2011年3月11日午後2時46分、私は奈良市の古いビルの4階に居た。
壇上に立って話されていた講師は気付くことなく講義を進められたが、吊り看板はゆっさゆっさと揺れていた。
閉会時に事務局が「東北で大地震」と言ってくれたが「東北の地震で奈良が揺れた?」とは信じられなかった。
急いで帰るとテレビが現場をライブ中継していたが、そこへ大津波が現れた。
それは録画ニュースではなく、そのままのライブだった。
ヘリコプターからの映像では、本人は津波が差し迫っていることを知らず、動作が緩慢な人や、中には津波の方向に向かって走っていく人もいた。
もう一度言うが、私の見ていた画面は録画のニュースでなく、人々が死んでいくそのものの実況画面だった。「そっちへ行ったらアブナイ!」「もっと早く逃げろ!」テレビのこっちで声をあげても虚しいだけだった。
原発は正常だとのアナウンスが度々あったが、そのうちにフクシマ第1原発から白い煙が上がった。テレビは水蒸気だと繰り返したが、実はそのときメルトダウンが起こっていた。
「身体に影響はない」とのアナウンスを何回聴いただろうか。
そのうちに住民は強制疎開となった。
それからのことはみんなと同じことだろうが、あの時の実況画面の記憶は今も忘れない。
上に掲載した写真は、森住卓写真集『福島第一原発 風下の村』飯館村でお盆の墓参りに来た住民。
つい先日3月7日このブログの記事の『重信幸彦氏の指摘』で、戦争前夜には単に政府にだまされた、マスコミにだまされたというのでなく、皆が自発的に「空気」を再生産していった責任があるとの氏の主張を紹介したが、その伝でいえば、私だって原爆ではなく原発は安全だと信じていた責任がある。
そんなに難しい話ではない。ほんとうに原発が安全なモノであれば、電力の大消費地東京、名古屋、大阪の湾岸工業地帯に建設すればいいのである。処分場もしかり。
危険なモノであるからこそ田舎に押しつけたのは「知らなかった」で済む以前の常識である。悪口でなく未来志向でいうのだが、札束に眼がくらんで原発を受け入れた田舎だって責任がある。
胡散臭い話に目をつぶって、都会も田舎も、後は野となれ山となれとばかりに口を噤んできて、ここにきて「知らなかった」は通らない。
少なくとも私には「騙された罪」がある。この謝罪文を語り伝える責任があると思っている。
以上の話は、筆の勢いで「皆な」と書いたが、徹底して批判し反対してきた人々がいたことも事実として押さえておく。
たとえば日本共産党の吉井英勝元議員などはその筆頭だし、大津波で外部電源喪失の怖ろしい危険性を国会で追及したが、それを一蹴して手を打たなかった当事者が安倍晋三元首相だった。多くの素晴らしい学者や市井の人々の名前はここでは省略する。
さて、ウクライナでは、ロシア軍がミサイル攻撃をして、ザポリージャ原発の外部電源が喪失したと報じられている。ディーゼル発電機の燃料は10日分だけだという。うまく復旧できなければ世界的大惨事となる。
3.11を振り返るなら、この現実にも目を向けなければと思う。「語り継けよう」という言葉だけを繰り返すのでなく、それぞれが自身の言葉でフクシマを発信したいものだ。