運動、その他復古的統制的な教育改革運動を代表する、いわゆる自由主義史観派の代表メンバーである西尾幹二氏や坂本多加雄氏の主張は、当時の白鳥庫吉氏と同じで、「歴史(学)とは事実の模写ではなく、今を生きるために過去に「筋」をつける物語だ」と言うことであるとの指摘も心に響いた。ただ先生は、自由主義史観派に反対する学者の中にもよく似た論のあることを、津田(左右吉)史学の分析を踏まえて指摘されていて重要な事柄であるが、長くなるので省略する。
となると、邪馬台国論争史も近代史であるとともに
現代史ではないか。
古代史を、再び偏狭なナショナリズムを牽引するために「つくられた学問」にしてはならない。
現代の良識ある知識人が、偏狭なナショナリズムを鼻で笑い相手にもしない間に、それは教育を通じて、書籍やマスメディアを通じて跳梁しつつある。さてどうするか。