2013年8月30日金曜日

コンピュータグラフィックスを習った

  近くの奈良大学のCG入門講座{(3時間+自習)×4日間}を受講した。
 考えてみれば、これまで全く見様見真似でワード、エクセル、メール、パワーポイント、写真、ネットを触ってきたので、少しトラブッたら絶望的に悩んでいたのだが、かといって、何となくその時々でどうにか対応してきたので今さら「ワード・エクセル入門講座」はええやろうと放っておいてきた。
 だから、パソコンの講座らしい講座を受講するのは初めてであった。

 「本講座を受講された動機、目的は」というアンケートにも、「おもしろそうなのでやってみたかった。」「IT時代に遅れないため」というええかげんなものであったが、5日前には全く無知であったことが5日後には曲がりなりにも少々理解できるようになっているというのは魔法のようなことである。
 こんなものは「勉強」というよりも「操作技術の習得」のようなものだが、それでも、全く新しい世界を手に入れることは楽しいことだ。
 受講生仲間の多くも、「この技術を活用する可能性はほとんどないが、脳みその活性化のためにやってきた。」というご同類がほとんどだった。

 で、ゼロから出発して12時間後にできたのが『天武・持統天皇陵の3次元CGによる復元』で、何んともチャチな作品だが失敗の連続の末にできたものなので本人にとっては感慨深い。
 このブログのものは「写真」にしたものだが、本来の作品は文字どおり3次元で思いどおりに動かすことができる。色合いなども瞬時に変更することができる。それがどうしたと言われると困るが、ちょっとした玩具である。

12時間かけて作った作品
  ちなみに、天武・持統天皇陵は飛鳥の地の藤原京の中心線上にあり、鎌倉時代盗掘時の記録(阿不幾乃山稜記・あふきのさんりょうき)から、日本書紀や延喜式に書かれていたとおり、当時の天皇陵独特の八角墳であり、天武天皇の夾紵棺(きょうちょかん)と持統天皇の金銅製骨蔵器が納められていたことが判っている。

 私は輝く葺石を敷いた高度な人工構築物をイメージして作成した。
 明日、復習してみたらどの程度できるかは自信がないが、息子や娘が来た時には立派な修了証書だけは見せびらかそうと思っている。

2013年8月27日火曜日

堺県の頃

  慶応4年(1868)5月、明治政府は堺県を設置したが、私が書くのはその栄光の日々のことではない。
 同月に前後して設置された奈良県のことである。
 奈良県は7月に奈良府と改称され、明治2年にふたたび奈良県と改称された。
 明治4年の廃藩置県で大和の国には8~14の県ができるという変遷の後、11月にほゞ現在のイメージの奈良県が成立した。
 それから5年後明治9年、奈良県は廃止され堺県に合併された。堺県は、河内、和泉、大和三国を管轄した。
 堺にとっては中世以来の栄光の日々とも言えよう。だが・・・、
 『さて、堺県の出張所が置かれているとはいうものの、県庁を失った奈良の町は活気をなくしてさびれはじめた。県庁への用事のある人を泊めた宿も、客が少なくなって営業をつづけることが困難になったので、奈良の町に見切りをつけて堺に移ることが多かったなどと『郵便報知新聞』は伝えている。町家の取りこわしも毎日のようにおこなわれたという。奈良今小路町の旅館対山楼の主人は、明治11年ごろのようすを、『雲井坂から手貝通りを見渡したところ、火影はただわが家の旅館の門灯だけで、そのほかはまっ暗だった』と語り、人影が消え、雑草が生い茂る京街道のさびれようを嘆いたと伝えられている。」青山四方にめぐれる国・奈良県誕生物語・・・と書かれている。
 そうして明治14年、その堺県が奈良県を含んだまま大阪府に合併されたのである。
 その時の元老院会議の趣旨説明では、「大阪府は河川が多く、多額の橋梁堤防費を必要とし、それが府財政の負担を重くしている。・・・・・隣接の堺県を合併すれば、府の管轄地を広くし好都合である」とされている。
 こうして、6年余りにわたる苦闘の奈良県再設置運動が本格的にはじまったのであるが、その一冊の本になるほどの往時の奈良県民の苦悩の歴史は、生駒山地、金剛・葛城山地の西の方ではあまり知られていない。
 明治14年、請願手続調査委員の選出から、請願委員上京・内務卿等への働きかけ、明治15年却下、明治16年太政官への請願、陳情の日々、山県有朋への陳情、却下、元老院へ建白書提出、再提出、明治20年松方正義大蔵大臣に面談、途中松方が激怒して煙草入れを投げつけるも「もはや生きて大和には帰れません」と懇願、11月伊藤博文総理大臣等から内諾・・・・あらすじにもならない事項を拾い上げても紙面が足らない屈辱と苦悩の日々であったことだけは容易に想像できる。

 思うに、現在も奈良県知事が関西広域連合に参加していない底流には、この祖先の記憶が拭い切れないということもあるのではないだろうか。
 
 さて、大阪府に合併された堺は、その後堺市として営々と市政を充実させ政令指定都市にまでなり、数々の指標で大阪市をしのぐ市民生活水準を築きつつあるが、橋下維新は、大阪都の財源のために堺市を分割吸収するという。・・・・どこかで聞いた言葉である。
 歴史は今を照らす鏡である。
 堺市民は、その昔奈良県民が涙した悔しさに思いをはせると現在がよく見えはしないだろうか。
 堺市は、何が悲しくて大阪都やらに吸収されなければならないのか。
 「一度やらしてみては・・」は通じない。
 屈辱と苦悩の展望なき堺市再設置運動をしたくないのなら。

2013年8月24日土曜日

蝙蝠が噛んだ小指が痛い

  夕暮れに近くの歩道橋に上ると蝙蝠の出勤時間、通勤経路にあたるのだろう、同じ時間に同じ方向から無数の蝙蝠が飛んで行く。何処から来たのか、何処へ行くのかは解らない。
  数十匹はこの辺りが縄張りなのだろうか、この辺りを飛び回る。
  ところが、この蝙蝠を近所の人々は「知らない。」「見たことがない。」と言う。
  興味がないというとこういうことになる。
  事実、妻も、目が悪いこともあり、長い間「あれは蝶だと思っていた。」と言っていた。

  アブラコウモリ、普通にはイエコウモリという。
  蚊などの害虫を捕食するので基本的には益獣である。
  蝙蝠(へんぷく・ビェンフー)の蝠(ふく・フー)が「福」に通じるので東アジアでは縁起のよい動物とされており、日本でも、「家に棲みつくと縁起が良い。」「子宝に恵まれる。」と親しまれてきたし、七代目団十郎が蝙蝠の図柄を好んだので流行したと、ものの本にある。
  ところが、フランケンシュタインやドラキュラを生んだヨーロッパでは不吉な動物の代表とされ、欧米文化に毒された現代日本人の多くも「気味悪い。」と言うようになっている。

  我が家にほとんど使用していない部屋が一部屋ある。
  その部屋のシャッターの戸袋に蝙蝠が棲みついたようなのを発見した。(そんな大層な)
 (あとで判ったことだが、風通しのためにほんの数ミリ開けておいた窓から室内に入った痕跡(糞)もあって驚いた。)
  で、忍び足で近づいて、蝙蝠の昼寝の真っ最中に手早くシャッターを閉めて捕獲した。
  非常に残念なことに孫の夏ちゃんはお母さんの実家に帰っている。ほんとうに残念。
  此方にいたなら虫籠に入れて直ぐに見せに行くのだが、代わりに部屋の中を飛び回らせてスマホのムービーで撮影した。
 チッチというかキッキというか、これが蝙蝠の超音波かと思わせるような鳴き声も聞いた。
  何枚かの写真は妻に撮ってもらったので、残念ながら多くがピンボケだったが、牙をむいた顔は明らかに獣だった。
  羽根??は薄い薄い皮膚のようで、蝶などよりは格段に丈夫そうだ。
 「まるで薄いナイロン製の蝙蝠傘そっくりだ。」と思ってから、「当たり前か。」と自分の想像力の貧困に悲しくなった。
 その薄い羽根?に透き通るように手足や指が見え、広げてみると「鳥人間コンテスト」入賞間違いない原始飛行機的可愛さだ。 
  観察のためにいろいろ触っているときに見事に噛みつかれた。これでさらに獣を実感した。
  それでも可愛い可愛い小動物である。
  「お礼に福を持って来いよ。」と言って放してあげた。
 小林朋道著「先生、巨大コウモリが廊下を飛んでいます。」という楽しい本もある。その内容が参考になるかと思ったが、イエコウモリの観察は「かすりもしない」平凡なことで、こんなことに喜んでいる私はおかしいのかと反省した。

 (好まれないお方もおられないかと写真は大きく掲載しないでおいた。お好みのお方は写真の上でクリックしていただくと大きくなります。)

2013年8月22日木曜日

人称代名詞などのこと

  私は小さい頃、ちょっと恥ずかしいが母のことを面と向かっては「お母ちゃん」と呼んでいた。大阪の標準的な言葉だとは思う・・・。
 船場言葉に「おかん」はなかったと思う。
  こういう習慣は、私が大きくなったからと言って早々には変えられず、特に男である私は、いつまでも「お母ちゃん」でもあるまいし、かと言って、途中から「母さん」に変更するのもこそばゆく、面と向かって「おふくろ」も使いづらく、ある時代はその種の人称代名詞を使わずにきた。
  それが完全に解消されたのは子供ができたときで、ここで改めて実母、義父母は「お祖父ちゃん、お祖母ちゃん」に、そして私たちが「お父さん、お母さん」に落ち着いた。
  もちろんそれが、今現在では「ひいばあちゃん」、そして私たちが「祖父ちゃん、祖母ちゃん」、息子夫婦が「お父さん、お母さん」に昇格?していることは言うまでもない。
 ただし、まあ普通には私は妻に対して「祖母さん」ではなく「お母さん」と呼んでいる。こんなのを人称代名詞と言ったかどうか?

  よくキャッチセールスなどで、「ねえお母さん!」と呼ばれたとき妻は、「あんたにお母さんと呼ばれる筋合いはないわ。」とか「あんたなんか産んだ憶えはないわ」と怒っていたが、これは彼の母という意味ではなく、普通に想定される社会や家族構成中の位置で呼び合うことは、これも普通の日本語の使用方法にあるのだから、この怒り方は筋違いだろう。
 それを知ったうえで「お母さんではなくお姉さんと言いなさい。」と怒っているのなら、話の筋は違っていないが、客観的合理性は・・・・・その評価は保留する。

  と言っても、言葉に付きまとうこの種の微妙なニュアンスは抜きがたく、母の知り合いが妻のことを「若奥さん」と読んだときも、「若ないわ」と、・・・・若い=未熟というか、その知り合いが母(奥さん)の方を主と見なしている(若奥さん=従の)感じがして不機嫌だった。
 妻、嫁、家内、奥さん等々も、実際の会話の文脈、その人とこちらの関係等で微妙であり一概には言えないが、一時期、労働組合の婦人部が女性部に名称を変えることが流行ったように、古い男社会の手垢を嫌う女性の言い分も解からないことはない。

 で、胸に手を当てて考えてみると、私は普通の会話では妻のことを家内という。
 これも、家の内だけに従的に存在する女のイメージだと言われると反論できないが、軽い謙譲語の範囲内で許容されるのではないかと自分では思っている。

 会話ではないが、このブログの読者のAさんは「ワイフ」を使われていた。
 私の父母は明治生まれであったが、父が「ワイフ」と使っているのを見たことがあるし、テレビの初期には結構「ワイフ」も画面の中で使われていた。
 そして、「ワイフ」も悪くはないなとこの頃は思っている。
 読者のB女子は「つれ」とか「つれあい」と呼んでいる。
 その心は、どうしても夫唱婦随というか、そういう古臭い香りのする言葉一切合切を克服したいということなのだろうと想像する。
 ただ、その言葉に感じるニュアンスは各人の生い立ち等によって抜きがたいものがあり、私などは「つれ」と聞くと、生意気盛りな男子が肩に力を入れて悪友達のことを指して言うイメージを感じてしまって馴染めない。全く私的な感覚を述べているだけなので誤解のないよう・・・・。
 読者Cさんの「嫁さん」「嫁はん」も、近頃のテレビでは主流の地位を占めているようにも見えるし間違いとは言わないが、やはり基本形は『息子のお嫁さん』だろうという感じがして、自分の妻を「嫁」と言うのは私はいつも違和感を抱いている。これも全く私的な感覚だけ。

 さて、全ての文化は歴史を背負っており、その歴史の多くはある種階級社会、差別社会の歴史であるから、その母斑をどこかに残していると思う。同時に、社会の発展とともにそのイメージも変わり得ると思っている。そんな気持ちで、「ほんとうはどうなんだ。」と「嫁」という字を白川静先生の著書に問うてみた。
 俗にその字は「家に従属した女」のように言われたりするが、白川先生は、そんな低レベルの理解は間違っているとして、あるいは、かの有名な「説文解字」が「婦は服従する人」と書いているのも誤りとして、「家とは祖先を祭る廟(みたまや)のこと。古代中国には人々はみな姓(同族の組織)があり、結婚は必ず異なる姓の間で行われた。新妻は嫁ぎ先の氏族神に加入の許可を受ける「廟見(びょうけん)の礼」を3か月にも亘って行った。その形が「嫁」であると説かれている。
 この限りでは、現代社会から見ると不合理な制度かも知れないが、明確な女性差別はないのではなかろうか。
 だから、これらの呼称を考える際、白川文字学という原点に返ることも大切かも知れない。
 
 それにしても、こんな基本中の基本の言葉についてこの歳でわだかまっているのであるから、日本語というのは難しいものであるというか・・・自分の教養のなさが恥ずかしい。
 読者の皆さんは、こんなこだわりは一切ありませんか?
 配偶者に面と向かってなんて呼んでおられます? 私は「お母さん」と呼びます。
 他人と話しているときは? 私は「家内」です。
 文章では? 私は「妻」を使っています。

 先日、岸和田っ子の宮本岳志議員がフェースブックで、「少年Hのお父さんが息子のHに向かって『あんた』と呼んでいたが違和感があった。岸和田では『お前』である。」と書いていて笑った。
 こういうことって正解不正解ではなくアルアルって感じがする。

2013年8月19日月曜日

盆踊り雑感

 
  先日、実母がお世話になっていた老人施設で夏祭り(盆踊り)があった。
 家族会としてお手伝いさせていただいた。
 その準備の会議のとき、私は「入所者に踊ってもらおう。」と何回も大きな声で提案した。
 というのも、会場はあまり広くなく、入所者はほゞ100%車椅子だからで、これまで、どうしてもスタッフの盆踊りを鑑賞する感じで終わっていたからである。
 そして、何年か前の祭りの後、私が母や周りの方々に「踊りたかったねえ。」と呟いたとき、意外なほど多くの方々から「踊りたかった。」と聞いたからである。
 だから、手が動かなくてもよい、車いすに座ったままでもよい、それでもできるだけ多くの入所者に車椅子のまま廻ってもらおうと会議で呼びかけた。
 そうして、家族会の役員が率先して車椅子を繰り出した。
 結局は、盆踊りの止まって踊るタイミング、歩いて少し回るタイミング、前進方向や中心向けになるタイミングに合わせて車椅子を押したり曲げたりしただけだったが、ほんとうに喜んでもらえた。盆踊りの力はすごいものである。

 現在義母の入所している施設の大規模な盆踊りは9月である。小規模なのはこの間もあった。
 義母はここでは手足が比較的丈夫な方である。
 そして、炭坑節が好きで、盆踊りでは「自分は期待されているんだ。」と信じて疑っていない。
 私たちも、「もうすぐ盆踊りやねえ。」「しっかり踊れるようにリハビリしとかな。」と励ますのが相乗効果を発揮している。
 我が家に外泊のときも練習するのだが、ノリ過ぎて興奮しすぎないようにバランスをとるのが難しい。
 農家の娘に生まれ、ただひたすら働き続けてきた人生である。
 どこで憶えたのかも不明なのだが、唯一の趣味の炭坑節は今では救いになっている。

 孫がやって来た。
 レコードプレーヤーのようにお父さんのスマホの動画を再生して盆踊りを踊り始めたのでびっくりした。
 もちろん、何となくそれらしく手足を動かしているだけだが、それでも間違いなく盆踊りだった。
 参加した近所の盆踊りが相当気に入ったらしい。
 そして、祖父ちゃんも祖母ちゃんも一緒に踊れと執拗に腕を引っ張った。
 結局、祖父ちゃん祖母ちゃん、お父さんお母さんが踊る輪の中で孫が踊り、見事な盆踊りの雰囲気が出来上がった。
 何回も何回も再生して孫は終わるのを許さず、江州音頭に付き合わされた。
 どうしてかは知らないけれど、盆踊りは強烈に楽しい体験だったようである。
 今では祖母ちゃんといっしょに「〽つきがでたでた~」も歌い踊っている。

 よくテレビの「お母さんといっしょ」などで、いろんな振付つきのダンスや歌をやっている。
 孫はそんなのも好きではあるが、このホンモノの盆踊りは格別だったようだ。
 思うに・・・、幼児だってニセモノよりもホンモノが好きなのだ。
 そんな瞬間を発見した時にビクッとすることがある。幼児をなめてはいけない。
 「お坊ちゃまお嬢ちゃまさあ踊りましょう。」「できるかなあ。」というのんよりも、「よいとよんやまっかどっこいさあのせえ」という妖しい江州音頭の方がホンモノだと孫には判っているのである。
 それは、テレビの中の作り笑顔以上に、その場の大人たちが楽しそうな顔だったからに違いない。

2013年8月17日土曜日

ツバメのネグラ入り

  古来、鳥は霊界からの使者と信じられてきた。
  ・・・というような言葉を心の底から納得して吐きたくなるような光景であった。それはお盆(14日)だったからかもしれないが。
 ほんとうに俗世のあちこちから集まってきたなんて信じられない。ぜひ実感してほしい。
 何回も見てきた光景だが、今年もそんな気分にさせる、ある種神秘的な一瞬だった。

  今年は平城宮跡につまらぬ舗装工事等が施工されて心配していたが、以前のブログに「きっとそれでも帰ってくるだろう。」と書いたように、ツバメたちは帰ってきた。
  そしてこの光景である。
  冒頭の言葉も大袈裟ではない。
  身体が小さいので楽しんでいられるが、まさにヒッチコックの「鳥」さながらだ。
 写真の何十倍もの迫力を想像してほしい。
 4万羽と言われている。
 近鉄西大寺から10分程度で見ることができる。大極殿の西である。

 先日、明日香村の村長が「飛鳥の宮殿を復元したい。」と発表した。
 学術的な検討無しの「観光の目玉づくり」である。
 奈良県知事や県下のいくらかの首長は京都の有名観光寺院が羨ましいらしい。
 その精神ってあちこちの「小京都」ではありませんか。私はどうも精神の貧困を感じる。
 観光施策を全く否定していない。 奈良は観光立県でよいとも思う。
 だからこそ言いたいが、奈良にはホンマモノが残っているのだからホンマモノで勝負してほしい。
 ツバメのネグラ入りはそんなホンマモノのひとつである。

2013年8月15日木曜日

終戦記念日

  ■ 戦争を知らない子供たち
  北山修や杉田二郎は同時代人である。
 でも、「戦争を知らない子供たち」はあまり好きではない。
 あまり好きではないが、戦争を知らない子供であることには間違いない。
 だから、堺の大空襲も私は直接体験していないし、そもそも当時父母も堺には転居していなかった。
 しかし、小さい頃に堺市堺区宿院町西の川尻にあった「戦災慰霊堂」の読経と御詠歌だったかのお参りに何回か母に連れられて行ったことがある。
 阪堺電車が宿院から大浜公園に分かれていたが、この阪堺線のガード下や土居川に死体が重なっていたと、その席で皆が語っていたが、小さな男児は「そんなことがあったんか」という程度の理解だった。
 「歴史たんけん堺」という素晴らしい本があるが、その中の「まちに残る戦争の傷跡たんけん」のページにこの慰霊堂が載っていないということは今はもうなくなっているのだろう。このように歴史は忘れ去られていくのか。

 ■ それでも、日本人は「戦争」を選んだ
  今日という日は、沖縄、広島、長崎、そして8月15日に向かった戦時体制というものがどのように進行して行ったのかという反省をしすぎるということがない日だと思う。
 ちょっとした知識人なら彼我の戦力から選択しようがないと考えられる戦争であった。
 にもかかわらず、一部のファシストが羊の皮をかぶって一夜にして戒厳令を敷いたわけではなく、明日の生活に希望が見いだせない普通の庶民が、「このままでは国は亡びる」という国家改造論に共鳴し、政友会や民政党よりも陸軍のスローガンを支持したという側面があったのではないだろうか。支持しないまでも傍観していたということも。(諸事実については加藤陽子著「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」に詳しい。)

 ■ 少年H
 「この非常時に。」という呪文の下、庶民が庶民を監視し密告した社会の恐ろしさは、猛暑対策を兼ねて観てきた「少年H」が教えてくれる。
 この映画あるいは原作は、神戸の一角の少年の話でありながら、ユダヤ人も描いているところがすごいと思う。
 戦地での餓死や玉砕、外地での置去りと引き上げ、シベリア、沖縄、広島、長崎、各地の空襲・・・悲しみは数えきれないが、大切なことはアジアの人々の犠牲であり、この加害責任を抜きにした終戦記念日はないと私は思う。

 ■ 昭和天皇独白録
 終戦記念日に私が思う第二の点は、この時点での昭和天皇の意識である。
 「昭和天皇独白録」によれば、7月25日に「もし本土決戦となれば、敵は空挺部隊を東京に降下させ、そうなれば、皇祖皇宗よりお預りしている三種の神器も奪われることも予想される。」と述べ、8月9日の『聖断』において、「敵が伊勢湾付近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の餘裕はなく、その確保の見込みが立たない。」・・・・故に講和をせねばならぬと思った。とされている。
 この全く浮世離れした感覚こそ天皇なのだと私は「納得」し、だからこそ天皇を浮世の政治に利用してはならないと強く思った。

 歴史は現在を照らしてこその鏡であろう。

2013年8月12日月曜日

蝶の話とお洒落の話

  蝶の羽には鱗粉がある。故に「鱗翅類」と呼ぶ。
  これを「怖い」とか「気持ち悪い」という女性は少なくない。
  毒蛾のイメージと被るのだろうが、蝶にとっては傍迷惑な話である。

  孫が来たので昆虫採集というほど大層なものではないが、カラスアゲハ、ナミアゲハ等の蝶々を捕って部屋の中に飛ばして遊んだ。
  手を虫籠のように膨らませてそっと捕まえること。
  人差し指と中指の脇腹で優しく翅を挟んで持つことを教えたら、すぐに習熟した。
  と言っても2歳である。触りまくって鱗粉がとれて蝶が弱ってきたので「お家へ帰してあげよう。」と・・・孫は納得して外へ自分で放ったのだが、靴下のまま土の上を追いかけて行ってワーンワーンと泣きじゃくった。
 幼児の感性には邪念がない。喜んでいるときも泣いているときも祖父は嬉しい。

  蝶の美しさというと、森英恵のデザインが有名だった。
 私は没個性を旨とする?職種についていたが、森英恵の蝶のネクタイを何本か持っていた。
 それは、オシャレ心というよりも遊び心で、センスというよりも「ヒョウ柄を好む大阪の〇〇ちゃん」に通じるレベルである。
 hanae moriさん、ヒョウ柄と蝶柄をいっしょくたにしてごめんなさい。 
 まあ、ネクタイは男性の唯一のオシャレどころであり、個性の主張できるところである。
 昨今は、1年の半分がクールビズでノーネクタイだが、みんな「ドコ」で「(精神的に)遊んでいる」のだろう。

 何ごとによらず、近頃はメディアの発する「流行」なるものに遅れまいと強迫観念を植え付けられている。
 「没個性的職種」と言ったのも裏返しの意味で同様である。
 それが服装や食べ物の話であるうちは他愛がないが、それが社会問題にまで及び、マスコミの「大本営発表」に洗脳されて自ら情報を入手し検討することなどについて思考停止に向かうならいただけない。
 「今年の流行はこれこれだ。」に振り回されるということは、「(民主党に)政権交代だ。」「第三極だ。」になびいた精神的土台ではなかっただろうか。
 と、大上段に振りかぶり過ぎたが・・・、結論は浅く、個性的なオシャレは精神の自由を涵養する・・・ということ。
 オシャレに無頓着でない人の話は概して面白い。
 と、判ってはいるのだが、この歳になると、気合いを入れないと庭仕事の延長のような姿で大阪市内に出かけてしまう。
 作務衣と雪駄で颯爽とやってくる友人が眩しい。
 で、自分に気合いを入れるつもりでショッキングピンクのポロシャツを引っ張り出した。
 「どうだ。」と、自分に言い聞かせた。   

 それから・・・・・、
 七分袖の上着のようなシャツを買った。
 こんな衝動買いは軽蔑されるかもしれないが、『しまむら』でTシャツとセットで1800円だったから笑って許されるだろう。
 息子が「若者は安いのを買って着こなすのだ。」と言ったその教えに従って挑戦した次第。
 ところがLを買ってきたのだがどうも窮屈である。
 日頃、妻が「若い子用の店の服を買うとサイズが合っていても肩周りが窮屈だ。」と言っているのと同じだろう。
 この挑戦はズバリ年寄りの冷や水だったらしい。
 ボーダーのTシャツとセットで息子に貰って貰った。
 あ~あ、オシャレを論じる資格もなさそうだ。

  明日はお盆の迎え火で苧殻(おがら)を焚く。
 小さい頃は祖母に「お盆の間は虫捕りや魚釣りや殺生はあかん。」と言われ、少し後ろめたい気持ちを背負いながら蝶を捕ったものである。

2013年8月10日土曜日

ロブスターはお好き

  テレビで、角淳一アナがフォークの岡林信康に「小さい頃何してた?」と尋ねたら、岡林が「ザリガニ獲ってた。」「あれ美味いねん。」と言っていた。
  そのやりとりがあまりに楽しかったので、以前にも書いたことがあるが重ねて思い出を書く。

  小学校のとき、堺市内全体の連合運動会の夕方、クラスの多数で『茹でザリガニパーティー』をした。美味しかった。
 運動会の会場であった、そして南海ホークスの練習場でもあった中百舌鳥球場周辺にはザリガニがいっぱいいたのである。
 旧堺市内の、校区に田圃がない都会っ子たちにとってはそれは夢の世界だった。

  ・・・と・・・、父母から連絡があったのだろう、翌日には学校で大問題となった。
  今風に言うなら、「学校は知っていたのか。」「寄生虫に感染したらどうするのだ。」という感じだったのだろう。
  「誰が首謀者か」ということになると、すぐに私だということになり、呼び出しとなった。
  そこで私は、「アメリカザリガニはそもそもが食材として輸入されたもので美味しいはずのものである。」「寄生虫である肝ジストマの中間宿主であるので気をつけなければならないが、十分熱を通せばそれは死ぬ。」「そのように授業で習ったので、私が責任をもって熱を通した。」と述べたところ、担任及び教頭先生は、「それならよい。」と全く叱らなかった。本当に全く叱らなかった。そんな時代とそんな学校があった。
 (まあ「授業で教えてもらったとおりにした。」というのが殺し文句だったのだろう。)

  今でも、ザリガニと聞くと顔をそむけるがロブスターというと喜ぶのが世間の大勢である。
  私は「自然なままのものほど素晴らしい。」というほど単純な見解にはたっていないけれど、TPPでは、遺伝子組換えや薬まみれの食材の時代がやって来る。ザリガニどころの話ではないが、何故かマスコミは報じていない。
  遺伝子組換えや薬まみれの食材というと、有機溶剤による職業癌やアスベストによる中皮腫のように、遅発性の病気が心配だ。発症し泣くのは孫たちかもしれない。
 アオサギを見ながらそんな未来が心配になった。
 アオサギのそのザリガニは美味しそうだった。

2013年8月8日木曜日

被害者に語れと言う酷さ

  先日から、自分のブログや知人のブログのコメントで、私たち普通の高齢者が歴史(体験)を語り継ぐことの大切さを書いてきた。
 そうであるなら、この時期に原爆について語らなければ、これまでの書き込みはいったい何だったのか、単なる善人面をした「評論」なのかと言うことになる。
 ちょっと「ええかっこ書き過ぎたか。」と天に唾した気持でもある。
 と言って、戦後第一期生の私は直接的には戦争を知らないし、大人になるまで広島にも行ったことがなかった。
 だから、直接的な原爆のことでなく、私の出会った被爆者のことを書くことでささやかな語り継ぎとさせていただきたい。

  1970年代に私の所属していた労働組合は「核兵器廃絶、被爆者援護」のいろんな運動を取組んでいた。
 そんな中の一環として、国連への要請団に広島支部の被爆者が参加した。
 この先輩は、体格も立派で、仕事の上でも労働組合の役職でも文字どおり幹部であったし、そういう風格もあった。
 被爆者らしい「見た目」もなかったし、少し長い期間のいろんな交流の機会もあったがそんな話も聞いたことがなかった。・・・と、少し意外であった。
 その方は、ニューヨークでは立派な行動を精力的に展開され、あちらのテレビのインタビューも受け放映された。
 そして、帰ってこられて、労働組合の集会でその報告を私たちは聞いた。
 するとその先輩が、夕食時だったかに、ふと「原爆の話はほんとうはしたくないんじゃ。」とおっしゃった。が、その意味を私は解からなかった。
 よく大新聞が原水爆禁止世界大会を評して、「現地の被爆者は冷ややかな目だ。」と意地悪気に書いていたし、もしかしたら「被爆者の気持ちは被爆者以外に解かるもんか。」という意識に通じるもので「話したくないんじゃ。」と言われたのかと思ったりした。
 そして、その夜はホテルの二人部屋にその先輩と私が寝た。

 その真夜中、私は先輩の恐怖にひきつった「うおおう。うおおう。」という叫び声に起こされた。最初は心臓発作か何かの急病かと思ったが、おこしてみるとうなされていたのである。
 そして、それは再び寝入ってからも再三発生した。
 体格もよいからかもしれないが、剣道に見る悲鳴に似た発声よりも大きな、ほんとうに恐怖にひきつったうめき声だった。
 その声は、ある意味、私の気持ちをも恐怖に引っ張り込んだ。寝付けなかった。
 翌朝、「夕べ迷惑をかけたんと違う?」「昼に原爆の話をしたら夜中に必ずうなされるんじゃ。」とおっしゃった。だから、恐怖にうなされるのが怖いから語りたくなかったのだと。こういうことが度々あったのだと。
 私は、そのうめき声で原爆の悲惨さを、何百枚の写真や分厚い本よりも、自分の感情として深く理解することができたような気がする。

 先日、維新の橋下大阪市長が「従軍慰安婦に強制はなかった。」「証拠がない。」と発言した。
 それ自体、はっきりと残っている史実に反している不当な発言だが、それ以外にも、彼には酷い事件に蹂躙された被害者のPTSDやその症状としてのフラッシュバック、夢の中での辛い再体験の怖ろしさに対する人間的な想像力、理解力が欠けている。
 悲惨な事件ほど、その大きさほどには語られないものだということを、フクシマに重ねて我々は肝に銘じなければならない。
 でも、それだからこそ私は、そのつらい体験と事実を語って伝えてほしいと、酷いお願いを体験者にするのである。
 そして、伝え聞いた私たちは、その(聞いたという)体験をまた語り伝えなければならないとつくづく思うのである。
 こんな中学生でも解かるような当たり前のことが、何故か当たり前のように思われていない現代というのは何処か病んでいないだろうか。

2013年8月6日火曜日

鷹乃学を習う

  7月17日に「鷹乃学を習う(たか わざをならう)」という七十二候の中のひとつの候があり、19日からは18日間の土用に入った。
  判ってはいたが、その頃は天候が安定していなかったり、こちらが元気が出ず、8月に入ってからようやく土用干しを行った。
 手伝ってくれた孫は柔らかい梅がお気に入りで、ちょっと摘まんでは口に入れた。
 「塩分を摂り過ぎたら成人病になるぞ。」と叱っても2歳の孫には通じない。

 部屋に入ってから孫は、扇風機の前で団扇をお皿のように持ち、その後で祖父ちゃん祖母ちゃんのところに来て扇いでくれた。
 要するに、扇風機の涼しい風を運んでくれているのだ。
 父さん母さんに、そんなことを教えたの?と聞いたが教えていないとのことで、メルヘンチックな孫の知恵と心遣いに祖父ちゃん祖母ちゃんは感激した。
 そして、「鷹乃学を習う」季節(七十二候)を実感した。

 「土用といえば土用の丑の日」であるが、鰻の値段が高騰している。稚魚の乱獲が原因で当然だろう。
 だから今年は、鰻には手を出さなかった。
 私は鰻も鮪も大好きな日本人だが、ちょっと此の頃の地球規模の乱獲は度が過ぎていると思う。
 日本人だけが悪いのでなく、日本に輸出すれば儲かるという人々もいるのだろうが、つくづく資本の原理には倫理が欠けていると悲しくなる。
 新自由主義者の皆さんは、市場というものは野放しにすればするほど適切な結論を選択するというのだが、馬鹿も休み休みに言ってほしい。「規制緩和」、「小さな政府」は、亡国の呪文である。

 大型スーパーの様子から勝手に推測するのだが、その貴重な鰻のかば焼きにしても、「土用の丑の日に付き完売・・・」というような様子はなく、高額ゆえだろう結構売れ残っている。・・・ということは、日本国中で大量に廃棄されていることだろう。
 これといった対案は持ち合わせていないが、「鰻はそんなに安なかってもええなあ。」「売り切れ御免程度の量を並べるだけでええなあ。」と夫婦でぼやきながらスーパーをまわった。
 本当に対案は持ち合わせていないが、川上に広葉樹を植樹したり、海に漁礁を造ったりと、日本人はもっと謙虚な人々であったはずなのに・・・と、思ってみたりした。

2013年8月4日日曜日

堺時代

  歴史の時代区分は、通常その時代の権力の所在地の名をつけて呼ばれている。
  奈良時代、鎌倉時代、江戸時代等々である。
  それからすると安土桃山時代の後半は大坂時代ではないかと私は思う。
  しかし、今日のテーマは大坂時代ではなく堺時代のことである。

 大永7年(1527)桂川原の戦いに敗れた管領・細川高国は12代将軍足利義晴とともに京都を脱出し、室町幕府は崩壊した。
 代わって、争っていた細川晴元が足利義維を擁して堺の顕本寺から政治を行うこととなったのが「堺公方(くぼう)」「堺大樹(たいじゅ)」で、義維は次期将軍として朝廷への進物もすませていたことから大樹と呼ばれた。大樹とは将軍のことである。
 よって、日本中世史研究者今谷明氏は、その実態は堺幕府であったと述べている。
 堺ファンには残念ながら5年余りで堺幕府は崩壊したのだが、日本史年表にスリットのような堺時代があってもよいと思う人は少なくない。
 この話は堺では珍しい話ではなく、写真のパンフレットや掲示物で堺市民ならだれでも知っている。

 他所から見ると他愛ない郷土自慢でしかないかもしれないが、「他愛ない話だ。」と鼻で笑って他人の心の中にズカズカと土足で入っていってよいものではない。
 ・・・・・と、別の事案ながら橋下氏には強く忠告したい。
 彼等は、堺市を解体して大阪都に吸収すると今言っている。
 大阪都構想なるものを装飾するために無理やり堺を引き込みたいのだろうが傍迷惑な話である。
 また、二重行政などという言葉だけが独り歩きしているが、地方自治行政は、単純な目先の経済効果で語るべきものではないし、堺市にとっては二重行政と言われる筋もない。いわんや単なる選挙のキャッチコピーにされては堪らないと思う。
 とまれ、最も安上りの国家はファシズム国家であることを想起すべきであろう。
 その上に、先の総選挙から比べると明らかに参議院選挙で凋落した後の、橋下氏の維新共同代表としての投げやりな態度を見ると、こういう人々に歴史ある堺の自治を振り回されたくはないものだとつくづくと思う。
 何が悲しくて大阪都の1パーツにならなければならないのか。
 9月には堺市長選挙がある。
 「住みよい堺市をつくる会」が、維新が立候補なら大阪都構想反対の一点で竹山市長を支持して闘うと決定した。
 現堺市政の詳細は知らないが、大阪都への吸収ほど酷い話はないから、私はその決定に強く賛同する。
 堺を好きな人々は賛同の声を上げて欲しい。

2013年8月2日金曜日

お化け胡瓜の冷やし餡かけ

  今年はどうしたことか胡瓜の出来が良い。
  毎年7月中旬ごろには「うどんこ病」などにやられたりして収穫終了になるのだが、今年は8月の声を聞いても収穫のピークが続いている。
  で、ご推察のとおり嬉しい?悲鳴を上げている。消費が追い付かない。
  よく、スーパーの売り場近くに看板代わりのお化け南瓜やお化け西瓜が飾られたりするが、それらに負けず劣らない直径7㌢長さ50㌢の胡瓜がボコボコとでき始めた。
  そのため私は、今年の農作業の優良ぶり(つまり豊作)を評価されるのでなく、収穫量の計画誤り、計算誤りを妻からなじられている。
  だから、半分意地になって、ぬか漬け、酢の物、バンバンジー、ジャージャー麺等々胡瓜の料理に挑戦しているが、もちろん間に合わない。
  写真は、そこで妻に作ってもらった「お化け胡瓜の冷やし餡かけ」で、これなら桁違いに量を消化できる。
 予想以上に美味しいので、あちこちに配りまくった。
 京料理の風情もあり、誰も苦肉の策のおすそわけだとは思わないだろう。

 レシピのポイントは美味しい出汁を作ること。
 その出汁で皮をむいた胡瓜の表面が透明に光るまで煮る。
 片栗粉でとろみをつけて、冷蔵庫で冷たく冷やす。
 そのままでも美味しいが、おろし生姜をチョッと加えた。ただそれだけ。

 胡瓜の料理といえば、近所の某大型ショッピングモールの食品売り場で、「鱧の皮はどこですか。」と聞いても、「鴨の皮?」とか「はあ?」とかの返事で、結局置いていなかった。おい、おい、おい。
 これも、買う人がいないから置いていないのか、置いていないから買わなくなったのか。
 関西の夏と言えば鱧の皮は定番やろ。・・・は、通じない話なの?
 この大型スーパーは関西文化に対して謙虚でないというよりも無知すぎる。と、私はひとり怒っている。

 さて、一坪農園をしている同輩も多いが、顔を合わせると「胡瓜持って帰らへん。」「トマト持って帰らへん。」とお互いに言い合っている。
 奥様方は一様に「穫れ過ぎて始末に困っているねん。」とぼやいている。
 でも・・・・・、現役時代の、増産増産との働き癖が抜けない元企業戦士を責めないでやってほしいものだ。
 元戦士は口では「穫れ過ぎだ。」「困った。」と言いながら豊作ぶりを喜んでいるのである。
 この癖は今さら変えられない。