2011年2月28日月曜日

蒼穹の昴から満州某重大事件の頃

 私は「映像よりも活字」派のため、この度、蒼穹の昴、珍妃の井戸、中原の虹、マンチュリアン・リポートを一気に連続して読み通した。
 清朝末期から日中戦争前夜までの動乱の中国(主に北部)が舞台のため、日本の小説よりもスケールが大きくて楽しい。楽しすぎるので、途中時々、知って読むのを中断した。
 作者の筆力のせいで、読者を西太后や張作霖贔屓にしてしまう。孫文なんかケチョンケチョンだが小説だから仕方がない。
 実在の人物と創作した登場人物を自由自在に絡ませて書くことの許される小説家が羨ましい。
 
 そうであるなら、上海の孫文が内山書店の内山完造と北四川路を散歩しながら未来を語る場面を入れて欲しかった。傍らの運河で日本人の少姐が無邪気に蟹釣りをしているというシチュエーションで。
 この本を読みながら、同じ時代の思い出を語った実母の話とオーバーラップしたのだ。
 およそ1世紀ほども前、上海日本尋常小学校から帰った母は、同年輩の女の子がいなかったので、小遣いで豚饅を食べた後、横浜橋の袂で日がな蟹釣りをしていたと懐かしんでいた。いわゆる日本租界(正式というか形式的には共同租界)でのこと。
 母の父は大倉喜八郎にとりたてられ、大倉喜七郎と組んで進出していた。
 その時代、母の母は清朝や軍閥のお偉方等とのダンスパーティー三昧だったらしい。すぐ後の没落?以前の浮世離れのした家族史の一こまである。

西太后
張作霖

2011年2月27日日曜日

長屋王の呪い

 追っかけファンまでいるので有名な考古学者水野正好先生の講演を受講した。
 「平城京を輝かせた女帝の想ひ」で、いつもどおりの熱弁が2時間停まらなかった。
 いつものとおり、講義内容はさておき、話が長屋王に触れたときの脱線部分だけを紹介する。
 曰く、「文化庁にいたとき、奈良市役所東南の発掘調査を担当した。種々のデータから、そのすばらしい(龍の姿の池を中心にした)庭園は長屋王の庭園に違いないと確信した。しかし、結果的に(水野先生の)意見は取り上げられず『平城京左京三条二坊宮跡庭園』という馬鹿な名前にされてしまった。
 そして次は、その北側の土地が開発されることになった。
 『長屋王宅に違いないから保存を』といい続けたが、そごう百貨店に売却された。建設前提の調査で長屋王宅であることが立証されたし、膨大な遺物も出土したのに止まらなかった。
 だから、朝日カルチャーセンター奈良教室の講師を再三再四要請されたが、そごうの建物内でされる講演は一切拒否してきた。」という、水野正好ファンなら有名な脱線話だ。
 そして、「長屋王の祟りで“そごう”は倒産したのだ」というのがオチである。

 なら町まで出たので、ケンミンショーにも登場した「揚げの中に“うどん”の入った“巾着きつね”」を食べてきた。
 「きつね・稲荷定食大好き派」としては文句なく合格だった。
 途中で思い付いて写メを撮ったので、実物はもっとマシである。
 写メを撮りながら、我ながらミーハーだなあと恥ずかしくなった。

2011年2月26日土曜日

ザ・シンフォニーホール

 ザ・シンフォニーホールへ行って来た。
 パイプオルガン付きのすばらしい会場だ。
 しかし、今日のは、たいそうな演奏会ではない。
 ABCの「小林大作のメモリーズ・オブ・ユー」の公開録音。
 高齢者集会に参加しているような、違和感のない座り心地だった。
 ペギー葉山は来年デビュー60周年とのことだが、文句なく現役で立派なもの。
 伊藤ゆかりも勿論現役で問題なし。
 「ヒガシマルうどんスープ」の試供品をもらって帰ってきた。
 不満のないような、何か物足りないような、チョッと複雑な感情は何なのか自分でもわからない。

  17:30開演、15:00座席指定券引換で、15:00に到着したときには後ろから5列目の席だった。 
 1階前方の方は午前中から並んでいたらしい。老人パワー恐るべし。今後この種の行事には時間を惜しまず並んで本でも読んでただ待つべし。教訓を得た。

2011年2月24日木曜日

炭も焼いていた母

 ―― 大正生まれの母が子供だった頃パート6 ――

 繰り返しになるが、先日来、義母に「昔の暮らし」の“講義”を受けている。
 が、昨日、外泊で帰ってきた開口一番が、「もう何もかも忘れてしもた」という先制パンチであった。
 で、再び三度、同じような話を尋ねてみると、これまでの私の思い込みが次々に覆されていくのが我ながらおかしかった。だから、このブログ、恥ずかしいのでプロの農家の人は読まないで欲しい。

 以前に、「炭焼きもしていた」と言うので、至極当然に裏山に炭焼き窯を持っていたのだとばかり思っていたが(それ以外の炭焼きなど想像外であったが)そうではなく、平地で焼いていたと言う。
 次に「すぎぬか(籾殻のことらしい)を被せて焼いた」と言うので、よく田圃で見る、煙突を立てて籾殻の小山を燃やしている風景を想像したが、あれは「籾殻燻炭」で、これも全く別のものらしい。
 ということで、もう一度最初から聞き直した話は次のようなものだった。
 田圃に穴をほり、籾殻を敷き詰め、山から切ってきたクヌギや樫等の堅い木を並べ、隙間に籾殻を詰め、煙突を立てて、火をつけて、泥で蓋をしたらしい。後は煙を見て止め時を決めるとのこと。
 こうして、一年分のお客さん火鉢用の炭を用意したらしい。
 私は決して懐古主義者ではないが、諸々の商品の購入の道が閉ざされた場合に対応できる知恵や技術を置き忘れてきてしまった現代社会を見たときに、母たちの世代の、以上のような、地に足の着いた知恵と逞しさには本当に頭の下がる思いがする。

 ああ、この列島の自然や文化への敬意を忘れたTPPの向こうに、殺伐とした風景を想像するのは悲観的すぎるだろうか。

 ビールを傾けながら昔の記憶を訥々と探す母は、欲目かも知れないが嬉しそうだ。
 
 
 

2011年2月22日火曜日

臘梅の実は微妙

 私は、上の世代の人々から「近頃の若い者はボキャブラリーが貧弱だ」と嗤われてきた世代に属するが、その我々から見て、食べ物なら「甘い」、見た目なら「可愛い」としか言わないテレビの中の若者のボキャブラリーの貧弱さはなさけない限りである。
 畑の野菜を生で齧って「あま~い」と叫ぶワンパターンの白々しさと言ったらない。
 いやこれは、ボキャブラリーの貧困ではなくて、メディアの貧困なのではなかろうか。大勢順応というか、ことなかれ主義というか、強い者につく蝙蝠根性というか・・(そこまで言うか)。
 以上、前振り。

臘梅の季節は終わった

 『満月臘梅』の実は殻が裂けて実が飛び出すのだが、殻はいつまでも枝に付いたまま1年も2年も残っている。蒴果というらしい。
 今日のブログのテーマは、その様を「可愛い」と書いてある本があったが「ほんとうに貴方はそう思ったの?」と言いたいだけ。
 あの艶やかな「蝋細工のような」花に比べて、余りにくすんだその色と形を私はそうは思わない。
 臘梅の枝に残った蒴果、・・「老醜」というと高齢者差別的に誤解されそうだが、これ(この蒴果)を蛇足と言わずして何と言う。
 しかし、「誰もが見向きもしなくなった殻の持つ美を発見したのが判らないの?」といわれれば、私の前振りは「天に唾したもの」ともう一度嗤われることだろう。
 もしかしたら可愛いかも!と自信がなくなってきた。

2011年2月21日月曜日

猿沢池のカイツブリは長閑

 前にオシドリやカワセミを撮った「けいはんな記念公園」で16日に死んでいたハヤブサから、高病原性鳥インフルエンザウイルスが検出され、散策路の一部が立入禁止になっているが、入園料有料(高齢者免除)の水景園の中の散策路をこの季節に歩く人はほとんどなく、市民生活に支障はなかろう。
 メディアは養鶏場の殺処分を痛々しく取り上げるが、政府に「渡り鳥関係国会議開催のイニシアチブをとれ」とは何故言わないのだろう。
 誰もが「対策など取れるはずがない」と諦め、ウイルスが自然淘汰されるのを待っているのだろうか。

かいつぶり
 同じ頃、猿沢池ではあまり人に馴れないはずのカイツブリが岸辺まで寄ってきて、鯉の餌を食べていた。なんたる堕落。カイツブリなら長く潜って小魚を食べろ。
 古名は鳰(にお)。ゆえに琵琶湖は「鳰の海」。古名に漂う情趣を彼の鳥にどう教え込めばいいのやら。いやはや

 いやいや、五重塔や南円堂を背景に餌をねだるカルガモやカイツブリを楽しむ行楽地としては、これが一番いい姿なのかも。

2011年2月20日日曜日

銀壺は国産という研究者

 現在、国立博物館は全国に四つある。終戦時で言えば帝室博物館は二つ。その一つが奈良国立博物館。それほどまでに権威?のある“奈良博”教育室長の講義を受けてきた。
 講義内容は別にして、話の脱線部分で可笑しかったのは、昨年10月に、1250年間行方不明だった(国宝)陰剣・陽剣が発見されたのは有名なことだが、実は、この剣は明治40年に大仏の前で出土し昭和5年に国宝に指定され、その後“奈良博”が預かっていたが、昨秋、元興寺文化財研究所がX線検査で大発見したということ。
 つまり、“奈良博”は何をしていたということ・・・で、聞くと“奈良博”のX線機器が壊れていたとのこと。
 壊れていたのが嘘でないなら、“奈良博”の予算の乏しさ・・国の文化行政への意識の低さが露呈したもので、考古学専門の教育室長の嘆きには心から同情する。
 そうとは話さなかったが、教育室長のショックは相当なものであっただろう。

正倉院宝物・銀壺

 それにしても“奈良博”は、奈良国立文化財研究所、県立橿原考古学研究所、元興寺文化財研究所と、奈良大学、奈良教育大学、帝塚山大学、天理大学等々の世界的に見てトップレベルの歴史研究機関に囲まれて大変なことと思われるが、まあ奈良というのは、この研究機関の厚み、奥深さが頼もしい。
 
 講義内容に触れると・・・、第62回正倉院展で「おそらく遣唐使らによってわが国にもたらされたもの」と図録等に記述した銀壺が、その狩猟文の検討から、国内産かもしれないと考えられる理由を提起されたことは新鮮で説得力のある問題提起であった。(理論武装をして論文に仕上げたいとのこと)
 そしてポツリと、「この話は国立東京博物館では歯牙にもかけられない」と呟いた研究者の顔に、地方勤務の準国家公務員の意地を感じたのは思いすぎだっただろうか。がんばれ と、心の中でエールを送った。






2011年2月19日土曜日

神雄寺で祈っていたのは誰

 今日、平城京のすぐ北に当たる京都府木津川市天神山の馬場南遺跡の神雄寺(かみおでら)の小塔跡(奈良時代)発見の現地説明会があった。
 京都府民というよりも「大阪府民のベッドタウン」である木津ニュータウンの北隣である。
 すぐ近所なので夫婦で行って来た。
 これまでに約10000枚の灯明皿(大規模な法要)や万葉歌木簡(阿支波支乃之多波毛美智=秋萩の下葉もみぢ)等が発掘されていた遺跡であるが、墨書から判明した神雄寺(かみおでら)は歴史書に登場しない(歴史上抹殺された?)お寺で、「歴史の野次馬」としてはこんなに楽しいことはない。
 平城京から山背(やましろ)に入ると一番最初に目に入る小塔・・という立地条件にも拘らず歴史書に登場しないのは何故か、新聞各紙が解説するように「聖武天皇・光明皇后が大規模な燃灯供養を行った勅願寺か?」というなら、なおさらのこと、ミステリアスな遺跡である。

 なお、素朴な疑問だが、平城京に遷都した為政者は、都のすぐ北側を大和の国ではなく山城の国にしたままだったのはどうして? 今度の遺跡のように文化的にも経済的にも(平城京の瓦や木材をはじめ)共通する地域と思われるのに・・。 勉強をしないまま「おかしいなあ」「なんでやろう」と家庭内で会話している。

 それにしても、国や自治体の予算が単年度会計になっているため、つまり、予算がついてから発掘が始まり年度末には結果報告が必要なため、この時期は現地説明会ラッシュらしく、「このあと枚方へ回ります。」等々のマニアックな会話が飛び交っていて感心させられる。
 蛇足ながら、単年度会計って無理がありますよね。・・現地説明会が冬に集中して寒いからと文句を言っているのではありません。


 

2011年2月18日金曜日

尾木ママ がんばれ

    クレイマーについて考えた
 先日「知ってまっかTV」で尾木ママが学校のモンスターペアレントの紹介をしていたが、時代は必ずしも進歩するとは限らず、退歩することも少なくないことを実感させました。尾木ママ がんばれ。
 よく、「教師が敗戦とともに豹変した」という文章に出会いますが、私の小学校の経験では、戦後民主主義教育と第一次の管理教育の葛藤の中でまだ民主主義教育の息吹のほうが強かったように思います。(もちろん、こんな感慨は大人になってからのものですが・・)
 例えば、小学校高学年の担任の女性教師は全身全霊子供の味方であったし、男女平等をこの国に根付かせようと必死でした。
 だから、忠実な教え子の私たちは、6年生でも「長馬とび(きりんジャッパン)」を男女混合で遊んでいました。男女混合で股の中に頭を突っ込むのですが「それを嫌がるのは古い考え方だ」とみんなが思っていました。(ウチのクラスだけでしたが・・) 同窓会で誰もがそう言って笑い合います。
 まあ、現在は、男女混合以前にこんな危険な?遊びは禁止されているらしいですね。
 内田樹氏が「メディアがクレイマーを助長している」旨の指摘をされているが全く同感です。
 個別事案は知りませんが、一般論としてはモンスターペアレントを訴えた学校も「あり」だと思っています。
 もちろん、異なった意見を堂々と主張する人をクレイマーとは呼びませんが、教師や医師や公務員等々の人々が、クレイマー(とメディア)によって萎縮しないように応援したいと思います。
 

2011年2月17日木曜日

メジロのサンバと命名しました

 寒波の後の高気圧の(晴れの)日は誰もが何か“うきうき”するものですが、それは決して人間様だけでなく自然界共通のもののようです。
 その1、 綿虫が喜んで蚊柱のように踊りだします。昨日まで何処にいたのか判りませんが。何処からか湧いてくるのがとても不思議です。
 その2、 その綿虫を食べようとメジロがアクロバチックに空中でホバリングもどきの技術を駆使して踊りだします。メジロのサンバと勝手に命名しました。
 このメジロのサンバ。 最初は何をしているのか判りませんでしたが、証拠写真をフライデーしました。綿虫をキャッチした瞬間です。クチバシにご注目ください。
 この事実、・・・・・「だからどうした」と言われれば、どうもしませんが、みんな必死で生きているのだなあと感動します。        エッ こんな感覚って浮世離れしすぎですか。

2011年2月16日水曜日

百舌鳥を忘れちゃいませんか

 チョウゲンボウには及びはせぬが、百舌鳥を忘れちゃ困ります。・・といったところでしょうか。  
 小なりといえども猛禽類。目、クチバシ、爪、そして枝先に留まったときの姿勢と狩猟根性はなかなかのものです。
 そして、的確な漢字の命名・・・・いろんな小鳥の鳴きまねが得意で、びっくりして探すと「なんだ百舌鳥か」と騙されたことも度々でした。(バードウィークの頃に注目してみてください。)私はこのことを文字よりも先に耳で発見?して、漢字の妥当性に感動を覚えたことを思い出します。
 人間をあまり恐れず、数年前には、ウチの庭木のあまり高くもないところに巣を作って子育てを終えました。
 バッタやトカゲを木の枝に刺しておく「百舌鳥の早贄(はやにえ)」は、以前は近所に沢山ありましたが近頃は見つけられておりません。それにしても、百舌鳥のこの習性を「神様へのお供え」と命名した先人は、現代人よりも余程心が豊かでありました。
 心豊か・・といえば、昭和10年にサトウハチローが情趣たっぷりの「もずが枯木で」という名曲を作っています。「よくもまあ許可されたものだ」とびっくりするほど厭戦の気分が籠もっています。いつかテレビで岡林信康が歌っていたのにも驚きました。(私が知らなかっただけのことですが)
 この唄(曲)は、半世紀ほど前に友人に教えてもらった唄で、青春の思い出と重なってじ~んと来る唄です。 
9年前に家の前の木に見つけたハヤニエ

2011年2月15日火曜日

チョウゲンボウはカッコイイ

 車で約15分。後に恭仁京の右京となる地にあった国内最古級(飛鳥時代)の大寺院である高麗寺跡と京都府立山城郷土資料館に行ってきた。

 高麗寺跡は、これまで度々珍しい鳥たちに逢えたゲンのよい場所だったのでダメモトで寄ったのだが、あきらめて帰りかけたときに遠くの木の枝にキジバトぐらいの鳥を見つけた。
 とまっている姿勢が水平に近く精悍そうなので「もしかして」と思ったら、ハヤブサ類ハヤブサ科チョウゲンボウ(写真)だった。見つけた途端に飛び出したので夢中でシャッターを押したがチョッと興奮した一瞬だった。論理的な理由はないがワシ・タカの仲間は何故か興奮する。
 
 資料館では「昔の暮らしの道具展」をしていたが、展示品の90%ほどは実物を知っている(使用していた)ものだった。・・ということは・・、客観的には我輩はもう「昔人間」に分類されているということか・・と複雑な気持ちにさせられた。
 そういえば、此の頃、母の施設に置いてある「昔の学校」「昔の町や村」「昔の遊び」という写真いっぱいの本を「うんうん」とうなずきながら母よりものめり込んで読んでいる自分がいる。

 

2011年2月13日日曜日

人間らしい労働 Decent Work

 先日受講した「日露戦争からの100年を考える」と題した原田敬一氏の講義の資料に『ベルサイユ条約(1919.6.28パリ)第13編労働』があった。その中に・・・、

 『多数の人民に対する不正、困苦及び窮乏を伴う現今の労働状態は大なる不安を醸成し世界の平和協調を危殆ならしむへきに因り彼の労働時間の制定、殊に一日又は1週の最長労働時間の限定、労働供給の調節、失業の防止、相応の生活を支ふるに足る賃銀の制定、労務傷害及疾病に対する労働者の保護、児童年少者及婦人の保護、老年及廃疾に対する施設、自国外に於て使用せらるる労働者の利益の保護、結社自由の原則の承認、職業及技術教育の組織等の如き手段を以って前記労働状態の改善することは刻下の急務なるに因り』云々とあった。

 いわく国際平和と労働問題は表裏一体との指摘で、大いに共鳴した。
 この100年前からの崇高な精神を、政府や財界の首脳には再認識をしてもらいたいものである。

 これに連想して次の話題・・・・、今日の赤旗日曜版のディーセントワークの解説で、この言葉が「チャップリンの“独裁者”の中で適切な使われ方をしている。」と指摘しているのはクリーンヒットだと感心した。

(エジプト)
 『独裁者(床屋)は「Let us fight for a new world, a decent world that will give men a chance to work, that will give you the future and old age and security. 新しい世界――すべての人間に働く機会を与え、若者には未来を、お年寄りには保障を与えてくれる立派な(ディーセントな)世界をつくり出すために、みんな立ってたたかおう」と大演説したのだ。―と。

 今日のブログは孫引きばかりでお恥ずかしいが、労働行政や労働問題に関心のある方々に参考になればとアップした。

2011年2月12日土曜日

寒い朝

 23.02.11

 毎朝訪ねる母の施設。

 雪は全ての嫌なことを覆い隠して飾ってくれる。

 いつもの庭も高級別荘地の趣き。

 「庭に出てみたい。」と言う。

 「言ってみただけ。」と言う。

2011年2月11日金曜日

イナゴは素焼きに限る

 ―― 大正生まれの母が子供だった頃パート5 ――
 昨夜は義母の外泊であった。
 2月2日の“回想法”に書いたが、近頃、母は私に“昔の暮らしを教えてやらなあかん”という使命感を抱いたようで、思い出したことのメモをポケットに突っ込んで帰ってきた。
 私はというと、小学校区に田圃がなかったというほどの“町の子”で、脈略なく発せられる百姓の娘の記憶の断片を、とんちんかんに受け答えしながら深夜まで話し込んだ。
   『水車小屋の当番の日は(精米の作業を)搗きすぎないよう見に行かなあかんかった。
   『かき餅を作るカンナがあった。
   『牛を大きくしたら博労が子牛とお金に換えてくれるねん。
   『狐が鶏を獲りにくる。・・・・というような想い出が、順序関係なしに溢れてきた。
 そして、「家の裏に大きな岩があってん。この岩には神さんがおったんや。他所の者がこの岩に登ったときは神さんが怒って、その男が動けんようになりよった。」という話などは、もう100%遠野物語の世界だった。
 また、前に「イナゴを食べた。」と聞いたときは、当然に“佃煮にして食べた”のだろうとすっかり思い込んでいたが、よく聞くと、「獲ったイナゴは、畦に生えてる、先に小坊ちゃんの付いた草の茎で何匹も串刺しにし、それをかまどの灰の中に入れ、焼けたらパンパンと叩いて灰を落とし、それを自家製の醤油につけて食べたんや。」 というのが事実だった。

こういう「株きり」という道具やその
作業も母の講義で初めて知った

 人の話を生半可な知識や経験で判った様な顔をして思い込んではならないことを・・しみじみと反省させられた。



 
 
 

2011年2月10日木曜日

再会を喜ぶ

 今朝、一目でわかりました。帰ってきたことが。
 6日のブログのシロハラが帰ってきました。
 ひよこの様な出で立ちで、生え始めた白い尾羽も痛々しく、落葉をひっくり返して歩いていました。
 そのうちに、近所で「新種発見」と話題になるかもしれません。
 そんなこと知ったことか キョッキョ ・・と近所のお宅の庭に飛んでいきました。
 ありがとう

2011年2月9日水曜日

円筒埴輪を好んだ人はどんな人

 昨年に、復元されたナガレ山古墳を見たときに、妻が「円筒埴輪から形象埴輪に移っていった意味が解らん」と言い「それもそうやな」と思っていたが、先日聞いた講演の鞍岡山3号墳でも円筒埴輪列があり、頭の中でその疑問が再燃したので、橿原考古学研究所付属博物館の「埴輪のはじまり」を見に行ってきた。
 展示の内容は、①弥生の墳丘墓や出現期の古墳には壷とその器台(円筒形)が飾られたものがあり葬送の儀礼の品らしいこと。②古墳時代の前期初頭(3世紀中葉)には先の器台が発展したような円筒埴輪が現れたこと。③古墳時代前期前葉(4世紀前葉)に家型等の形象埴輪が現れたこと。④古墳時代中期(5世紀中葉)に人物埴輪や動物埴輪が表れ多様な飾り立てがされたこと。⑤前方後円墳の衰退とともに埴輪も衰退したこと。・・というものだった。
 ところで、そもそもの疑問は、形象埴輪から抽象的な円筒埴輪に発展?したというのなら、何となく人類の精神史、美術史として納得できそうなのに、高度に抽象的な円筒埴輪の後に形象埴輪が現れているという文化の流れが腑に落ちないというものだったし、結局、展示の限りではそれは解らなかった。
 勉強もせずに解ろうとするのが甘いに決まっているが、想定されることは、円筒埴輪の抽象性に納得していた初期の王権が、現実的でゴテゴテ飾るのが好きな〇〇府民のような王権と交替、移行したのではないかというのが私の感想で、ここでも万世一系の神話は肯定できないと思い至った。
 偉そうに王権の交替を唱えたが、これはすでに考古学会では常識とされていることを述べただけで何も目新しい説ではない。

 蛇足ながら、日本書紀の「野見の宿禰が日葉酢媛命陵への殉死の代わりに埴輪を作ったのが始まり。」との旨の記述は、以上の諸事実からしても考古学的には全く否定されている。
 時代も合わないし、そうであるなら、それこそ「最初は形象だった。」となり、私たち夫婦は何も悩むこともなかった。
 

2011年2月8日火曜日

これは自然破壊かも

 先日の豆撒きの豆が残っている我が家の庭の領有権を主張して、特定のヒヨドリが四六時中駐留している。
 野鳥ならそんなケチな生活をするな!と言いたいが、むざむざ美味しい縄張りを離すものかと思うほうが自然だろう。

 母の施設にも毎朝決まった場所にツグミが来るので、単純に感心していたが、実はそこが毎朝セキセイインコの鳥かごの掃除をする跡地であることがわかって可笑しくなった。

 ヒヨドリやツグミを餌付けしたつもりではないけれど、そして、あんまり自然そのものではないけれど、これも住宅地の中の自然じゃないかと割り切って楽しむこととしたい。

2011年2月6日日曜日

防鳥ネットで大失敗

 1月20日付けブログで嘆いたとおりヒヨドリがレタスを丸坊主にするので、防鳥ネットを張って対応していたところ、よりにもよって1月3日付けブログの珍客シロハラがネットに絡まってしまった。
 言い訳ながら、張ったのは普通のホームセンターで購入したオレンジ色の正規のネットで、決して霞網ではないし想定外のことだった。
 もちろん、ネットを鋏で切って解放したことは言うまでもないが、シロハラが当方の意図を知るはずもなく、けっこうなクチバシで私の指に噛みついたり、挙句は、尾羽を大量に抜き落として飛び去っていった。
 ネットの弛みが要因であったらしいが、この大失敗に一寸落ち込んだ。
 願わくば、元気を回復して再び我が家を訪問して欲しい。いや、訪問せずとも、暗い林の奥ででも元気に成長して欲しい。
 シロハラさん ごめんなさい。
 
 大きな声では言えないが、もしこれがヒヨドリであったなら、日頃の恨みを思い出し、伏見稲荷の名物もどきに姿を変えていなかったとは断言できる自信がない。


  PS   2月10日のブログにつづく

 
 

2011年2月5日土曜日

郷土史を実感されている古老は羨ましい

 鞍岡山3号墳の発掘調査結果の講演会がありました。
 古墳の場所は、JR学研都市線・近鉄京都線狛田駅の西南の丘陵の麓で、イメージ的にはくろんど池の東北です。
 円筒埴輪にホコを立てた送霊船といわれている船の絵があり、古墳時代前期の相当有力な地方豪族の円墳だということです。

 講演会には、(勝手に顔つきで判断して)学校の先生らしい人々の数を上回って、(これも勝手に顔つきで判断して)地元のおじいさんおばあさんが沢山参加されていました。
 きっと、和気王御陵墓と言い伝えられてきたこの古墳を先祖の墓同様に感じとり、自らも古墳時代から続いた子孫だと実感されているのでしょう。そういう体感を得られる方々を羨ましく思いました。
 「勝手に想像しないで欲しい。郷土史や文化財の学習を趣味にしているだけなのだから。」と怒られそうな感想で申し訳ありません。

2011年2月3日木曜日

手向山八幡宮のお田植祭

  節分の日に、道真が 「このたびは 幣もとりあへず手向山 紅葉の錦 神のまにまに」 と詠った東大寺の鎮守社・手向山八幡宮のお田植祭(おんだ祭)があった。(奈良市無形文化財)
 翁が農作業の所作を重ねながら神のご加護をお願いするという、お能などの芸能のルーツを実感させる神事であった。
 圧巻は、稚児の牛が四方に向かって 「モ~ツ」 と啼くところで、現代っ子が照れることなく大声で啼く様子は可愛くて仕方が無かった。
  神事で稲籾と餅と豆を高らかに撒いた後、参拝者に福豆の豆撒きも行われ、希望者には楠と松で作られた早苗(を模したもの)も配られ、ほのぼのとした中で終了した。
 古いお面(きっと重文)、古い所作、鼓・鉦・謡のような祝詞の唱和等々、そして適度な規模の小ささ・・・遠くないこの地に住む贅沢を十分に堪能した。
 その夜は、大きな声で 「鬼は外 福は内 戌亥の隅にどっさりこ」 と豆撒きを行い、恵方巻を丸かぶりし、食べた後の鰯の頭を柊に刺して玄関に飾り付けたのは言うまでもない。
 妻も 「子供のいない家で大きな声もなあ~」 と言いながら、一緒に大声で豆撒きに付き合った。

 








 
  以下、2月4日追加掲載


2011年2月2日水曜日

もしかして回想法(籾摺りを思い出した母)

 (妻の)母親の面会に行ってきた妻が、『母が「臼で籾摺りをしていたと(私に)言うといて」と言ってたよ』と話してくれた。
 これは、先日来私が尋ねていた義母の小さい頃の昔話の続きらしく、ロール式の籾摺り機が出まわる昭和のはじめ頃までの古い古い籾摺りの方法のようで、そんな古い方法を実際に体験していたのだということを私に伝えておいて欲しいというものだった。
 確かにこれは、昔の農作業はこうだったという現代史の枠を越えて、さらに古い、それはもう“近代史”の一齣に違いない。
 それにしても、年齢とともに避けられない体力の衰えと併せて全般的な意欲の低下が顕著であったのに、この伝言には心底から驚いた。
 先日ジュンク堂で何気なく老人介護の棚を見ていたら「回想法」という本が並んでいたが、もしかして、私のしていた「昔はどんなんやったん」は回想法だったのかも。
 小難しい論文(回想法の本)で無くっても、人は自分の経験を興味を持って聞いてくれるのは嬉しいものなのだ。だから「こんなことも話してやろう」という意欲を何年ぶりかで引き出したのだろうと思う。
 一般に、男の子は母親とそんな話をしないまま育つので、義母にしても実母にしても、近頃の昔語りを聞く会話はある種新鮮で此方の方がありがたいと感じている。
 これからも急ぐことなく身近な近代を尋ね続けたい。宮本常一の歩いた日本はここにもある。
 「おばあちゃんの若い頃の話をコンピューターに書いたから世界中の人が見られるねん」とブログを見せたら、「それはえらいこっちゃな」と笑っていた。

 母が子供の頃手伝っていた「臼挽き(籾摺り)」の想い出は・・・

 臼は上が木製で下は粘土で出来ていた。粘土の歯が減ってきたら職人さんを呼んで直してもらう。上から籾を入れて3~4人で棒を押したり引いたりして回転させ籾摺りをしたというもので、「それは力がいるねん」「しんどかったなあ」と溜息のようでもあり楽しい想い出のようでもあったらしい。

こんな臼を、右の絵のように
回していたらしい。

 

2011年2月1日火曜日

「鴛鴦の契り」とは よく言ったもの

 昨日、けいはんな記念公園・水景園に行ってきました。といっても電動アシスト自転車でチョッと寄っただけ。入場料高齢者無料の上に入場記念に節分の豆まで頂いて恐縮しましたが、考えると、こんな厳寒に野外の公園を訪れる人もなく、無料入場者であっても「枯れ木も山の賑わい」・・入場者はありがたいと思われたのでしょう。

 池の淵には薄氷が拡がり、時折、嵐に似た寒風が湖面を通り過ぎます。
 そして、ひたすら立木のごとく擬態をこらしておしどりの遊泳を待つのですが、他のカモ類が悠々と漂うときにもおしどりだけはなかなか出てきてくれません。
 土手の林の中や木の上で、物好きな入場者の様子を覗っています。
 魅力的なあの勝負服も、天敵には絶好の目印になるので、それだけ慎重になるのでしょうか。それともシャイ?

 「おしどり夫婦というけれど実際は抱卵中だけ」と書いてある本がありますが、写真のとおり、恋の季節以外でもカップルで過ごしているペアが目立ちます。おしどりはやっぱり鴛鴦の契り(えんおうのちぎり)、仲睦まじいおしどり夫婦だという言い伝えを信じたいと思います。

おしどりのペア

 草地で非常に珍しい越冬中のクロツグミを見つけ、これはすごいと喜び勇んで帰って調べ始めたところ、クロツグミの特徴どおりの「クチバシと目の周りが黄色」ではなく、これはますます珍しい発見かと追跡したところ、結局は寒さゆえか丸々と膨らんでいたヒヨドリとしか考えられず、いっぺんにガックリきました。