ツイッターを読んでいると、ある知識人が「民という字は、刑として針で目を突きさした形で捕虜・奴隷を表しているから、民主主義という熟語も含めて嫌いである」と書いていたことがある。
白川文字学を読んでいるとこれとよく似た驚きがあって、なんとなく解る気もするがなんとなくおかしな気にもなった。
確かに、例えば、姓や名とりわけ名などは親がわが子の将来を考えぬいて嘉字・嘉名を選んだはずなのに、実はその字源は恐ろしいという事例がざらにある。というか大半がそうである。
「白川静さんに学ぶ 漢字は怖い」(新潮文庫)のネーミングはあまりにドンピシャすぎると笑ってしまう。
一例に、「久」という字は死体を木で支えている。その「永久の人」を箱に納めたのが「柩」。・・というから、ちょっと背筋が寒くはなるが、白川静先生は「人の生は一時(わずかの間)であるが、死後の世界は永遠であるという古代の人々の考えによるもので・・・永久、久しいという積極的な意味が生れた」と述べておられる。このあたりの眼力にはただただひれ伏すしかない。
付け加えるなら、安陽に都した時期の殷王朝の甲骨文字に始原を持つ漢字は、約3,300年の間の中国人や約1,500年の日本人の生活と文化の中で、意味を豊かにし、あるいは変化をさせ今日に至っているのだと考える方が素直だろう。
だから、例えば自分の姓名等の漢字を3,300年前の古代人の考えに停止させて捉えるのでなく、始祖の知恵を理解しつつも3,300年の文化によって成長してきて今のあるのを積極的に受け止めるのがよいのだと思っている。
故に、「民主主義という言葉は奴隷主義ということだ」的な主張には私は同意できない。
ただ、現代では威厳を感じさせるような漢字が実はおどろおどろしい生まれであるのを知ったりすると、くすっと笑ってしまうことがある。
私の白川文字学の程度はそんなもの(くすっと笑う程度)であるが日常生活には何も困らない・・と浅学ぶりを居直ることにしている。
なお、私自身はあまり好きではないが、近頃の子どもの名前(命名)の上位は当て字のオンパレードである。(明治安田生命発表の年度別名前ランキング参照)
白川先生が御存命なら顔をしかめられるかも知れないが、そのクイズもどきの当て字には感心することもある。保育園、幼稚園、学校の先生も大変だろうとは同情するが・・・。
これも、万葉仮名や訓読みを発明したご先祖の血のなせる業だろうと目くじらを立てないようにしている。
常々思っている事ですが、TVニュースなどで子供の名前が気になっています。あまりいい事での報道でない、例えば児童虐待とかの際の、子供の名前が何処の国の子供かと思う事が多い、というより、そういう名前を付ける親の問題だと思うのだが、何処かで世代の断絶が起きているのでしょう。
返信削除!ひげ親父さんが「気になる」とおっしゃっているところには共感しております。
返信削除さはさりながら、私としては「好きではないが、目くじらを立てないでおこう」というように抑制しております。
言語を巡る文化というモノはそういうものかも知れないという感じがあるからです。
私のブログなど、先達たちは草葉の陰から「近頃の老人は嘆かわしい」と呟いているに違いないと思うからです。