幻冬舎新書・中村仁一著「大往生したけりゃ医療とかかわるな」を読んだ。
役員をしている老人ホームの家族会の次年度方針案を議論していたとき、「この先生の学習会はどうやろう」という意見があったので興味を持ったからである。
各章の大見出しを並べると・・・、
第1章 医療が“穏やかな死”を邪魔してる
第2章 「できるだけの手を尽くす」は「できる限り苦しめる」
第3章 がんは完全放置すれば痛まない
第4章 自分の死について考えると、生き方が変わる
第5章 「健康」には振り回されず、「死」には妙に抗わず、医療は限定利用を心がける
・・・と言ったところである。
著者は、「水だけ飲む日が一再ならずあり」という苦学の末に医者になり、病院長や医師会、病院協会の役員までなりながら、病院の理事長を辞し老人ホームの常勤医になったという。
その老人ホームは、理事長が永観堂の管長で、副理事長は清水寺の執事長らしい。
こんな重いテーマを一言で語ることはできないから、興味の湧いたお方は直接お読みいただきたい。
重すぎる・・というお方は読まない方が良い。
実母は100歳を超える大往生であったし、数時間前まで話ができていたほどに認知症も軽かったのだが、しかし、それまでの老老介護の日々には本当にいろんなことがあった。
まず、老人ホームに入所した際に「どこまでの治療を希望するか」と尋ねられ、その旨の署名押印を求められたときには正直に言って驚いた。そして、心は騒いだ。
一般論としてはその種の問題に直面する状況がありうることは解かっていた。
しかし、実際の老老介護は突然やってくるのだった。
その後も、数か月ごとのホームとの協議の席や、そして、症状がいよいよ深化した際に、再度、再再度「どこまでの治療か」を念押しされた。
そのたびに私は、手術は不要、それに結びつく入院・検査は不要、チューブによる人工栄養は拒否と書いて署名押印をしてきたが、「私は正しい判断をしているのかどうか」と煩悶しなかったと言えば嘘になる。
結果論だが、私は尊厳死というか自然死を選択した。
こんな重いテーマの模範解答は判らないが、この本が私の心を慰めてくれたことは確かである。
そして、このテーマは、そろそろ自分自身について決断のときを迎えつつある。
先日は夜中に「マラソンでゴールに倒れこんだ」ような呼吸が止まらないという不整脈に襲われ妻は119番に電話した。これは「そろそろ考えても早くはありまへんで」というシグナルに違いない。
知り合いの方が尊厳死協会に登録したと言っていました。もう10年以上前です。 自分の親だったら受け入れられるか? 最善の治療をしたい、でも親の気持ちも、何も治療しないのも苦しい と 悩んだことを思い出しました。難しく奥が深い事です。
返信削除匿名さん コメントありがとうございます。
返信削除結局、生病老死をどうとらえるか、どう向き合うかのの問題なのでしょうが、凡人にはすっきりとは割り切れません。そして「すっきりと割り切れないのが人生なんだ」ともよう割り切らずにぐずぐずと日々を暮しております。
まず長谷やんさんがこの重いテーマを記事に取り上げたことに敬意を払います。「老人ホームの家族会」というコミニティーの誠実さや健全さも伝わってきました。
返信削除長谷やんさんのコメントにもあるように、生老病死とどのように向き合うかが一人一人に問われているのだと思います。特に老病死を他人ごととせず自分の問題とできるかどうか、また老病死を将来の問題とせず今の問題とできるかどうか、などが向き合ううえで不可欠のスタンスだと思っています。そのために肉親の老病死は得難い教えになると思います。
ただ、どのような死を望むかについては、近年の再生医療などの急速な進歩からすれば、尊厳死と延命治療の境界の区分けがますます難しくなってきたように思います。
和道おっさん コメントありがとうございます。
返信削除嘘でも褒めてもらうと恥ずかしくて逃げ出したくなります。
私は何もわかっていません。覚悟もありません。真剣に考えれば鬱になりそうで逃げまくっています。
そして「逃げてばかりではいけないぞ」と反省する毎日です。
こういうテーマは、いつも和道おっさんのブログで勉強させてもらっています。お世辞ではありません。