2014年4月30日水曜日

バースデープレゼント

  月が替わると孫の夏ちゃんの3歳の誕生日である。
 2012年5月6日のブログに書いたが、1歳の誕生日には手作りの『押し車』をプレゼントした。
 プレゼントしたといっても我が家に置いてあるのだが、それは今でも健在で、孫がやって来た時には引っ張って電車にしたり、押して運搬車になったり、またがって自動車にと遊んでくれている。
 で、今年はというと両親が「自転車を買う」というので、その自転車代を我が家がプレゼントすることになったのだが、私としてはそれでは少し寂しい。
 ということで、例によって、今回はシーソーを手作りすることにした。
 設計図も何にもなく、とりあえずコーナンの木材売り場に行った。
 木材を見ながら頭の中でイメージを広げてみた。
 そして、〆て千数百円で作業を開始した。
 ただただ危険の無いように頑丈にというのを心掛けた。
 工夫したのは、大人と幼児でも遊べるようにと、支点を多段式にしたことだ。
 そういえば、近頃は公園等に動く遊具が少なくなった。シーソー然りで、憶測するに怪我が起こった時に設置者の責任が問われるご時世なのだろう。
 だから、夏ちゃんがシーソーを知っているのか、はたして喜んでくれるのかも解らなかったが、我が家にやって来た夏ちゃんはすぐに「シーソーや」と言って楽しんでくれた。
 そして、たまたま表を通りかかったもっと小さな子供(親子連れ)を相手に、上級生の顔をしてシーソーを動かし続けた。
 祖父ちゃんは十分に満足している。

2014年4月28日月曜日

無手勝流回想療法

  文化財学や史学等の世界では有名な近所の奈良大学の書籍コーナーで、面白そうだから『奈良民俗紀行』という本を買ってきた。
 奈良県立民俗博物館の課長等を経験した著者が、主に奈良県北西部の村々(集落)の民俗行事を訪ね歩いた記録である。
 開いてみると、義母の実家の集落の行事も載っていた。
 そんなものだから、義母の入所している施設に妻がこの本を持参したところ、掲載されている写真に予想外の興味を示したと言って帰ってきた。
 昨今は何事に付け意欲や興味が薄れている義母であるが、私が昔の生活を知りたがっている・・・だから農作業のあれこれを教えてやらねばならない・・ということ(使命感)だけはしっかりとインプットされているようだ。
 私としては、義母の集落の行事のことなどを聞きたいのだが、それらの多くは「もう忘れた」と言う。
 そして、私が行ったときには、土臼の写真を指差して、籾すりの話を訥々と語ってくれた。(ほんとうは、この話はもう何回も聞いた。)
 さらには、六斎念仏、新盆の家での盆踊り、如来さん(融通念仏宗の行事)、御田祭り等の写真について、記憶の断片を探し出して語ってくれた。
 日頃は半生の中の辛かったことや捉えどころのない不安を口にする義母であるが、この話のときには見違えるように前向きに見える。
 これって回想療法ではないですか。
 
 とかく老人介護の世界では、回想療法だとか音楽療法だとか立派なマニュアルが存在するが、そういうマニュアルに沿った専門家のあれこれも立派であるが、時として、事実から出発するのでなくマニュアルから出発しているのではないかと思うこともある。「音楽療法と言えば童謡」という類である。
 偉そうなことは言えないが、無手勝流回想療法のお陰で、目下のところ義母は、できるだけ米作りのノウハウを、農村文化を全く知らない娘婿に教えてやらなければならないと必死である。それも生きる力を後押ししているのだと私は自惚れている。

2014年4月26日土曜日

邪馬台国論争の歴史学


  先日、奈良女子大学 小路田奏直副学長の「邪馬台国論争とは何か」という講演を受講した。
 百家争鳴の感のある邪馬台国の所在地論争に関わって、各学者の主張と根拠、その批判というような話かと思って臨んだのだが、全く予想外の話の展開であったので驚くとともに、刺激的で楽しい数時間であった。
 その、一番私が刺激的だと感じた話のくだりを乱暴極まりなく短く言ってしまえば、次のような事であった。
 先生は、魏志倭人伝を素直に読めば邪馬台国は畿内のヤマトだと言う。
 「南と東の問題」でいえば、当時の中国の地理(地図)の常識は倭(日本列島)の国の最北は九州であり本州は右に90度曲がっていた。つまり、近畿は九州の南にあったことになる。この説には私も大いに説得力を感じている。
 次に、「不弥国から水行20日で投馬国、さらに水行10日陸行1月で邪馬台国という問題」でいえば、日本海ルートを使えば投馬国は出雲であり由良川・加古川ルート等を陸行すれば1月でヤマトに着くという。これは私が別に読んだ「出雲と大和」を著した村井康彦氏もそのように述べている。
 このように、素直に読めばヤマトになるものを「邪馬台国は九州である」と最初に主張した東京帝大白鳥庫吉博士は何故そのように主張したのか?・・・・ここからが講演の本題になる。
 私も、邪馬台国の所在地論争が東京帝大の白鳥庫吉対京都帝大内藤湖南の論争から始まったことぐらいは知っていたが、それは単に、方角や距離の記述に関する解釈の異同だと思っていた。
 しかし、これに関して近代史が専門の小路田先生は、1905年(明治38年)に日露戦争が終わり、1907年に帝国国防方針が制定され、1910年に日韓併合・・という1910年に、国策樹立の重要なシンクタンクである東京帝大で、白鳥庫吉といういたって政治的な人物によって唱えられたことの意味を考えろと言うのである。
 日本史(国史)の原則のようなものが未だ定まっていない時代に、西欧的な実証主義的な思想史では神の国も万世一系も成り立たず、水戸学的な史観でも中華文明が前に出すぎる。そうではなく、この国は朝鮮や中国には及びもつかない高度な文明を独自に作って来たという史学が当時の明治国家には必要であったのだ。
 ところが、とんでもないことに史上最古の文献である魏志倭人伝には、文明発生期のこの国はそもそも魏の属国であったということが書いてある。
 そこでそれを乗り越えるべく白鳥が考えついた結論が、倭人伝の邪馬台国と卑弥呼は九州の地方政権のことである。現天皇に繋がる真の大和政権は畿内において独自に高い文明国家を築いていたのだ。この歴史こそが正史であるというロジックだった。つまり邪馬台国九州説。
 そうなると、以降の渡来の諸文化は、その折々に文明人たる日本人が主体的に取捨選択して取り入れ活用したということになってはなはだ都合がよい。(現代に脱線するが、そういう論調は現在も少なからず聞こえてくる。)
 ・・・・・等等々、という邪馬台国論争史は、脱亜して列強の一員になるべく選ばれた国にとってその当時必要な学説であった・・・という、つまりこの問題は近代史であるとの指摘に、言い古された形容ながら目から鱗が剥がれるような刺激を味わった。
 私は、この話の内容をより深く知りたくて先生の著書を書店に注文したが絶版になっていた。ジュンク堂にもなかった。
 国立国会図書館関西館(東京の本館にはある)や邪馬台国論争の一方の当事者たる奈良県や奈良市の図書館にもなかった。古代史に強い奈良大学の図書館にもなかった。そこで、そうだと思いついて、先生のお膝元の奈良女子大学の図書館に行って春の1日十分に読ませていただいた。
 それらを書くと膨大になるのでもう止めるが、今現代、文科省が竹富町教委に育鵬社版公民教科書を使えと命令し圧力をかけている。その育鵬社版教科書作成とその採択運動、その他復古的統制的な教育改革運動を代表する、いわゆる自由主義史観派の代表メンバーである西尾幹二氏や坂本多加雄氏の主張は、当時の白鳥庫吉氏と同じで、「歴史(学)とは事実の模写ではなく、今を生きるために過去に「筋」をつける物語だ」と言うことであるとの指摘も心に響いた。ただ先生は、自由主義史観派に反対する学者の中にもよく似た論のあることを、津田(左右吉)史学の分析を踏まえて指摘されていて重要な事柄であるが、長くなるので省略する。
 となると、邪馬台国論争史も近代史であるとともに現代史ではないか。
 古代史を、再び偏狭なナショナリズムを牽引するために「つくられた学問」にしてはならない。
 現代の良識ある知識人が、偏狭なナショナリズムを鼻で笑い相手にもしない間に、それは教育を通じて、書籍やマスメディアを通じて跳梁しつつある。さてどうするか。

2014年4月25日金曜日

苗代茱萸

  どうと言うことのない季節の話題をひとつ。
 野鳥が糞をしてくれたおかげで、いつもの遊歩道に茱萸(グミ)の木が増えてきた。
 正規の植え込みの中から南京玉簾のように枝が飛び出している。
 そのいくつかが、赤い実を膨らませてきた。
 苗代を作る頃に熟すのでナワシログミと呼ばれている種類だろう。
 ちょうど孫がやって来たので、「グミを採って食べよう!」と出発した。
 この間(アキグミの頃)まで種を出さずに食べていたが、幼児の成長は著しい。
 今回は祖父ちゃんに倣って上手に種だけを吐き出せるようになっている。種だけを上手く出せること自体も自分の成長が誇らしく楽しいようだ。
 私としては、自生しているグミを少し採取して食べてみるということをひと通り教えるだけのつもりだったが、孫の夏ちゃんは「もっと食べる~」と言って終わらない。
 放っておいたら石垣にも登ってグミを採っている。
 こうして努力することを覚えたり体力もつくのだろうと、そっと見守るだけにした。
 ただ、このままではグミの木が丸坊主になるまでいつまでも止めそうにないので、タンポポの綿毛吹きに誘導して今回のところのグミ食べは終了した。
 こういう新興住宅地の遊歩道というのはおかしなもので、道端にグミがいっぱい実っているのに採る人がいないようだ。
 だから我が家は楽しめているのだが、世は飽食の時代なのだろうか。
 ただ、日本人という生き物は、生き物としては退化しつつあるのではないかと感じるところがある。

2014年4月23日水曜日

所業無情

  放生会(ほうじょうえ)というと8月15日に行われる八幡さんのが有名だが、興福寺では毎年4月17日に「放生会」が行われ、心温まる恒例行事としてテレビのニュースでも放映されていた。
 これについて、先日のミツバチのブログの「ハナアブ」を教えていただいた谷幸三先生がツイッターで呟いていた。曰く、
 『仏教の、命はすべて平等という思想に基づき、とらえた生き物を放して供養する行事。南円堂横の一言観音堂で法要の後、猿沢池に鯉を放しています。』
 『約1700匹の鯉が放たれましたが、すぐにミシシッピアカミミガメやコサギ、アオサギ、カワウ、カイツブリ等の餌になり大部分が殺されてしまいます。鯉の命を大切にしていると思えません。』
 『昔から行われている行事で、これに対して反対をするつもりはないのですが、生き物を放流することが良いことだとの思想を一般の人にうえつけられていることが心配です。般若心経を唱えているとこです。』
 ・・・・琵琶湖の外来魚(亀)問題同様のことが猿沢池でも起こっているらしい。先生の指摘の主眼はここのようだ。
 このツイッター及びフェースブックの反響は大きく、鯉といってもこれらは中国産の鯉を品種改良したものだとか、日本の固有種の魚でも河川や地域で異なっているため、外来魚に限らず放流は控えるべきだとの意見も多かった。・・・・ただし、私には議論に噛めるほどの知識がない。

 19日、猿沢池の横を通った時、私の頭の上をちょうどカワウ(川鵜)が数羽飛んできた。
 私は、ここでカイツブリは度々見たし、アオサギなどのサギ類も見たことがあるが、カワウが数羽も飛んできたのは見たことがなかったから、ちょっとした異変のように感じた。
 そのカワウが、頻繁に沈没(潜水)し、浮き上がって顔をあげるたびに結構な大きさの橙色の鯉を呑み込むのである。ショッキングな光景だった。
 カイツブリやアオサギが時々というか偶に小魚をキャッチするのとはレベルの違う修羅場に感じられ、谷先生のツイッターを思い出した。
 水鳥に施したと思えばそれもまた放生会の一種かも知れないし、動物が生きるということは往々にして他人の命を「いただく」ことなのだから当然のことだろうが、こと鯉については「放生などされずに個人に買われて池か水槽で飼われたかった。」と言っているかもしれず、ちょっと残酷なショウを見ているような不快感があった。
 といって、これが最初から北帰行前の水鳥のための施しと銘打ってドジョウなどを池に撒いたのなら、人は感激して水鳥の狩猟と捕食を見守ることだろう。
 つまり、人の(私の)感情というのは勝手でええ加減なものである。 
 だから、所業無情だなどと嫌味を言わず、諸行無常・諸行無常と達観するのが正しい仏の道なのだろうか。

2014年4月21日月曜日

最初に考えた人は偉い


  人の考えたこと、人の作ったものを後からあれこれ解釈したり評論する人はゴマン(巨万?)といるが、・・・立派な解説者がゴマンと居ろうが最初に考えた人には及ばないと私は思う。
 ということから私がこの際表彰したいと考えるのは『こいのぼりを最初に考えた人、作った人』である。
 ものの本によると、武士など上流階級の飾っていた武者絵などの幟に対して、江戸期の庶民が簡素な吹流しや手作りの紙製の幟に鯉を描いたのが始まりらしく、最初の人が判らないというのも味のある話である。
 また、以上のように解説されると「なあ~んだ」ということで、大した様には思えないが、滝登りの幡と鯉のぼりとの間には雲泥のような質的な飛躍が感じられる。
 私は、青空に魚を泳がせるということを思いついた先人の遊び心には畏敬の念をすらおぼえる。
 
 「物真似は巧いが創造性に欠ける日本人」などというフレーズがあちこちで繰り返されたことがあるが、鯉のぼりの創造と想像力は世界に通用するだろう。
 私は日の丸のデザインが嫌いではないのだが、国旗を鯉のぼりそのものにしたら世界中の人々が日本人の豊かなメンタリティーを称賛するに違いないと、ひそかに思っている。
 国連の前に、ほとんどは四角な布、そして一部に三角やその亜流の布がはためいているときに、1本のポールの先だけには3Dの鯉が泳いでいるのである。そんな愉快な夢を見る。(国連に立てる国旗はペラペラの2Dの布に限るというような定めがあるのかしらん。)

 しかし、この鯉のぼり、ウサギ小屋には少し辛い。ちょっとした庭が必要である。
 このため、いささか販売が伸び悩んでいないだろうかと心配している。より狭くてもよい武者幟に先祖返りするのだろうか。

 私が孫娘のために「鯉のぼりを買おうか」というと、妻は「女の子はお雛様でええ」と言って首を縦に振らない。
 そのため、我が家の庭には数百円でお菓子の付いていた鯉のぼり、・・・正しくは、数百円で鯉のぼりが付いていたお菓子・・の鯉のぼりがへんぽんと泳いでいる。それも去年のものである。

2014年4月20日日曜日

張子の猫

 
  ちょうど一世代のローテーションが成ったなあと感慨深く実感している。
 端午の節句を前に、孫娘のために「張子の猫」を押入れの奥の方から引っ張り出したからである。
 この張子は、寅で有名な信貴山朝護孫子寺の由緒正しい?張子である。
 それは、物部守屋を討ちに行く聖徳太子の祈願に毘沙門天が応えたことに由来する。
 しかし信貴山には申し訳ないが、息子が今の孫と同じ年齢の時、その虎の顔が怖い怖いと泣いたので髭を全部抜いて「猫さんやから怖くない」と私が「変身」させたものである。
 それを息子の娘=つまり孫がいま喜んで首をつついている。
 私は長男ではなかったから、我が家には基本的には古いものを引き継いでいない。だから、昔のイメージでいえば分家(新宅)のようなもので私たち夫婦からスタートしている。
 その、ほゞゼロからスタートした家庭で息子に買った張子を、ついに孫が遊ぶようになったのが感慨深いのだ。
  家の意識など全くない我が家だが、人は生まれ育ったことだけでも奇跡なのだから、この「張子の猫」が代々引き継がれていってほしいと願っている。

 「怖いから嫌や」と息子の泣いたのが昨日のようである。
 張子もそれほど傷んでいない。
 だが、当方だけは大きく年老いた。
 此の頃はその老いっぷりが楽しくなってきている。
 いつまでそんなやせ我慢が言ってられるやら。張子の猫が笑っている。

2014年4月19日土曜日

異議あり 近鉄・阪神

 阪神と相互乗り入れしている近鉄奈良線が、国営公園平城宮趾を横切っていることは有名なことで、走行中の車両の中から北を向くと復元された大極殿、南を向くと復元された朱雀門がそびえている。
阪神さん、これは古都にはあきまへん
  このため、近鉄奈良線を平城宮趾の南に迂回させるという整備計画が唱えられていることは知っているが、正直なところ実現可能性は低いというか遠い気がする。
 それなら、考えようによっては、「電車から見える一番ぜいたくな風景」として観光政策に利用してもよいかとも私は思う。
 だがしかし、近鉄と阪神電車の現状には異議がある。
 ここ(平城宮趾)では、問題の多い「整備計画」が進行中だが、その無茶な計画でさえ、必要最小限の施設は『品格が感じられる落ち着いた色彩にすること』となっている。にもかかわらず、両鉄道会社にはその種の自覚が感じられない。
 このまま放置すれば、車両にパチスロ屋の広告の入ったド派手な車両もありになる。(南海でそんな車両を見たことがある。)
 結論的には、国営公園内を通らせてもらえるありがたさを肝に銘じて、奈良線西大寺―奈良間を走行する車両は『品格が感じられる落ち着いた色彩』に限ってもらいたい。これはやればできることだと思う。小豆色や深緑なら許される。
 写真(上)の電車は甲子園や梅田が似つかわしい。

友人のブログに大阪モノレールの
こんな餃子のラッピング車両が載っていた
  奈良県は若草山にモノレールなどという愚策に拘泥するのでなく、今すぐ電鉄会社を指導してほしい。そして、世界遺産周辺地域の電線の地下化=電柱の消滅を図ってもらいたい。それこそが国の内外から大人の観光客を呼ぶ観光策の王道ではないか。
 信濃毎日に井出孫六氏の長文のコラムが載った。
 「・・・・緑の芝草に鹿の群れは似合っているが、鉄のモノレールは世界のもの笑いにしかならないだろう。乳牛を飼おうという「牧場計画」や「エレベータープラン」など若草山でひと儲けしようと浮かんだ計画を、一つひとつ潰してきた先人たちの努力を思い起こすときだろう。」と結ばれている。

2014年4月18日金曜日

金魚が死んだ

  2012,9,03に「駄金のために金魚鉢を買う」と書いた金魚。
  義母の入所している施設の夏祭りで貰って来た金魚のうち、黒の出目金が死んだ。
 腹を上にして水槽の表面に浮いていた。
 寒さのために水換えを怠っていたからか、酸素不足か餌不足か原因は解らない。
 主担であった妻は反省をして「庭に墓を造ってやらなければ」と言った。
 いずれにしてもそのままにしておくと他の金魚に悪いから取り出そうとすると、なんと、再び動き出したのである。
 重症ではあるが恢復の可能性があると、早速妻が水換えをしたりした。
 ところが、その後もそういう瀕死の状態は度々起こった。
 その度に「もうダメみたいや」とか「原因がわからん」とか言い合っていた。
 そして、ようやくというか、なぜ今まで調べてみなかったのかと思うのだが、ネットで「金魚 腹を上」というように検索してみたら、案ずるより産むが易しというか、すぐに金魚の転覆現象がヒットした。
 ヒットしたからといって本当の原因はあまりわからないのだが、こういうことは結構あることだということ、特に出目金にはあることだということが解った。つまり、あんまり心配はいらないらしい。ということで今現在は放置している。
 もし放置しておいていけないことならば、お知りの方はどうしたらよいのかお教えいただきたい。

2014年4月17日木曜日

友 遠方より来る

  汚れたガラス窓の外を見ると、どこかスズメとはちょっと違う影が動いていた。
 非常によく似ているがちょっと違う。
 撮ってみてから確認したら、やはりアオジであった。
 繁殖地は海抜1000メートル以上の山地で冬には低地にいる。
 だから私の感覚でいえば冬鳥だがそれは(冬鳥と定義するのは)正確ではないらしい。
 中村登流著「野鳥ガイド」の中見出しでいえば「上高地の6月はアオジの囀りでわきかえる」と述べられている。頭の中で想像するだけで肺が膨らむような気持ちのいい心地がする。
 その囀りの素晴らしさはアリアのようだとこのブログで書いたことがある。
 それで検索をしたところ、2012,4,13と2013,4,21に書いている。これを見た今日は4月14日。鳥は、自然は、何と律儀なものだろう。
 ただ今日は、その美声でアリアを歌ってくれたのではなく、我が家の庭を散歩しただけ。
 それ(アリア)は近々きっと聞けるに違いない。

 早朝に窓を開けると、シジュウカラ、メジロ、ウグイスの囀りがうるさいほどだ。
 写真が撮れなくても楽しい。
 孫と遊んでいるとチドリが鳴きながら頭上を旋回した。もしかしたら、再びあの危なっかしい自動車駐車場にスイートホームを作るつもりだろうか。というか、あそこで生まれたチドリが帰って来たのだろうか。
 鳥が楽しい季節である。

2014年4月16日水曜日

ミツバチは何を考えている

  菜の花と、ルッコラの花と、エンドウの花が咲いているから、いま我が家の庭には蜜の匂いがかすかに漂っている。
 そこにセイヨウミツバチと思われる蜂がホバリング(停止飛行)を続けている。
 蜜を吸うためにハチドリのようにホバリングしているのでなく、ただただ空中で停まっている。

  はて、このミツバチは何をしているのだろうか。
 ① ここは良い餌場だからと縄張を主張しているのか。それなら、その間にせっせと蜜を運んで巣に貯めればよいものを。それに、誰の侵入を塞いでいるのというのか、その小さな体で。
 ② 仲間に良い餌場を教えているのか。が、それらしき仲間は見当たらない。
 ③ クマバチのオスはこのようにしてメスを待っているというが、ミツバチもそうだと書いてある本は見当たらない。
 ④ この良い餌場の位置情報をしっかりと脳にインプットしているのだろうか。
 ⑤ 春の日差しを楽しんでいるのだろうか。そんなあほな。
 何冊かの本を繰ってみたり、ネットを検索したが、ミツバチのそんなホバリングを書いてあるのは見つからない。
 しかし、ほんとうに蜜を吸うでもないのにミツバチがホバリングを続けている。
 そして、こんな身近にある普通のような出来事について書いてあるものがない。
 世の中、知らないことだらけである。

  ・・・・・・・ここまで原稿を書いてから、探偵ナイトスクープの面白おかしい昆虫専属博士谷幸三先生にツイッターで質問を行った。ツイッターとフェースブックでお友達にしていただいている。
 で、翌日、早速返事をいただいた。「ハナアブです。ミツバチは4枚の翅がありますが、ハナアブは前翅だけが大きく、後翅は退化してほとんどありません。この2枚の翅でホバリングするのがハナアブの特徴です。多くの種がいます。」とのことだった。
 エエエエエエエ――――――!!!

 ハナアブのことは知っている。ブログに書いたこともある。しかしこれは100%ミツバチとばかり思っていた。言われてみれば写真も翅2枚である。この2枚になったことでホバリングが可能になったようだ。
 さて、その理由だが、翅のあるアブラムシが飛んできたら捕食するらしい。縄張だとかメスを待っていると書いてある文もある。
 そういえばハイキング程度の山の頂上で、お弁当を食べているときに周りでいっぱいホバリングをしていたような記憶がよみがえってきた。
 このような記事を竜頭蛇尾とでも言うのだろうか。
 それにしても、谷先生ありがとうございます。

2014年4月15日火曜日

高所恐怖症でない悩み

  あべのハルカス16階の美術館の『東大寺展』に行ったついでに、少し迷ったが、とりあえずの見聞のためと思って60階の天上回廊に昇った。全くのオノボリさんである。
 切符を買うのに30分ほど待たされ、その切符は1,500円。さらに少し待たされてエレベーターに乗ったが、エレベーターは1分弱、そして到着。
 その感想はというと、「地上300mそれがどうした」というものだった。
 確かに、阿倍野・天王寺界隈はすぐ下だし、一部にガラスの床もあった。
 高所恐怖症の人は騒いでいたし、その分刺激的だったかもしれないが、高所恐怖症でない私には「それがどうした」という感想しか思い浮かばない。
 これが梅田なら箕面や北摂の山々が綺麗かもしれないが、ただただ大阪平野が広がっているという以上のものでもない。
 鉄ちゃんなら鉄道や高速道路に感激するかもしれないが、あまり私の趣味でもない。
 付け加えれば、市内中心部側(北側)のメーンともいえる風景では天王寺公園沿いのラブホテル群が桁違いに目立っていて、この展望台は大阪の都市格の足を引っ張るためにつくられたのか?と尋ねたくなる。
 私としては1,500円分は感動したいものだといろいろ探してみたが・・・、
 ・・・この程度のものであるということを1,500円払って学んだことが収穫といえば収穫。


  58階に天空庭園というのがあった。ここで、ハンバーグ丼という方が判りやすいロコモコというのとビールを注文して1,750円。
 ここで「やっぱり阿倍野か」と思ったのはこのハンバーグ丼がそこそこの量であったこと。ここは及第。そんなことを思って一人で笑った。
 
 冬の飛び切り空気の澄んだ日に視力検査をしてみるか、有名な花火大会を線香花火のように可笑しがるか、その外に何があるだろうか。
 飛行機が珍しくない今日、伊丹発着の飛行機の窓の風景には及ばないし・・・・、
 ただ、男子トイレの背中側がガラスであるのは爽快だった。これが前側だったら「さすが大阪や」とバカ受けしただろうに。

2014年4月13日日曜日

アナログもよろし

花の盛りは10日/365日もない
  4月3日に『人皆やさし桃の花』を書いたが、要旨は、①少なくない人々が桃は3月3日頃に咲くと誤解している。②だから我が家の花桃に『花桃』と名札を付けた。③そしたら妻が「短冊でしょ」と言うので『野に出れば人皆やさし桃の花 高野素十』という短冊を提げた。というものだった。
 買被ってもらうと困るので正直にいうが、私には俳句の素養はない。これは大歳時記の桃の項で見つけた句でしかないし、短冊はパソコンで作成した。
 
 4月某日、妻が「はい、ラブレター」と言って私に何かを手渡した。
 それは、「高野素十の句、有難う存じます。私も、素十の句が好きで、ことにこの句! 額に仕立てました。お心づかいに感謝です。いつもお庭のお手入れに感心いたして居る者です。」との便箋と四つ葉のクローバーの押し花だった。ポストに投函されていたらしい。
 
 恐縮というか恥ずかしさでいっぱいだが、ここは素直に喜ぶことにしよう。
 いわゆる新興住宅街。そして、コミュニティーの活動に積極的でもない私だが、この街もまんざら捨てたものでないと言ったところだろうか。
 職場同僚というような文句なしの人間関係を卒業し、地域の老人会に入るには未だ抵抗のある端境期で、どちらかというとデジタルのソシャールネットワークの方に関心が行っていたが、こんなアナログの最たる『短冊』から、知らぬ人と知らないままで心が通いあうのも嬉しい。
 
 庭の木に短冊を提げるなんて、おっちょこちょいの極みかも知れないが、何もしなければ何も起こらない。
 また少し、人生が楽しくなってきた。

2014年4月11日金曜日

時代の終わり


   小笠原好彦先生の「家形埴輪」の講義を受けた。
 講義の中心中の中心は、前方後円墳上で行われた、先の首長の葬送儀礼でもあり、新たな首長の首長権の継承儀礼でもあるセレモニーにとって、如何に重要な意義を家形埴輪が持っていたかということだった。
 家形埴輪(形代:かたしろ)は他の形象埴輪(次の世で用いるもの=明器:めいき)とは質の違う使われ方をしていたという。
 その説の証左としていろんな事実を挙げられていたが、馬王堆漢墓の棺に掛けられていた布(写真)は、その時代の思想(ずばり道教)を見事に表しているとの説明には説得力があった。
  ちなみに、左の写真の解説はネットにあったもので小笠原先生の説とは異なっている部分があるが、今日はその解説は割愛する。要は「この通り無事に神仙界へ昇天して不自由なく暮らしてくれますように」との思想のもとに古墳は荘厳されセレモニーは行われたと先生は言う。

 講義の帰りに友人と、「あの葬送儀礼の話は我々は辛うじて感覚的に納得できるが、子供たちの世代には理解に時間がかかるやろうねえ」と話し合った。
 先生は古墳の前方部で共食をしたなごりや、行きと帰りに同じ道を通らなかったなごりがあるという。
 そういう、葬祭やお墓参り、お寺詣り等々の小さなしきたりを我々はぼんやりとでも知っているが、子供たちはほとんど知らないで大人になっている。(私と友人だけのことかも知れないが)
 そして、子供たちは父となり母となっているのだから、孫の時代には私たちの経験は異邦人の話になるだろう。
 
 人類の歴史の上で、産業革命と現代のIT(デジタル)革命は画期をなしていると私は勝手に思っている。
 博物館などで遺物を見ると、各種金属器などは弥生から昭和30年代まではほとんど同じではないかという感慨を持つことも少なくない。
 住宅環境も街の佇まいもそんな感じがする。
 ただし、次の世代は我々が予想できなかったような時代を作るだろうが、我々が伝え聞いてきた古い感覚を問答無用で拒否して痛痒を感じないような気もする。
 それが吉なのか凶なのかは私には判らない。
 ある時代が終わろうとしていることだけは確かである。

 さて、先日の三輪路のハイキングの折り、桜井市立埋蔵文化財センターに立ち寄った。
 確かに、多くの円筒埴輪、形象埴輪が土中に埋める土台部分を持っているのに対し家形埴輪だけにはそれはなかった。
 そのことは、「他の埴輪については築造時にすでに完成(建築)していたが、家形埴輪だけは儀式のときに用いられたものだ」という小笠原先生の説を納得させる。
 また、家形埴輪には屋根の部分を粘土で盛った形と沈線で描いた形の2種類あるのも、先の首長の分(形代)と新たな首長の分(形代)という先生の説どおりだった。
 こういうように正当に首長権が継承されたことをアピールするために、中後期の前方後円墳には前方と後円とのくびれ部に「造り出し」が造られ、首長権の継承が正当に成立したということの記念物=証拠のジオラマ(埴輪群)が見せるために並べられたとの説(古墳の上では見えないから)も理解できる。
 高槻市の今城塚古墳(真の継体天皇陵というのが学説)(ここでは「造り出し」でなく堤の上に祭祀場が「これでもか」というように荘厳されている)に、もう一度行ってみる必要がありそうだ。

2014年4月9日水曜日

花祭り

  アンデス民謡「花祭り」をインドの仏生会の歌とばかり思っていたぐらいの私*であるが、4月8日、東大寺と興福寺の仏生会に参拝してきた。

  この花祭り。「お釈迦さまの誕生仏のために花御堂をつくるので花祭りと言う」というのが一般的だが、民俗としての祖霊祭に繋がる『卯月八日』の『天道花』などの行事と習合したとの指摘を龍谷ミュージアム館長さんのツイッターで教えられて納得。
 それにしてもこの国はすべてが金儲けとそのためのコマーシャリズムで動いているのだろうかと、マスコミにおけるイエス様の誕生日との天地以上の取り上げられ方の落差に首をひねる。

 興福寺の10時に比べて東大寺の開始時刻8時は如何にも早く、その分、参拝者が多くなく(というよりも少なく)、少しひんやりとした朝の空気に包まれながらそれは始まった。

 桜に覆われた回廊からお坊さんたちが登場(写真上)し、小一時間の読経があり、散華がまかれた。
 私ほか参拝者は何回も誕生仏に甘茶をかけ(写真中)、別に甘茶を頂いた。
 勤行の間中、大仏殿の庇では磯ヒヨドリ*が囀り続け、心地好いひと時であった。
 10時からの興福寺南円堂前はさすがに人数が多く、なかなかに賑やかな行事だった。(入館料のようなものが不要=無料のせいもあったのだろうか。)
 そのため、甘茶かけにも長い列ができ、見れば、柄杓がいっぱいあるのに一人か二人ずつお焼香の感じで進んでいたので、「後の方のために何人ずつかで一緒に行いませんか」と呼びかけたが、なにか「並んだからには真正面(の席?)を譲るものか」というように私の言葉は受け入れられず、「そんな気持ちをお釈迦さんは喜ばないだろうに」と心の中で呟きながら後にした。
 どういうわけか、ここ南円堂でも終始磯ヒヨドリが囀っていて(写真下)、子供向けの仏教の絵本風にいえば「鳥さえもお釈迦さまの誕生日をバースデーソングで祝っているよう」だった。

* 「甘茶かけ」は小学校低学年の頃に一度したことがあるぐらいで、花祭りに参拝したのは事実上初めてだった。

* 磯ヒヨドリは日本では海岸の岩壁にいたことからその名前が付けられた。探鳥会に参加していた15年ほど前までの奈良公園にはいなかった(だから全く知らなかった)が、南都の大伽藍を岩壁代わりにしたようだ。外国では磯に限らず都市のビルや高山の岩壁にいるというから、この鳥のグローバリゼーションはすさまじい。

2014年4月8日火曜日

木賊科の土筆

  家の正面に「木賊(とくさ)」を植えている。
 秋篠寺など南都の寺院の苔むした庭にひっそり植わっている風情を真似てみたつもりだった。
 だから、だいぶ以前に近くの池で生えていたのを少し採取して移植したのだが・・・・・・、
 ところが、地下茎と胞子で爆発的に増え、しかも、園芸店で売っている木賊や、ましてや寺院の庭園の木賊とは異なって、高さが1m半にも成長した。茎も太い。
 となると、和風庭園の風情とは程遠いものになり、ほとんどの人々は「それは何ですか?」というぐらいだった。
 ただ、茎にガラス質の何とかがあるので昔から「砥石」代わりに使われていたとかで、銅鏡を磨くときに使用したらけっこうなサンドペーパーだった。
 写真はその胞子嚢である。

  春を代表する土筆んぼが木賊科だということはこの胞子嚢を見ると一目で納得できる。

 妻が土筆を採ってきた。
 卵とじを作って孫のところに持っていって土筆んぼの講釈をしてきたらしい。
 「夏ちゃんは土筆んぼを知らなかった」と自分の「教育効果」を自慢していた。
 来年あたりは土筆とりに連れ出すことだろう。

  後日、夏ちゃんとお花見に行った。
 お花見の場所として有名なところだったので、老人施設の方々もやってきて、スタッフが指導して合唱が盛り上がっていた。
 だから、「ここでは歌を歌ってもおかしくないんだ」と感じたのだろう。
 イベント用につくられていたステージの上で夏ちゃんが『潮騒のメモリー』を大きな声で歌って周辺の皆を驚かせた。
 こういうあたりは祖父ちゃんよりも幾倍も度胸も実力もある。
 祖父ちゃんは、土筆んぼのように、このまま小さいままでいてくれたらいいのにと思っている。

2014年4月6日日曜日

御諸山の神

  花見を兼ねてOB会で三輪山周辺を散策した。
 幹事長の発した今回のテーマは『古代のロマン・纏向遺跡と酒の神様・大神神社』で、清濁併せたなかなかの企画だった。
 この地に卑弥呼がいたかどうかの議論は確定していないが、日本(倭)という国家発祥の地であることには誰も異を唱えていない。
 しかしながら、参加者の興味は幹事長の思惑とは別に後者のテーマにあるらしかった。
 
 さて、記紀神話では、天皇家に繋がる天孫の神がこの国を造ったのではなく、大国主神が造った国を譲ってもらったことになっているが、そういう、国譲り以前の国造りのときの話として、古事記は、大国主神が最初は少名毘古那(すくなびこな)神と国造りをしていたが少名毘古那神が常世国へ去ってしまい困っていたところ、「私を祀ればそれはできる」という神が現れ、それが御諸山(三輪山)の上に坐す神だと述べている。
 素直に読めば、出雲の首長と三輪の首長が原倭国を造り、それを天孫の首長(後の天皇)が譲ってもらったということになるが、それは史学や考古学の定説にはなっていない。
 ところが書紀では、後に現れたその神に大国主神(大己貴神:おおなむち)が「貴方は誰だ」と尋ねたところ、「私はお前の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)である」と応えて三諸山に住み、それが大三輪の神だと言っている。
 このロジックが私にはなかなか感覚として理解し辛かった。
 大国主神の本体は出雲にいるが、大国主神の霊力を分解して、祟ったり災いをなすような荒魂(あらみたま)を除いて、和魂(にぎみたま)=幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)だけになった大国主神が大三輪の神だというのである。なかなか哲学的である。
 しかし、書紀はそう言っている。
 そして、大神神社はその説を肯定したうえで、その拝殿にはその神語を唱えるよう書かれている。
 『幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)守りたまえ幸(さき)はえたまえ』と、
 で、私は3回唱えてお参りをしたが、同僚の皆さんは「それはどういう意味?」と尋ねてくるような興味すら一切お持ちでなかったから、私も私の疑問に思う点などを語るのをやめておいた。
 ずばり、同僚の興味はもっぱら御諸山の神よりも、今西酒造の『三諸杉』の方であった。チャンチャン。

2014年4月5日土曜日

じゃばら

  今年の花粉症の症状は桁違いに軽いのでホッとしている。
 くしゃみが連発するくらいはどうということがない。
 ひどい年には夜寝るときに鼻が詰まって眠れなかったり、目がかゆい、鼻が出る、頭が重い等々の症状が重なっていた。
 今年は1月から飲み薬、目薬、点鼻薬を始めたが、目薬と点鼻薬は数回使用しただけである。
 ただ例年と違うのは、鼻の奥がスーッとするということで、葛根湯加川芎辛夷(カッコントウカセンキュウシンイ)と辛夷清肺湯(シンイセイハイトウ)という漢方薬を毎食前に飲んでいる。
 これのお陰か、ただ花粉の量が少なかっただけかはわからない。きっと後者だろう。
 
 花粉症というと、近頃は『じゃばら』の人気が沸騰している。
 ロシアのクリミア併合に利用されたくない実例であるが、産地は全国唯一の飛び地の村、和歌山県北山村で周りはすべて奈良県と三重県である。
 『じゃばら』は、ここに自生していたスダチやカボスのような柑橘類で、知る人ぞ知る幻の柑橘類であったが、昨今は『花粉症に効く』というので大ブレークしている。
 我が家ではもともとこの種の酸味が好きだから、遊びに行った折(筏下りは予約制を知らずに乗れなかった)には買っていた。
 それが、元々和歌山の南紀出身のスーパーでちょっと品ぞろえに特色のあるメッサという近所の店に出ていたというので、妻がドリンクと飴を買ってきた。
 今年の症状が軽いのは「じゃばら」のお陰と言いたいが、症状の軽いのはそれ以前からであったので、そこまで言うとウソになる。

 『じゃばら』という名前はいかにも和歌山という感じがする。
 和歌山弁ではラ行とダ行がひっくり返り、例えば体のことを「かだら」と言う。
 言ってる本人に指摘すると、「そんなこと言うてないよ」と否定するが、きっと頭の中では「からだ」と思って口が勝手に「かだら」と言うのだろう。
 だからこの柑橘類のほんとうの名前は『じゃらば』あたりかも知れない。
 それぐらいのことが不思議でないくらいその地は秘境である。

 「ゆずでもない  すだちでもない   とんでもない!  紀州の へんな みかん」というキャッチコピーには大笑いをするが、丸に「邪払」の印影はそこまでやるかと言ったところ・・・。
 いやいや、ここには1970年頃から全国の田舎で掃き出されてきた魑魅が最後に辿り着いているかも・・・と思ってみたりする。

2014年4月3日木曜日

人皆やさし桃の花


  どうも新暦というのは無機質な感じがする。
 お正月も、ほとんどのアジアの国々では旧正月だが、そちらの方が新春というのにはふさわしい。
 梅雨の真っ最中の七夕もおかしいが、3月3日を桃の節句というのにもズレがある。
 だから実際の自然を知らずにその種の決まり文句だけを覚えている人は、桃の花を見ても『桃の季節は過ぎたのに・・・・』と誤解をし、「この花は何ですか?」「八重桜ですか?」などと尋ねられる。

 我が家の花桃がちらほらと咲き始めた。
 あと数日で満開になるだろう。
 庭先で、毎年、先のような質問が多いので、今年は木に『源平枝垂れ花桃』という名札を提げた。
 それを見た妻が、「提げるなら短冊でしょう」と私を挑発したが、悲しいかなすらすらと一句ひねり出せるようなセンスがない。
 で、 野に出れば人皆やさし桃の花 高野素十 という短冊を枝に提げた。
 個人の庭の木にこんな短冊を提げるのは「おかしな家」と思われているのだろうか。

 現役のころはこの季節恒例の送別会で「想い出のアルバム」を合唱したりした。
 〽 桃のお花も きれいに咲いて 今日からみんなは 一年生 ・・・・・・
 メリハリの乏しい年金生活だから気を抜くとのんべんだらりとなるので、世間は年度初めだし、この年度の1年生だとこじつけて気分を故意に引き締めている。

2014年4月2日水曜日

裁判と人権

 古い友人から良いニュースが届いた。
 誰もが名前を知っているメジャーなフィットネスクラブを相手にした6年越しの裁判を高裁で勝利したというものだ。
 だが、施設の欠陥によって負傷させられた治療を認めさせるだけで6年余の時間と精神的負担が必要だった。一言で「精神的負担」と片づけられるレベルではなかった。
 私も民事裁判を行ったことがあるが、原告であっても精神的負担はきつかった。そういうものなのだ。
 審理が慎重に重ねられるのは良いことだが、正直にいって「もっと早くどうにかならんものか」という感が大きい。

  さて、袴田氏の再審決定と釈放も朗報だが、冤罪のために人生の主要な48年を拘禁と死刑執行の恐怖の下に押し込めていたことの検察と司法の罪は重い。
 それを思うとテレビのニュースを見ながら涙が出てきた。
 ところがところが、検察庁はそれを抗告したのである。
 それはただただ組織の面子だけだと言われている。
 佐高信氏はそういう人を「社畜」と呼んだが、的を射ているような気がする。
 だがしかし、自分がその立場に立てば、会社や官庁やそういう組織の上からの意思に抗してどれだけ背筋を伸ばしていられるかというと、多くは自信がないだろう。
 私はそれが保証されるためには働く現場に真の労働組合が必要だと思う。
 ところが此の頃、この、「使用者と労働者は元々対等ではない」「故に労働法が存在するのだ」という民主主義のイロハのような原則が軽んじられている。
 袴田さんの人生という物差しで考えると、検察側の面子だけで抗告することは人道に反する罪ではないだろうか。
 
 先日、和歌山大学学長の式辞を掲載したが、学長はマルティン・ニーメラー牧師の言葉を引いて、民主主義をむしばむ些末な出来事に不寛容の意思表示をすることの重要性を強調されていた。
 あまりにひ弱で小さい声ではあるが、このブログをもってささやかながら私の意思を表明しておきたい。