2011年11月26日土曜日

穴子の半助

   明石家さんまが入門当初、笑福亭松之助師匠に「角(の鰻屋)で半助を(買ってくるよう)」頼まれたが半助を知らなかったため、角座で「半助師匠はおられますか」と聞いたという話をテレビでしていたが、確かに当時でも半助はそれほどメジャーではなかったから無理もない話しだろう。
 ところが私は、小学生の頃は父の仕事柄穴子の半助を嫌というほど食べてきた。穴子の半助を焼豆腐か厚焼玉子のヘタと炊いたおかずである。
 まだ「戦後」と呼ばれていた時代であるから今から考えると有難いおかずだったのだが、当時はもっと違うものが食べたかった。
 そして今は・・・、それもまた懐かしい記憶の中に分類されるほどに年を経た。

ネットから
  近頃、寒くなって寄せ鍋や水炊きをする機会が増えたが、我が家では鍋に穴子を入れることが度々ある。
 その時はもちろん半助もほかさずに入れることは当然で、ゼラチンのように柔らかくなった身?をせせるとあの頃の記憶がよみがえってくる。
 しかし、遠い半助の思い出がなかったならこれはどう見てもアラというかガラだろう。

 本などには「大阪の味」などと麗々しく書かれていたりするが、だからと言ってわざわざ半助を買いに行く気はもう起こらない。私としては戦後時代の思い出で、もういい。
 しかし、半助豆腐に見るような堅実な大阪文化は残ってほしい。
 だから、大阪にカジノはいらない。それは大阪の文化にも経済にも馴染まない。

(注)半助=焼いた鰻や穴子の頭だけを切り落としたもの

2 件のコメント:

  1. 和多田勝さん(六代目松鶴の甥)の「相惚れ大阪」に、外題に困ったら忠臣蔵、おかずに困ったら焼き豆腐、というくだりがあって、焼き豆腐に最も合うのが「半助」だと書いておられます。わたしは焼き豆腐には生節が一番だと思いますが、やはり泉州と南河内の違いでしょうか。

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  2. 大阪の味と言われる所以の一つは、関西以外では蒲焼を焼く前に頭を落とすので、半助そのものが存在しないことによります。 
     焼豆腐の料理ですが生節と半助は同じ土俵で論じられません。幕内と序二段ぐらいの差があります。
     その序二段の料理が懐かしく思い出されるのは、歳をいった証拠でしょう。

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