2012年6月30日土曜日

燕が珍しくなる日

  燕は「田の神様を負うてくる(広島)」「大神宮様のお使い(新潟)」などと、昔から瑞穂の国の人々に親しまれ愛されてきた。その理由は説明されなくても理解できる。
  その割には、古代の土器や銅鐸などの絵画を思い浮かべると、鳥という意味では白鳥のような水鳥はあちこちに登場するし、害虫を獲るという意味ではトンボの絵も有名だが、燕の絵や古歌は浅学にして知らない。
  古代ではないが、「仏教盛んな中世の人たちから見ると、虫を食べて殺生し、土で巣を作り子煩悩で、寒くなれば餌を求めて南へ渡る燕はあまりに現実的で下品(げぼん) に見えた」との松浦敬親氏の文に接した折には「そんな見方もあるのか」と少々驚いたり半分感心したりした。
  しかし、近年その数は40年前の半分にまで減ったと言われている。
  その理由のあれこれも容易に想像がつく。
  その上に、東日本大震災による水田の放棄、放射性物質の被曝が追い討ちをかけていると、日本野鳥の会などは心配を深めている。
  そういえば、確かに、飛んでいる姿はよく見るが、燕の巣をあまり眼にすることは少なくなった。
  写真は、義母の入所している施設の巣。半人前のことを「くちばしの黄色い者」というのもよく判る。
  親燕が1時間に520回も餌を運んだという観察記録もあるそうだが、確かに一夫一婦の親燕が頻繁に帰ってくる。
  近所には、減農薬なのだろう、カブトエビの大発生している田圃もある。カルガモが居ついている田圃もある。善哉、善哉。

  親燕の飛んで帰ってくるスピードと回数、その度の子燕の大合唱は、躍動感や生命感に溢れている。その意味で老人施設の燕の巣はありがたい。

  とまれ、重ねて言うが燕は激減しているらしい。
  国際金融マフィアや多国籍企業がこの列島を破壊しつくさないうちに、燕が飛びかう国を再建していきたい。
  燕を半減させた犯人は、効率的な経済一辺倒で走り続けてきた私たちかもしれないから。

  下の写真はチェルノブイリ汚染地域で見つかったもの。体の一部が白くなったもの、くちばしの異常。尾羽の異常。何れも日本野鳥の会のHPの写真。
  孫や曾孫が泣いてからではもう遅い。
  


2012年6月28日木曜日

夏越の祓

  明後日は半年間の罪や穢れを祓う大祓の日で、茅の輪をくぐるとこの半年間におかした罪や穢れが祓われ清められるとされているが、いらちの私は既に25日に北野天満宮で茅の輪をくぐってきた。
  さて、 その大祓の際に古くは天皇自身が、飛鳥~奈良時代には中臣氏が読んだ大祓詞(おおはらへのことば)が延喜式に記録されているが、現在の春日大社(中臣~藤原氏の氏寺)等一般的な神社では「天つ罪(あまつつみ) 國つ罪(くにつつみ) ここだくの罪(その他多くの罪)・・・」と跳ばして読むが、延喜式にはそれぞれ具体例が挙げられている。
  それによると、天つ罪としては、畦放ち(あはなち)(田のあぜを壊す)、溝埋め(みぞうめ)(田の溝を埋める)、樋放ち(ひはなち)(潅漑の樋を壊す)、頻蒔き(しきまき)(他人の田畑に重ねて蒔いて成長を妨げる)、串刺し(くしさし)(家畜に串を刺して殺す又は耕地に串を刺す)、生剥ぎ(いきはぎ)(家畜の皮を生きたまま剥ぐ)、逆剥ぎ(さかはぎ)(家畜の皮を尾の方から剥ぐ又は皮を剥ぐ順序を逆に行なう)、屎戸(くそと)(肥料の屎に呪いをかける)、ここだくの罪が、
  國つ罪としては、生膚断ち(いきはだだち)(生きている人の膚を傷つける)、死膚断ち(しにはだだち)(死んだ者の膚を傷つける又は膚を傷つけて殺す)、白人(しろひと)(白あざや白なまず)、胡久美(こくみ)(いぼやこぶ)、己が母犯す罪(自分の母親と通ずる・以下同様)、己が子犯す罪、母と子と犯す罪、子と母と犯す罪、畜(けもの)犯す罪、昆虫の災い(はうむしのわざわい)(虫などの災禍)、高つ神の災い(雷の災禍)、高つ鳥の災い(鳥の災禍)、畜仆し蠱物する罪(けものたおしまじものするつみ)(家畜を殺してその血で呪う呪術)、ここだくの罪が、指摘されている。
  私は、このような具体例を取り上げて、よって大祓や神道が陳腐だ等と言いたいのではない。
  そうではなく、大祓詞をきわめて重要な歴史的史料としてながめると(ほんとうにものすごい歴史的史料だと思うのだが)、古代の人々のリアルな人間の有様と、当時の国のリーダーたちが、大陸や半島の国家から馬鹿にされないようにと、必死になって文化革命を推進していたということがヒシヒシと伝わってきて愛おしくなってくる。(大祓はそもそも宮中行事であった)
  翻って、この国は今もそんな古代とあんまり変わっていないなあと思うのが可笑しくて悲しい。
  いや、今のリーダーの層の人々には、今風の天つ罪、國つ罪を列挙しても屁とも思っていないところが度し難い。
  国敗れて山河ありとの言葉があるが、原発事故では帰るべき山河すら残らない。低レベル放射性廃棄物で300年間管理が必要、高レベル放射性廃棄物は100万年必要というものを私腹のために再稼動させるのだ。
  故に仏教界からもキリスト教界からも脱原発の声は上がっている。だからと言うわけではないが、この国の山川草木をこよなく愛する八百万の神々をお守りする人々からもっと脱原発社会という具体的な声が上がっても善いのではないかと私は思う。(鎮魂や救援の諸事業は承知しているが)
  いやそれよりも、原発の罪は大祓などできぬ、祓ってはならぬことを宣言すべきだろう。
  六月(みなづき)の晦(つごもり)の大祓(おおはらへ)に臨んでそんな夢を見た。

2012年6月26日火曜日

夫婦円満の木らしい

  この木は、どう見ても和装というよりもドレスアップというほうがよく似合う。
  だから私は、進駐軍あたりと一緒に入ってきた外来種だとばっかり信じていた。
  (ねむの木学園=戦後の出来事などという情報と混線して記憶が格納されたのかもしれない。)
  そんな話をすると、妻が「昔から知っている木だ」と言う。
  そこで少し調べてみると、・・昼は咲き 夜は恋ひ寝る 合歓木(ねぶ)の花 君のみ見めや 戯奴(わけ)さへに見よ・・昼に花咲いて、夜には恋しい想いを抱いて寝るという合歓(ねむ)の花、私だけに見させないで、貴方もここに来て見ましょうよ・・と、紀女郎(きのいらつめ)が大伴家持(おおとものやかもち)にあてて万葉集で詠っていた。
  さらに歳時記では、・・象潟(きさかた)や雨に西施(せいし)がねぶの花・・と、唐の絶世の美女西施の眠る姿に例えた・・芭蕉の名句(といわれている)をはじめとして一茶やその他多くの句が登場している。
  なんと戦後の外来種どころでない本邦のまったく正統派の有名な樹木であった。ただただ私の教養のなさを思い知らされた。
  そもそも、夜になると葉っぱを閉じて就寝運動をするが故に『ねふり(眠り)の木』というのも文句なく納得させられるが、葉っぱの閉じる様(葉っぱの右側と左側がくっつく姿)を『添い寝』とみて「合歓木」と当てた中国の先人にもよい意味で開いた口が塞がない。
  写真の木は我が家から歩いて1分。道に造花のような花びらが散っているが、結構な高木のためか本に書かれているような香りは感じない。そのせいか、立ち止まってこの花を愛でている通行人はほとんどいない。
  もしも~し、夫婦円満のねむの木を一瞥すらせずやり過ごしていいのですか。

2012年6月24日日曜日

笑っちゃいけない千鳥足

1 千鳥足の雄?
  野鳥の世界も棲み難くなっているようで、ついに私の散歩道というか、駅近くの幹線的な遊歩道に千鳥が現れた。(こんな人ごみに千鳥が来るなんて私は知らない。)写真1は歩道上に千鳥足で現れた雄。

  写真2はフェンスの向こうで・・・、その様子から推測すると雌。
  この場所は、以前にブログで書いたが、病院建設計画が頓挫した結果、たまにショッピングモールの臨時駐車場になるだけの場所。
  だから、四駆やバイクが走り回る木津川の河原よりもスイートホームにはよっぽど安全だと千鳥は考えたようだ。
2 雌?
  この5月の連休時には臨時駐車場になっていたから危険性も結構高かったはずだが、上手く営巣に成功したようだ。よかった よかった。
  それにしては、人が歩くたびに・・、自転車が通るたびに・・千鳥は飛び上がるのだが、またほどなく道に戻ってくる。こんなことは初めてだ。おかしい。
  これはもしかしたら・・・と、じっくり観察すると、写真3のとおり溝の中にやはり雛がうずくまっていた。
  その後、写真4のとおり、這い上がってきた雛を抱きしめたが、親の心子知らずで雛はまた溝の方に行ってしまった。
3 雛
  この場所は、すぐ近くにムクドリの巣が多いためカラスや猫も少なくない。
  だから、この雛が無事育つかどうかは判らない。
  我が家にまで届いてくる、チッチッチッチと飛びながらの千鳥の声が近々大合唱になったら喜んであげることにしよう。
4 雛を守る雄?(足下に雛)

  淡海(あふみ)の海(うみ) 夕波千鳥 汝(な)が鳴けば 情(こころ)もしのに 古(いにしへ)思ほゆ
  人麻呂(万葉集)は、千鳥の声を懐旧の念に駆られ悲しく聞いたようだ。そう、ここは平城京から遠くない。平城京の1級河川?佐保川の千鳥が大極殿の上空を鳴きながら飛んでいるシーンが眼に浮かぶ。

2012年6月22日金曜日

紫雲のようなジャガランダ



  井の中の蛙である私などは、桜の名所でその樹の中に飛込んでしまったときなどは、「やっぱり桜に勝る風情ある花木はないなあ」などと単純に思ってしまうので、ラジオからの情報で、「アルゼンチンの初夏はその花によって紫色に染まりきってしまう」「その規模は日本の名所の桜どころでない」と聞いても、「規模と風情は違うだろう」と半信半疑であったのだが、いくらか調べてみると、イベリア半島、オーストラリア、南アフリカ、南アメリカ等々の初夏のジャガランダの満開はそれはそれは すごいらしい。
  そもそもジャガランダという花木を私は聞いたこともなく知らなかった。

  ところが妻は驚くことに「大好きな花だ」という。聞くと、2000年に放映されたNHKの「世界・わが心の旅」でcobaさんがアルゼンチンを訪れた際の風景(画面)が忘れられず、「確か宮崎県に木があるようだから見に行こう」と言っていた。
  それが去年、妻が友人から「数本ではあるが大阪にも生えている」「その場所は天王寺の一心寺」「その時期は例年6月下旬」らしいと聞いたので、「それなら6月下旬に行ってみよう」と話し合っていた。

  そして、カレンダーが6月中旬の最後を示した日、思い出して一心寺のホームページを空けてみると、『6月9日に咲きました。ここ1週間ほどが見ごろ。』とあり、つまり見ごろは遠に過ぎており、「しまった。今年は見逃した。」とガッカリしたのだが、「行ってみなけりゃわからない」と、ダメモトでお参りに行ってきたのがこの写真。
  確かに、街全体が紫色に染まる風景をイメージするには相当イメージを膨らまさなければならないが、それでも、この何となくバタ臭い花木が念仏の寺に咲き誇る姿も悪くなく、清々しい気持ちで施餓鬼法要をして帰ってきた。

2012年6月20日水曜日

それって伝統

  私は伝仁徳天皇陵である大仙陵の近くで育った。そして今は、その皇后である伝磐之媛命陵の近くに住んでいる。
  この夫婦の御陵が何故こんなに遠く離れた処にあるかといえば、古事記の語るところ磐之媛が仁徳の浮気を決して許さず別居したためらしく、磐之姫はウーマンリブ(これも死語ですか)の元祖である。
  お濠にカワセミが来るので偶に散歩に行くが、今はスイレンやコウホネが咲き、カキツバタも咲きかけている。好きな場所のひとつである。
  ただ、先日、松原市文化財保護審議会委員の西田孝司氏の講義を聴く機会があったが、多くの古墳は江戸時代中期までは、神社の奥の院とされていたところを除いては、ほとんどが禿山であったそうで、もちろん鳥居などもなく、伝仁徳天皇陵も「国見山」と名付けられた文字どおり遊山の名所だったらしい。
  それが、幕末の尊王思想と特に明治の皇国史観によって、神社らしく神々しくと、大規模な植樹や鳥居の新設が行なわれて今日に至っている。
  伝磐之媛命陵も写真のとおり例外ではない。
  つまり、私たちは(私だけ?)たかだか100年一寸前に意図的に改変された風景を千数百年を経て今日に至っている古代の風景と勘違いしているのである。
  昨年私は原発神話というものの罪深さを思い知ったが、古事記編纂1300年のブームの中で、同様の神話が一人歩きしないことを願っている。

そも御陵はこうではなかった(磐之媛命陵正面)



   伝磐之媛命陵の隣に小奈辺陵墓参考地がある。比定する天皇が思い浮かばないというだけのことで、立派な大王級の前方後円墳である。
  こちらは、この冬に水鶏(くいな)の写真を撮りに行った折、宮内庁による大規模な護岸改修工事が行なわれていた。
  これも、橿原考古学研究所共同研究員の宮川氏の講義によると、元の墳丘よりも一回り小さく「整備」されたようで、各種古墳のそれぞれの設計図から歴史を分析する上では重大な障碍をもたらしているようだ。 
  研究者による御陵の調査は拒否する一方、護岸改修は非科学的に独断専行する。こんな宮内庁の反理知的な姿勢を見ると、英国王室は何歩も先を行っているように思われ悲しくなる。 
  この4月に天皇は火葬と合葬、簡素な葬礼等を望んでいるとの発表があった。皇国史観以前の中世、近世の伝統で言えばこのとおりだろう。そのことは以前のブログに書いた。(仏式の火葬が伝統に適っており上円下方墳はさらにおかしい。)
  また、W杯日韓共催前年や平城遷都祭の折には現天皇の「(私の先祖である)桓武天皇の生母の高野新笠は百済の武寧王の子孫」との「おことば」があった。
  だが、どういうわけかメディアはほとんど報じなかった。
  歴史を直視する眼は天皇自身よりも宮内庁やメディアの方が歪んでいるように私には見える。

護岸改修されたコナベ古墳
 

2012年6月18日月曜日

カルガモのいる風景

  6月5日のブログの続きである。
  明日から当分の間雨だというので、夕方30分間ほど、それほど遠くない池に行ってみた。

  いつものカワセミの指定席にはカメラマンが何人も三脚を立てていた。誰も考えることは同じのようである。
  今日はなんとなくカワセミに興味がわかず、水辺の花を撮ろうと思ったが、「花は朝方」が鉄則らしく夕方の花はなんとなくくたびれていた。
  と・・・・、5日に横断していたカルガモの親子が池から田圃に帰って?きた。
  5日は親が先に立って歩いていたが、今日は子の成長ぶりを後ろから確認しているようだった。
  5日とほぼ同じ場所である。ここはカルガモ親子の通勤経路らしい。なら、横断歩道と言ったところである。だから左のバイクは「横断歩道の直前は駐車禁止」に該当するのに・・とつまらぬ連想をした。
  よちよち歩きができるようになった孫とダブってシャッターを押した爺ばかの独り言である。

左下のマガモが突進してきて右のカルガモが飛んで逃げた。
  田圃には、今日はマガモが泳ぎ回っていた。そして見ていると、カルガモ(横断の親子とは別の・・)が入ってくると、「おんどりゃ、ここはワシの縄張りじゃ」と強烈に突進をして追い出していた。しばらくしてからカルガモが別の場所に舞い戻ってきた時も同様に容赦はなかった。
  力でも容姿でも負けてしまうカルガモは少し可哀相だった。
  生活し辛いのは人間だけでもなさそうだ。

2012年6月17日日曜日

ピンバッジは悪あがき?

   通勤をしなくなるとお洒落に無頓着になり、だらしなくなったのが自分でもよくわかる。
   だから長男や、長女のお婿さんに倣って意識的に気を遣うよう心がけてはいる。
  その彼らはというと、ごく普通にブレザーにピンバッジや缶バッジをつけている。
  そこでちょっと真似てやれ!と思って私も胸に着けてみたのが写真のバッジ。

  そうして元の職場の集まりに行ってみたところ「そのバッジは何ですか?」と何人もの人から尋ねられた。
  習い性とでも言うのだろうか、法律や理屈に囲まれて暮らしてきた人々には「理由なく着けてみただけ」というのはアリエナイことなのだろう。返答はせずに笑ってごまかしたが・・。

  だが、そうであるなら、薀蓄はそもそも嫌いな方ではない。
  で、これは原初的にはヒンディーの神鳥ガルーダ。
  インドネシアやタイの国章でもあるし王章にも登場し、この列島には仏法の八部衆の一人として渡ってきた『迦楼羅(かるら)』である。
  興福寺には有名な阿修羅像などとともにスカーフを巻いた国宝迦楼羅像もおられる。阿修羅像の同僚である。
  このバッジは、直接的には正倉院の伎楽面。南都ではそれほど珍しいものではない。
  伎楽面であるからこれを着けた仮面劇が古代に行なわれたに違いないが、想像するに今日に伝わるなんとなく雅な舞楽というよりは、迦楼羅の舞は、天竺、西域の臭いふんぷんたる芸能ショーだったのではないだろうか。
  私は古代人が、現代人がレディーガガを見つめる眼よりも何倍も見開いた眼で迦楼羅の胡楽に見入ったに違いないと考えている。
  古代史を眺めると、結構この国のご先祖様はコスモポリタンで、珍しモン好きのおっちょこちょいだったのではあるまいか。
  正直に言えば、八部衆は仏教(仏像)の世界ではワンランク下に見られているきらいがあるが、古代人のレディーガガだったと想像すれば、このお面もちょっと親近感が沸いてくる。
  とまれ、大切なことは、迦楼羅の常食は煩悩の象徴たる龍(毒蛇)であること。
  よって、耳順を遥か過ぎてなお煩悩の大海に溺れるシニアは、「どうか溢れる煩悩を代わりに喰らって」と胸に着けてみた次第。
  ああ、こういう薀蓄こそ蛇足のきわみ。薀蓄が前に出て、お洒落は年甲斐のない悪あがきに堕してしまった。書かなかったらよかったと悔やんでいる。

2012年6月14日木曜日

南都礼賛

  山之辺の道をさらに山に分け入った奈良市虚空蔵町に虚空蔵山・弘仁寺はある。正暦寺からも遠くはない。
場違いな後姿はTVアナ
   ここで6月13日に『黄金(こがね)ちまき会式』があった。
  「ちまき」というと京都八坂神社の祇園祭が有名であるが、祇園祭の「ちまき」の由来は、牛頭天王が蘇民将来の子孫に伝えた「茅の輪」の変形と言われている。
  「ちまき」の聖性は汨羅(べきら)に投じた屈原(くつげん)の故事にもある。
  だが、弘仁寺の「ちまき」は家内安全、開運招福という“ありきたり”の効能が述べられているだけで由来は示されていない。この何とも言えない“ええかげん”さも南都であろう。古からの習わしに文句があるかと言わんばかりである。
  さらに、今朝方茹がきあがったばかり(乾燥などしていなかった??・・)という手作り感いっぱいの素朴さで・・・、祇園祭の各山鉾に見られるような洗練されたものでないのが、これも反対に初々しくてありがたい。
  できたものから順番にみかん箱のような箱に入れて仏前に運び込み、祈祷(読経)を経て授与(販売)されていくさまも、まるで家内工業のようであった。もうちょっとカッコつけたらどう!と助言したくなった。

玄関に吊るした黄金ちまき
  また、弘仁寺は天地明察に似た超高等和算の算額が飾られていることでも知る人ぞ知る古刹である。

  念のため、この行事がどれ程有名なものであるかと言うと、上の写真のとおり、女性アナウンサー付きのNHKTVの取材クルーが歩き回っていることでも察しがつくが、この有名な『黄金ちまき会式』は、・・・、この写真のとおり参拝者がガラガラで、みんなのんびりと読経に参列したり、休憩所で「笹だんご」を食べたりしているのが、京都によくある人いっぱいのマス諸行事と比較して可笑しいぐらいである。
  それでも午前中に実食できる「笹だんご」が売り切れてしまい、「今年は人が多いから・・」とお寺の法被を着たおじさんが呟いているのもまた可笑しかったし。
  余談ながら、TVのインタビューが廻ってきたので妻が逃げ出したが、これも「鶴瓶の家族に乾杯」で逃げ回っているおばさんと重なって笑ってしまった。
  私のインタビューが放送されたかどうかは知らないが、絵的にはここは「おばさん」でないと雰囲気が合わないだろうし、それよりも、この行事のあまりの規模の小ささに放映されなかったのではなかろうか。
  このように、そっけないと言うか、親近感溢れると言うか微妙な行事であったが、妻は参道脇の山道で蕨をいっぱい摘んで満足していた。
  私は総じて商売下手な南都の行事が好きである。

2012年6月11日月曜日

原風景

  私の通っていた小学校区には田圃がなかった。
  だから、この国の文化の基底を成している、農事にまつわる記憶だとか農事に繋がる感傷というものがほとんどないというマイノリティーに私は属している。
  それでも水田に代表される風景になんとなく懐かしさを感じるのは民族のDNAなのだろうか。
  今では、別に田を持っているわけでもないのに「梅雨もまたよろし」などと思うのである。
  いわゆるニュータウンの家から少し外れると元からの集落と田圃があるので、梅雨の間の散歩も苦にならない。
  こんなことごとはご存知の方には「何を今更」と言ったような周知の事実ばかりだが、田植えは、遅かった田圃でも先週ぐらいまでに終了した。今はトラクターの音でなく草刈機の音が響いている。
  そして、私の好きなBGMだが、葦原からはヨシキリ、空中からはヒバリ、セッカ、ケリ、そして里山からはウグイスとホトトギスである。
  しかし正直に言えば、こういう風景が見えてきたのはここ数年で、現役サラリーマン時代には全く見えていなかった。
  「過労死やメンタルの不調」という話題が誰もが身近に納得できるような労働環境は、こういう風景さえも見えなくしていたのだ。

  切りのない人員削減と長時間労働、賃金切り下げ、競争と孤立の非正規労働を是とするような主張が溢れているが、「ほんとうにそれでよいのか」という声が大切にされなければならないように思われる。
  厚生労働省に統合されて影の薄くなった労働政策と労働行政を再建させる必要はないだろうか。
  労働大臣のいない先進国っておかしいだろう。
  草刈作業の場から遠くない畦に雉(きじ)がいた。カルガモの親子は田圃から田圃へ道を横切る。
  田圃には水が入ったばかりだというのに「兜海老(写真)」や「豊年海老」が泳いでいる。
  昨年の夏に水を抜いた田圃の土の中で9か月程度卵のままでこのときを待っていたのだろうか。可愛い奴である。
  名前のとおり豊年を予祝しているようだ。
  こんな風景を見て現役勤労者にもホッとしてもらいたい。

  ついでに、佐佐木信綱作詞の 『夏は来ぬ』 を掲載するので、「ホッと」をリフレーンしてもらおう・・・。

1 卯の花の 匂う垣根に        2 さみだれの そそぐ山田に
    時鳥 早も来鳴きて             早乙女が 裳裾ぬらして
    忍音もらす 夏は来ぬ          玉苗植うる 夏は来ぬ
 
3 橘の かおる軒端の      4 楝ちる 川辺の宿の
    窓近く 蛍とびかい         門遠く 水鶏声して
    おこたり諫むる 夏は来ぬ     夕月すずしき 夏は来ぬ
 
5 五月闇 蛍とびかい
    水鶏なき 卯の花さきて
    早苗植えわたす 夏は来ぬ

6月12日追記(お願い)  カブトエビについて私は漠然と『昔から田圃に居たものだが農薬等の水質悪化で減少していたものが近年増えていて好ましいことだ』と思っていたが、農家の娘であった義母が「知らない」と言った。その娘である妻も「昭和53年ごろ奈良市学園前で初めて知った」と言う。コメントに書いたとおり私が大和川の浅香山近辺で見たのは昭和37年。・・・つまり、公害、農薬以前の田圃にもカブトエビはあまりいなかったのかもしれない。そこで、皆さんがカブトエビを初めて知ったのは何時の頃・何処でかを教えていただけないでしょうか。よろしくお願いします。

2012年6月8日金曜日

また会う日まで

  このブログは、尾崎紀世彦さんの追悼文ではないので誤解のありませんように・・・・・・。

  先日のブログのとおり同窓会に出席してきた。そして、その散会のときに、そういうシーンにぴったりの、下に掲げた「また会う日まで」を合唱した。
  その出来栄えは、・・・クラス対抗の合唱大会で音楽のN先生の担任クラスを抜いて学年優勝した我がクラスだけのことがあった。・・・と言って、その事実を私はすっかり忘れていたのだが・・・

  さて、この歌だが、これは半世紀前の毎年の体育祭のフィナーレで合唱したもので、だから皆が歌えたのだが、この歌詞を準備する際にネットを検索しまくったが結局正しい歌詞を入手できなかった。
  そんなにすぐに出てくるとは思ってはいなかったが、二人や三人は少しは書いているだろうと予想していたのだが、予想外の結果に愕然とした。だから記憶だけで歌詞を用意した。

  だから、このブログを読まれた方の中でご存知の方がおられたら、是非とも正しい歌詞を教えていただきたい。
  また、ネットで出てこないことについても・・・ご存知の方は何らかの情報を教えていただきたい。

  というのも、同窓会後も・・・、図書館で古い唱歌を探したり、丸山妙子氏の「戦後中学校音楽教科書に見る日本音楽の扱いの変遷」という、およそ全教科書掲載の題名を網羅した著作を当たってみたりしてみたが出てこなかったのである。不思議である。
  思うに、きっと当時の音楽担任のN先生がどこからか入手してガリ版で配付したものだろう。まさかN先生の作詞(替え歌?)でもないだろう??
  曲は賛美歌の「神ともにいまして」である。
  とすると、その後、「賛美歌に勝手な詞をつけないで」というクレームでもあって、消滅してしまった幻の唄なのだろうか。
  何人もの(といっても限られた数の)クリスチャンの方々に「こんな歌詞で歌われたこと、聞かれたことはありませんか」と尋ねたこともあったが何れも否だった。
  半世紀以上前のことごとを昨日のように語りつくした同窓会には、この化石のような唄が似合っていたのだが、存在した事実さえ手がかりがなくなっているのは妙に気になることである。
  この広い世界で全く存在感のない歌詞を、同窓会出席者が全員歌えたのも、考えてみるとちょっと可笑しい。
  もう一度言うが、どなたか、この歌詞がどのように作られ、そしてどのように社会から退場していったのかをご存知ありませんか。「私も唄ったことがある」という情報もお寄せいただければ幸いです。 (コメント(〇)の欄をクリック願います。)

  全く情報がない場合は、N先生の作った替え歌説がクローズアップされることになる。案外真実はそうかも知れないという気分になりつつある。
  だとすると、そんな替え歌を私たちは大事に大事に半世紀も憶えていたことに??。怒る気など全くない。歌というのは案外そんなものかも知れない。元歌よりも嘉門達夫の歌のほうを憶えていたりして。

2012年6月5日火曜日

季節をいただく

  湯木貞一氏の「吉兆味ばなし」を読ませていただくと、その冒頭に「春は春らしく」と出てくるように「季節感こそ最高の味付け」「季節感のない料理ほどつまらぬものはない」ように思われる。

   そんな境地には遠く遠く及ばないが、私もできるだけ「そうありたい」と気持ちの底のほうでは思っている。
  そこで、“この季節”を感じさせる「ノビル」と「豆ご飯」の体験についてご報告する。

  私の場合は、「ノビル」はほんの一瞬お湯をくぐらせた程度に塩茹でしただけで、酢味噌を一寸だけ付けて齧っている。
  茹がきすぎると香りも辛味も飛んでしまう。
  それが嫌な人は山菜など食べない方がよい。
  「山菜はアクをしっかり抜いて食べましょう」と書いてある本があるが「あほかいな」と思っている。
  ノビルは文句なく冷酒に合う。春から初夏の味である。口の中にぱあ~っと季節が膨らむ。満足感は文字にし難い。
  この素晴らしい味が、近所の有名スーパーには置かれていない。心の中で「ウフフ」と嘲笑っている。

  次に春を代表する豆ご飯だが、こちらは湯木貞一氏に聞かれたら「邪道である」と一喝されるかも知れないが、「ツタンカーメン豆」の豆ご飯が楽しい。

炊きたて
  真偽のほどは知らないが、ツタンカーメンのミイラとともに掘り出された豆のその子孫とも言われる??? こういう楽しい嘘?は良い。
  そして、ファラオの呪いのせいかどうかは知らないが、炊きたてはただの(えんどう)豆ご飯の体を成しているが、4~8時間保温をしておくと手品のように桜色の赤ご飯に変身する。
  朝のうちから夕飯の仕掛けをして、この不思議な豆ご飯を夕餉に目で味わう。・・・時代に応じた遊び心だと湯木翁も許してくださらないか。
  「ノビル」と「ツタンカーメン豆ご飯」、・・・我が夫婦は結構気に入っている。
  どちらもこの季節だけのもの、遊び心の好きな昔青年にもお勧めしたい。 
4時間後
8時間後
  閑話休題  友人は私のブログの『数』を見て「まめやな~」と冷やかす。多分に「内容はもひとつやけど」「ひまやなあ」という気持ちが含まれていることは承知。
  しかし、妻が近所で「ノビル」を採ってきて、「さあ、これでブログを一話書いてみたら」とノルマを課せられ尻を叩かれている?ことなどは誰も知らない。ああ。

2012年6月2日土曜日

念ずれば「しんこ」

   「こおっと」というのは少し考え込む時に口走る懐かしい関西弁の感動詞である。
   私は90歳を超えた義母にリハビリを兼ねて昔の生活を尋ねたりするのだが、そういうときには「こおっと」と言ってから答えが返ってくる。
  その会話、つまり戦前の義母の実生活の思い出は、柳田國男や折口信夫や宮本常一等の著した民俗学の本に匹敵するほど、いやそれ以上に聞いている私を楽しくさせてくれる。(・・・それほど大層なものでもないし、だいたいが学術的な価値は全くない。ただ、楽しいだけである。)

   この楽しいやりとりを、私は勝手に「こおっと大学」と名付けた。少しく精確には実母のリハビリの際に開校=スタートしたのだが・・・。

   5月19日のブログに書いた「しんこ団子」もその「こおっと大学」なのだが、そのとき(19日の前)には「義母が小さい頃食べていたしんこ」までは辿りつけていなかった。
   ところが、念ずれば通ずというか、いや現代インターネット社会は偉いもので、私のブログに匿名のお方から「大和郡山の甲子堂(ママ)にある」とのコメントを戴いた。匿名さん!ほんとうにありがとう。
   で、義母の次の外泊に合わせて私は行動を再開した。

   お店は、正しくは『甲子屋(こうしや)』さん。大和郡山市白土町504の2 TEL0743(56)1547で、事前に注文しておけば20本から用意してくれる。ここはお店というよりも工場のほうである。
 私は、義母の思い出の「しんこ」であること、だから「しんこの型」も見せていただきたいと事前にお願いしておいた。
   その甲斐があって、甲子屋さんで楽しい「しんこ談義」に花が咲いた。
  注文の多くは仏事である。
 元興寺ではお寺の行事に供えている。
 (大安寺の火渡りのときにも供えられて配られるらしい。)
  仏事のときは黄色と青(緑のこと?)の線を色づけることが多い。
  祝い事の際は赤と青の線にする。
  この鉄の型(鋳物)(写真)は職人さんの私物を使っている。
  型は、昔は個人の家にあったものだが今はどこにもない。
  型屋さんに尋ねてみたら20万円と言われた。
  甲子屋さんでは米粉だけで作ってほんの少しだけ砂糖を入れている。
  日持ちしないから今日明日中に食べない分は冷凍して、その後焼いたり蒸したり、お汁に入れたりする。などなどなど・・・・・・・・
  甲子屋さんの皆さんもいい方ばかりで、通常は「3個入りのパックを20個」と言うような注文が多く、仏事の後にそれぞれ持って帰ってもらうのが多いとか、奈良の古いしきたりのようなことまで話が弾み、「お母さん、お達者に」と送られた。楽しい買い物だった。

  義母はことのほか撮ってきた「ねじり型」の写真が気に入って、「そうや これや これや」と何回もうなずいて、「こういう昔どおりの型で作った「しんこ」をもう一度食べられるとは思わなんだ」と喜んだ。
  そして、「こういう風に蒸しましたんや」「堅さは耳たぶぐらいで」「大阪の親戚にも配って歩きました」と再び三度思い出を語ってくれたあと、「そういえば祝い事のときには食紅で短い線を二つ書いたなあ」「ヘタのところは三つの耳のようにしたなあ」と新たな事実を思い出したので、食紅代わりに梅干を使って、ヘタのところを記憶のとおり義母に加工してもらったのが右の写真・・・・そしてブログの本論はここまで。

  このブログ、読者の皆さんには「それがどうした」「だからどうなん」ということだろうが、私たち夫婦は飛び上がるように喜んで書いている。
  なぜなら、義母の「しんこ」の思い出を聴き取ったのは2011年1月13日のブログ。それから1年4か月の間、それほどたいしたことはしてこなかったが、それでも図書館を巡ったり、司書の方に相談したり、古いお店を覗いたりして、こういう形の「しんこ」と「鉄のねじり型」を探し続けて今日に至ったわけ。
  それが、テレビの「新日本風土記」ではない・・、書籍の「一億人の昭和史」でもない・・、親の子供時代のそのままを実際に私たちはついに昨日見て触って食べることができたのだ。だから、ちょっとだけエヘンと言わせてもらいたい。

  付記  義母によるとこの「しんこ」は自分たちのおやつではなく、赤ちゃんの生れた親戚に持参するような少しばかりたいそうなお祝いの品だったらしい。そういえば、5月19日のブログのコメントに記載したが、江戸幕府は旧暦6月16日の吉祥祝の行事に「捻り(ひねり)餅」を用いたというからその名残かも。それに昔の自作農家はお金はないがお米(正確には一寸欠けた様なくず米?)はあった。そして、歴史上最古級の南都の大寺院の行事にも残っている。正直に言って飽食の時代になんと言うことはない素朴すぎる味のものだが、そんなことごとと重ね合わせるとじわ~と味わい深い「しんこ」である。 

  6月2日昼追記  ・・・昨日の「しんこ」を義母の言うとおり火に炙って砂糖醤油に付けて驚いた。「あっ みたらし団子や!!!」である。製造過程を考えることもせずに出来上がったものばかりを手軽に入手している薄っぺらな現代人(私のこと)のコペルニクス的新発見に、義母は「しんこも、ちまきも、みたらしも、いっしょだんねん。だんごやから。」と淡々と呟いた。そうか、この方が普通の食べ方だったんだ。「何でこんな素朴すぎる味のものがお祝いの品だったのか」という疑問が氷解した。うん、これは美味しい。当り前である。

  6月11日追記  「こおっと」についてスノウさんから葉書をいただいた。「このとおりサザエさんに載っている」との“証拠物件”なのでここに掲載する。その後「こうつと」としてネットを検索したら思いのほか多くの“証言”が出てきたが、ここ10年以内に完全消滅しそうな死語のように思われる。できれば皆さん、この言葉・・子や孫に引き継ぎませんか。その子たちが大きくなったとき、お酒の席あたりでちょっと自慢げに語らう姿を想像するのも愉快ではありませんか。写真の上でクリックすると拡大されます。