2018年4月30日月曜日

9条3項加憲の行きつくところ


(詩) 竹 矢 来    
京 土竜

岡山県上房郡 山村の五月
時ならぬエンジンの音がこだました
運転するのは憲兵下士官
サイドカーには憲兵大尉
行き先は村役場

居丈高に怒鳴る大尉の前に
村長と徴兵係とが土下座していた
「貴様ラ!責任ヲドウ取ルノカ!」
老村長の額から首筋に脂汗が浮き
徴兵係は断末魔のようにケイレンした

大尉は二人の案内で一軒の家に入った
「川上聡一ノ父ハ貴様カ!
コノ国賊メガ!」
父にも母にも祖父にも
何のことか解らなかった
やっと理解できた時
三人はその場に崩れた

聡一は入隊一ヵ月で脱走した
連隊捜索の三日を過ぎ
事件は憲兵隊に移された
憲兵の捜索網は二日目に追い詰めた
断崖から身を躍らせて聡一は自殺した

勝ち誇った憲兵大尉が
全員をにらみ回して怒鳴った
「貴様ラコノ始末ヲドウ付ケテ
天皇陛下ニオ詫ビスルカッ!」
不安げに覗き込む村人を
ジロッとにらんだ大尉が一喝した
「貴様ラモ同罪ダッ!」
戦慄が村中を突き抜けて走った

翌朝青年団総出の作業が始まった
裏山から伐り出された孟宗竹で
家の周囲に竹矢来が組まれた
その外側に掛けられた大きな木札に
墨痕鮮やかに『国賊の家』

「あの子に罪や無え
兵隊にゃ向かん優しい子に育てて
しもたウチが悪かったんじゃ」
母親の頬を涙が濡らした
「ワシャ長生きし過ぎた 
戦争せえおこらにゃ乙種の男まで
兵隊に取られるこたぁなかった」
日露戦争に参加した祖父が嘆いた

「これじゃ学校に行けんがナ」
当惑する弟の昭二に
母親は答えられなかった
「友達も迎えに来るケン」
父親が呻くように言った
「お前にゃもう学校も友達もねえ 
わしらにゃ村も国ものうなった」
納得しない昭二が竹矢来に近づい時
昨日までの友達の投げる小石が飛んだ
「国賊の子!」
女の先生がそっと顔を伏せて去った

村役場で接待を受けていた大尉は
竹矢来の完成報告を満足して受けた
「ヨシ帰ルゾ オ前ラ田舎モンハ
知ルマイカラオレガ書イトイテヤッタ
アトハ署名ダケデ済ム」
彼は一枚の便箋を残して引き揚げた
一読した村長は顔色が変わったが
黙って懐に入れ、夜更けてから
竹矢来の家を訪れた

三日後川上家一同の死が確認された
昭二少年の首には母の最後の愛か
正絹の帯揚げが巻かれていた
梁から下がった三人の中央は父親
大きく見開かれたままの彼の目は
欄間に掛けられた天皇皇后の
写真をにらみつけていた

三人の足元に置かれた便箋の遺書に
「不忠ノ子ヲ育テマシタ罪
一家一族ノ死ヲ以ッテ 
天皇陛下ニお詫ビシマス」

村長は一家の戸籍原本を
焼却処分した
村には不忠の非国民は
いなかった

(「ゆりねだより第161号)「ゆり根の会」より転々載

  京 土竜
京都の旧制専門学校を出て「立川飛行機株式会社」に19434月入社
陸軍軍用機試作設計技術一課の技術者。
19454月に鳥取連隊に入隊,満州に渡る。
ハルピンで「玉砕部隊」のはずであったが奇跡的な幸運で9月に帰国。
作品は「赤旗」198924日付「読者の文芸」に初出(以後推敲4回)。
「詩人会議」同人。
2011年没。

   竹矢来強し詩人の置土産

2018年4月29日日曜日

歴史に立ち会う

 「”歴史は進歩する”というのは唯物史観のドグマだ」という人がいる。あるいは「性善説のお花畑だ」という人もいる。
 しかし、”無常”を”無情”と勘違いしている人もいるが、そも”諸行無常”は仏教の根本思想である。
 そこに時々の人類の知恵が反映するはずがないと考えるのは、病的に悲観的過ぎるだろう。

 一昨日、南北朝鮮は65年ぶりの終戦協定に向けて一歩を踏み出した。
 今後いろんな紆余曲折があるだろうが、歴史的な画期であることは間違いない。
 南北会談当日は一種の到達点のお披露目である。
 その日に向けて数限りないダンドリ(水面下の交渉)が積み重ねられてきた結果である。
 その段取りを”外交”というのではないか。

 私は安倍晋三が好きではないが、日本の惨めな外交力が世界中で笑いものになっていることには心が痛む。
   ”日本の誇りを取り戻す”というコピーにシンパシーを感じる人は今こそ「安倍は退陣せよ」と主張すべきでないか。

 冷笑の言葉を探しまくって嫌味を言うのを”引かれ者の小唄”と言う。
 直近の「北は核実験の準備をしている」という外相発言など”日本の圧力”で北が頭を垂れてきたと蚊帳の外で慰め合っているのは恥ずかしい。

 なにはともあれ東北アジアの平和の時計が進んだことに、義母と小さな缶ビールで乾杯した。

 帰ってからフォークルのイムジン河を聴いた。


   太陽の諫め線上の衝撃波

   止められぬ底流二人ハグしたり

2018年4月28日土曜日

みんな違う子どもたち

   小さい孫を預かったときにEテレの『おかあさんといっしょ』の『ブンバボン』という体操を観たりする。
 小さい子どもたちが体操のお兄さんと一緒に体操をする。
 上手に踊っている子もあれば、ただただ立ち尽くしたままの子、後ろの壁に座り込んだままの子、外側へ出ていってしまう子がいる。

 ここに出るには相当の倍率の競争らしいから、お母さんにとっても「いざ本番」だったに違いない。
 カメラの横や後ろでがっかりしているお母さんの顔や溜息が手に取るように判る気がする。
 孫の凜ちゃんが出られたとしたら、きっとその組だろうから、自分たち祖父祖母の未来予想図の気持ちで「ご同輩」という感じで笑ってしまう。

 先日はダウン症と想像される子供が出ていた。やはり少し立ち尽くしている場面があった。
 いろんな葛藤があっただろうが出演させたお母さん※を大いに称賛したい。
 世の中にはいろんなハンディを背負った子がいて当然だ。「できる子」だけの番組であっていいことはない。
 わが孫の親はどう思っているか知らないが、祖父祖母は凜ちゃんも歩けるようになったら出したいなあと言い合った。

 学者先生は他人と比べたりするな!というが、その様子が気にかかるというのが人情だ。
 私の孫の場合、フェースブックの市田さんのお孫さんとほとんど同じ年齢だ。
 市田さんのじじ馬鹿ぶりのFBを読むと、「標準的にはこうなんだなあ」と思ってしまう。
 当然、お孫さんは普通に歩いてしゃべっている。

 反対に病院に行くと、重い症状の子どもやお母さんたちをいっぱい見る。
 見た目だけならウチの凜ちゃんも「軽くていいなあ」とさえ見えているだろう。心臓も耳も外からは見えない。
 ※のお母さんに見習って、多様な人々がそのままで楽しく生きられる社会にするため、祖父ちゃんは発信し続けるつもりである。

   涼風も病の子らは持て余す
   暑い日の後に涼しくなった。早速孫は風邪をこじらせた。

2018年4月27日金曜日

今日もダンドリ君

   4月中旬に中学校の同窓会をした。
 準備はいつも何人かの女性陣が要所要所を押さえて進めてくれる。
 私は何人かに連絡し、あとは当日の進行役をした程度だ。
 終わってから、これも写真集を女性陣が作成してくれ、私は送付状だけ作って送付した。
 そんな程度の加わり方だったのに恐縮したのは、その後大勢の方々から手紙や電話でお礼の言葉を戴いたことだった。ほんとうに恐縮だ。
 お世辞も多分に含んでいるだろうが「楽しかった」と言ってくれている。

 そんなことで、大したほどではなかったがダンドリ君をしてよかったとちょっとだけ自分を褒めている。
 もちろん真の立役者は女性陣だし、誰に言われたわけでもなく写真集まで作ってくれるのは男前である。

 さて、同窓会やいろんな集いを進行するのは実際にはけっこう難しい。
 「そんなの自然に歓談してもらったらええやん」という意見もある。事実、そういう部分も大切だ。しかしその言葉を「何もしないこと」の言い訳、すり替えにしては良くないと思う。
 特に歓談の輪の外にいる人々が私は気になる。
 なので、タイミングタイミングで気持ちが集中するような企画をどう挟むかということでけっこう真剣に自問自答する。

 これがOBたちの集いとなると、職業生活では管理職を経てのOBだから、多くは口は動くが尻は重くなる。私もそうだった。
 そんなとき誰かの書評に町内会活動のことがあり、上手く進めるためには「請われれば一指し舞う」という気概が必要だとあった。
 そうだ、OBに職歴も何も関係ない。大切なのはダンドリと「一指し舞う」尻の軽さだ。

 ダンドリは「ダンドリ八分」という言葉がある。「ダンドリをしっかりすれば目的の八分(80%)は仕上がったも同然」「仕事の内の八分はダンドリと心得よ」と理解している。
 ところで5月にはあるレセプションを行うことになっている。
 「まあ例年どおりするか」で相談は全て終わっている。さてどうするか。

 一昨年の秋にはボブ。ディランのノーベル賞受賞にこじつけてみんなで「風に吹かれて」を英語で合唱し好評?だった。
 その伝でいけば、先日友人のブログに高畑勲監督の追悼文があり、『THE ROSE』を高畑監督が訳詞して平原綾香らによって『愛は花、君はその種子(たね)』という題名で歌われていることを知った。
 よしタイミングならこれだろう。
 そう思ってとりあえず楽譜を購入した。オケはスマホでYou Tubeをマイクで拾えばいい。(写真は著作権保護のため加工した)
 楽器を弾けない己が悲しいが今更しようがない。
 あとはそこそこ練習しておくだけである。

 それでも「そんな歌知らんでえ」という怨嗟に似た声が聞こえてきそうだ。
 でも朝日新聞の『折々のことば』に「何もしようとしないうちからできないなどとと言うな」というのがあった。
 私もこの歌をこれまで全く知らなかった。

    しない訳訳知り顔で解説し

2018年4月26日木曜日

シリアの情報

   右の写真は24日付け朝日新聞朝刊のダマスカス=翁長忠雄記者の記事である。

 写真上でクリックして拡大して読んでいただけると判るが、アサド政権によって制圧された東グータ地区から政権側キャンプに脱出してきた避難民の「反政権側制圧下の5年間」の証言である。

 軽く読み終えると反政権側による人道危機の告発に見えるが、街を破壊し住民の命を大量に奪ったのはアサド政権・ロシアによる空爆でないのか。

 先日有志連合が空爆した不正はあるが、その前提の毒ガス兵器の使用がアサド政権側によるというのはほゞ間違いないのではないのか。

 この避難民の証言が嘘であると言うつもりはない。
 しかし、メディアは細部をまるで全部であるかのように示すことがある。一昨日の記事で「40か国の首脳がデモの先頭に立った」嘘のようなものである。 
 我々は余程感性を研ぎ澄ましていないと騙されないか。

 ところで、アレッポの反アサド政権側の「自由シリア軍」(ISではない)に潜入した西谷文和氏の文の中に私が少し苦笑した文があった。
 『戦況は、昼間は自由シリア軍が銃撃戦でアサド軍を追い込んでいく。夜間になるとアサド軍がミグ戦闘機や攻撃型ヘリで空爆してくる。
 反政権側の者はいう。「卑怯者、空から撃ちやがって」。ミサイルに脅えながらミグ戦闘機に悪態をつく。
 実際に空爆されている側に住んでみると「戦争は理不尽」で「空爆は反則」と感じるのだ』

 この文は正確な論文ではないし、そもそも正しいかどうかというようなこととは埒外の記述だが、私には妙に戦争の理不尽が伝わってきた。
 暴力(戦争)は第2第3のISを生むだけではないだろうか。
 プロレスの試合のように、アサド政権、自由シリア軍、ISなどが殺し合いを続けているのを、ロシアや有志連合(米仏など)のそれぞれの軍事産業がビールを片手に笑っていないか。

   空爆を反則というアラブ兵批判すべきかともに笑うか

2018年4月25日水曜日

生誕140年

   今年は与謝野晶子生誕140年になるという。
 わが高校の大先輩でもあり、在校中から私は『君死にたまふこと勿れ』をそらんじていた。
 この詩が発表されたのは明治37年(1904)で日露戦争に出征した弟の無事を祈るものである。
 言葉尻から反戦歌などと言うのは今風で、もっと素朴な性格の歌であったが、当時は国粋主義者はもちろん権威ある文壇からも激しい批判を浴びた。
 その批判に対して晶子は『明星』に「ひらきぶみ」を書き、一歩も引かず戦争の悪を説き、人として当然の「まことの心を歌ってこそ歌」と反論した。

 岩波文庫『与謝野晶子歌集』(与謝野晶子自選)の「あとがき」には、若い頃は薄田泣菫、島崎藤村の模倣に過ぎなかった。後年の私が「嘘から出た真実」と述べているが、本人には申し訳ないが、若い頃の一途な歌が心を打つ。

 頬にさむき涙つたふに言葉のみ華やぐ人を忘れたまふな

 晶子に立ちはだかった明治37年は「近代化が善」であったというかも知れないが、基本的に女性は一人前の人間扱いがされていなかった時代である。
 それに比べての今日は基本的には進歩している。
 なのに政治の天井部分でセクハラは継続し、メディアの一部は被害者を責めている。
 自衛隊員は紛争地に派遣され、真実の記録は隠蔽されている。
 生誕140年、私たちは彼女の勇気を心から見習うべきときだろう。

 ふるさとの潮の遠音のわが胸にひびくをおぼゆ初夏の雲
 海恋し潮の遠鳴りかぞへてはをとめとなりし父母の家

2018年4月24日火曜日

真実は単純かもしれない


 東京新聞は、南スーダンで2016年7月、政府軍と反政府勢力の大規模戦闘が起きた際、国連平和維持活動(PKO)に派遣中の陸上自衛隊部隊が、通常武器を持たない隊員も含め全員に武器携行命令を出したことが22日、分かった・・と報じ、
 派遣隊員は当時を「戦争だった。部隊が全滅すると思った」と証言。PKO参加には「紛争当事者間の停戦合意」など5原則を満たすことが条件で、政府は当時「武力紛争ではない」と説明していたが、参加の根拠が崩れていた可能性が強まった。派遣隊員や防衛省幹部が明らかにした・・と報じた。

   西谷文和氏の講演で知ったことだが、自衛隊基地の東隣はジュバ空港で政府側(大統領派)の拠点、基地の西隣に反政府側(副大統領派)の拠点とするビルがあった。
 つまり自衛隊基地の上空をロケット弾が飛び交っていたわけである。
 そういう地図を見ると、これを戦闘地域と言わずして何とする、という感が深まった。
 そして、日本の大手メディアに頼っていては世界中の真実はほとんど解らないとつくづく思った。

   2015年1月7日にパリの週刊新聞社シャルリーエブドを3人組の男が襲い17人の犠牲者が出た。そして11日「私はシャルリー」と書かれたプラカードがパリの街を覆った。そのデモの先頭には世界40か国の首脳が立っていた。その映像(のみ)はフランス中、否、全世界中に配信され「テロとの戦い」「これは戦争だ」という世論は確固たるものになった。

 しかし、英インディペンデンス紙の写真では、それは全くの「やらせ」であることが明らかだった。だがすでに世界中の世論はできあがっていた。
 『頭を冷やす』・・このことが何よりも大切な時代になっている。
 ISを支持するつもりはないが、中東を地獄の底に突き落としたのは欧米先進国である。
 
 武器輸出大国や戦争が無ければ経済が成り立たない国がある。厳然たる事実である。
 「あの国はイスラム〇〇派だからね」などと判ったような口をきく前に、正確な事実と単純な仕組みをしっかりと凝視することが大切ではないだろうか。

    春暑し野菜作りは土づくり
    庭に微かな肥料の匂い。臭いと思うかどうかは人それぞれ。

2018年4月23日月曜日

海外メディアは正直


 日本のことは海外から見る方が正直に見えるようだ。
 ニュースサイト・リテラから引用する。

 イギリスの高級経済紙フィナンシャル・タイムズは、18日付(電子版)で、まず、TPPをめぐって安倍首相の目論見が外れたことを指摘。
 今回の会談に先駆けて、日本でもトランプ大統領がTPP復帰への再交渉検討を指示したとの報道があったが、周知の通り、実際にはトランプが17日に〈日韓は復帰してもらいたいようだが、私は米国にとってTPPは望ましいとは思わない〉〈二国間協定のほうが効率的で利益になるし、われわれの労働者にとってよっぽどいいじゃないか〉とツイートしたように、完全に蹴飛ばされてしまった。と、論評は手厳しい。

〈安倍首相は自身を、TPP協定の利点を説明し、米国が署名するよう説得もできるかもしれない“トランプの助言役”のごとく見せてきたから、今回のトランプの転向は安倍首相がくらった直近の痛手となった。〉

 もちろん「直近」というからには、安倍首相はこれまでもトランプから散々痛めつけられてきたとの認識だ。記事ではその例として、日本が米国の友好国のなかで唯一、鉄鋼とアルミニウムの高関税をかけられたこと、また、トランプ大統領が金委員長との会談を電撃決定したことを挙げ、〈これを日本政府は驚きをもって受けとめ、安倍首相は大慌てで平壌と日本の地理的近さとミサイルのことをホワイトハウスに思い出させなければならなかった〉と書く。そのうえで、こう続けているのだ。

〈水曜日の安倍首相との共同記者会見でトランプ大統領は、繰り返し中国の習近平国家主席への賞賛を重ねた。大統領は習国家主席を“私にとって非常に特別な人だ”と明言した一方で、安倍首相に対する親近感は抑えられていた。〉

 ようするに、北朝鮮の非核化に尽力する中国と対照的に、安倍首相はただただ圧力をがなりたてているだけで、とっくに見切りを付けている。そんなトランプの心中が、共同会見での態度に表れていたとの指摘である。安倍首相からしてみれば完全にケチョンケチョンに言われているわけだが、英国一流紙によるダメ出しはここで終わらない。さらにクリティカルな論評が続くのだ。

〈この日本の最も重要な同盟国からの外交的軽視は、安倍首相にとって最悪の時期に到来した。世論調査では政権発足以降最悪の支持率低迷を見せており、安倍首相は国内での一連のスキャンダルを振りはらおうと必死になっている。もし支持率が回復しなければ今年中に総理辞任に追い込まれるだろうとの見通しを語る自民党の有力者もいるほどだ。

 そのダメージは、日本では極めて感情的な問題である拉致問題についてトランプ大統領が北朝鮮政府への圧力を確約することで、幾分かは相殺されることになる。しかし日本では、安倍首相が自負しているトランプ大統領に対する特別な影響力を信じる人は、ほとんどいなくなるだろう。〉

 どうだろう。安倍首相はこれまで散々「深い信頼関係で結ばれている」「世界で一番、トランプと話ができる」と吹聴し、国内メディアも「ドナルド・シンゾー関係」などと誉めそやしてきたが、それも今や昔の話。現実は、安倍首相はすでにトランプから見放されており、その現状を海外メディアが冷静に伝えているのだ。

 海外でこうしたトランプの“安倍切り”やその醜態を伝えているのはフィナンシャル・タイムズだけではない。

 たとえば米紙ワシントン・ポスト17日付(電子版)では、外交問題を専門とする記者が、安倍政権はトランプの北朝鮮との対話外交の決定に驚かされたとしたうえで、〈昨年、トランプ大統領が日本を訪れた際、両国首脳のゴルフのなかで安倍首相はバンカーに落っこちた。今年、首相は自らが作り出したさらに大きなトラップのぬかるみにはまっているように見える〉と皮肉をきかせて分析。
 
 また、ニューヨーク・タイムズ21日(電子版)は〈トランプ大統領が他のアジア諸国との関係を築くことは、脇に追いやられてしまったことを恐れている日本にとってさらなる打撃となった〉と指摘している。

 つまるところ、安倍政権はトランプが大統領選に勝利するや否や各国首脳に先駆けて会談をぶっ込み、日米同盟の強固さと外交的イニシアチブをアピールし続けたが、結局はトランプのほうが何枚も上手。安倍応援団が喧伝する「外交の安倍政権」がまぼろしであることは歴然だ。さらに、いまや狂気としか言いようがない圧力一辺倒の対北朝鮮政策(政策と言えるかすら怪しいが)によって、安倍首相は愛するトランプから完全に鬱陶しがられており、それは国際社会からも共通認識となっているのだ。

 引用おわり、付記事項なし。

2018年4月22日日曜日

確かに地球は廻っている

   21日土曜日朝日新聞夕刊のトップ記事は『北朝鮮「核実験場を廃棄」』で、『北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長は20日、「我々にはいかなる核実験、中長距離や大陸間弾道ミサイル(ICBM)発射も必要がなくなった。北部核実験場も自己の使命を終えた」と・・宣言した』と報道した。
 
 トランプは密かにCIA長官を訪朝させ金正恩と交渉を続けてきたというから、金正恩もトランプもなかなかしたたかなものである。
 報復合戦なら未曽有の被害が想定される韓国、いろんな意味で北を友好国にしておきたい中国、韓国滞在米国人が常に約26万人いる米国、よい意味でみんなリアリストのような気がする。

 それに比べて、一人蚊帳の外の安倍晋三は日本国の恥さらしのように見える。
 拉致被害者は安倍の広告に使われ続けただけというのが正直な感想ではないか。
 「対話のための対話は意味がない」と勇ましかったが、現実はしたたかな対話で動いている。「巧言令色鮮し仁」とはよく言ったものである。安倍シンパと言われる日本会議グループこそ口先だけのお花畑的夢想家であろう。

 モリカケやセクハラだけでなく、安倍晋三を早期に退場させないと日本国は底なし沼に没落するだけだ。
 そのことは、革新だ保守だというような立場を超えて常識ある人々の共通認識になっている。
 「3000万署名が十分広がっていない」とか「議員の候補者がいない」とか嘆くよりも、全国で広がっている草の根の運動や、「それでも地球は廻る」かのような世界の動きに自信を持ちたい。

2018年4月21日土曜日

高槻土産

 友人が豊中市でペットボトルのお茶を買ったら高槻市のキャラクター『はにたん』の缶バッジが付いていたと見せてくれた。
 『はにたん』はきっと今城塚古墳出土の埴輪に由来しているのだろう。
 高槻市はけっこう商売が上手いかもしれない。

一番手前が水平箸置き
   先日、今城塚古墳に行った折り、土産に『水平箸置き』を買った。
 この種の土産は普通妻に「又いらんものを買うてきて・・」とけちょんけちょんに酷評されるものだが、今回は「これはいいなあ」と褒められた。

 説明書きには「戦国時代にこういうものがあった」(高槻城址出土?)と書いてあったが、私はそこまで勉強はできていない。
 たとえそれがハッタリだったとしても結果が合理的でかつ美しいので私は気に入っている。
 清水焼の水平箸置き、ふふふふと鼻の穴を膨らませている。

 お酒は獺祭の純米大吟醸、同窓生からいただいた。
 肴(あて)はハリイカを自分でさばいた。卵もあった。
 後ろにちょっとだけ写っているのはベビーホタテで、フライパンで熱を通して出汁を落とした。
 先日はマテガイを同じように調理?した。どちらも妻に好評を博した。

 小1の孫の夏ちゃんには先日から「お祖父ちゃんといろんな料理を作ってみよう」と呼び掛けているが、なかなか興味を示してくれない。
 先日は、オムライスにケチャップで顔を描いただけだが、まず第一歩だと評価している。

    森覆う藤を支える樹々やよし
    日頃全く目立たなかった雑木林に藤の花が満開で付近一帯が見違えた。藤を支える高木たちは年中褒められもしないが、彼らが無くてこの景色はない。

2018年4月20日金曜日

アナログレコード

   4月17日のブログに「ゴミ同様になっている童謡のCDはありませんか」と書かせてもらったところ、20年近く前に転居した転居前のご近所だったAさんから「レコードでもよかったら」と言ってアナログレコードを何枚もわざわざ持参していただいた。
 人は皆「影ながら応援しているよ」という善意に支えられて生きているのだとつくづく再認識した。ありがとうございました。ほんとうに喜んでいます。

 早速、長いあいだ埃を被っていたレコードプレーヤーで掛けてみた。
 何回も捨てられるところだったプレーヤーとスピーカー。
 スピーカーは28㎝×52㎝の木製スピーカーふたつだから結構場所をとっている。大物ゴミの日の度に妻に「もういらんのと違うん」と目の敵にされていたものだ。残しておいてよかった。

 さて、レコードとCDの音質の違いについては新聞その他で数多く述べられているとおり、CDは人間が聞こえない音はカットされている。そこをカバーしているレコードはその「雑音」部分が迫力や魅力になっている。
 CDつまりデジタルの音のその詰まらなさは太鼓の音でよくわかる。あの迫力はデジタルでは絶対に伝わってこない。

 孫の凜ちゃんが来たときにはレコードでこの迫力を味わわせてやろう。
 孫は朝ドラの「半分青い」の主人公と同じである。強い刺激にはとまどうかも知れない。
 生まれたてのころは反応が悪く、ああ両耳かと落胆したこともあったが、今は「半分」でも十分感謝している。

 プレーヤーには45回転と33回転の選択がある。懐かしい。
 「これはLPやから33や!」、孫よりも祖父ちゃん祖母ちゃんの方が喜んで掛けている。

 ▢ 音楽つながりで追伸 ▢
 友人のひげ親父さんがブログで高畑勲監督の事を書いていて、監督は作曲もしたほどに音楽にも造詣が深かったと教えてくれた。
 アメリカ映画ROSE(ローズ)の主題歌も訳詞され、それが平原綾香の歌う「愛は花、君はその種子」だと・・、全く知らなかったがせっかくなので以下にアップする。
 なお、ひげ親父さんのブログは、http://usukuchimonndou.blogspot.jp/2018/04/blog-post_14.html



    菜の花に背中押されて胡瓜植え
    満開の菜の花は夏野菜の植え時だぞとせかしている。胡瓜3苗とミニトマト2苗を植え付けた。肥料代を考えるとその都度スーパーで買う方が余程安い。しかしスーパーでは「収穫の感動」は売っていない。

2018年4月19日木曜日

新緑

   中学校の同窓生から『獺祭』の上等なお酒が届いた。
 先日の同窓会が楽しかったから感謝の気持ちだと書かれていた。 
 私はそんなに犠牲的精神で準備をしたのではないから、恐縮この上ない。

 思うに、自身闘病中であったり、看護や介護中であったり、直近に家族を見送ったりなど、みんな辛い日常や過去を背負っているからこそ、思いっきり弾けられたのではないだろうか。悩みが何にもない人間がはしゃいだのではタダのノーテンキだ。

 啄木に、友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ というのがあった。同窓会というのはどうしても周りが幸せそうに見えるものだ。
 いや、辛い愚痴を吐露し合う同窓会があってもいい。前回は幾分そういう感じだった。
 しかし今回は、それは判った!ということで束の間弾けてもらった。
 誰もがそれを暗黙の了解事項で楽しんでくれたのだと思う。

 それにしても、次の同窓会が重圧だ。もう私の企画力は枯渇している。まいったまいった。
 という風に苦しみながら次も準備をすることになることだろう。これはある種のマゾかもしれない。

 (2)わが家の庭を覗き込んで「きれいですね」と言ってくださる人がいる。
 確かに百花繚乱の趣がある。
 しかし、私はただの青葉・若葉が気に入っている。
 花というのはいわば「子育て」の営みだが、青葉・若葉は文字どおり青春の美しさだ。
 その新緑の方に力を感じる。
 中学校の同窓会を終えて特にそんな気がしている。
 合い言葉は、カラ元気とヤセ我慢だ。
 

2018年4月18日水曜日

畑作は土から

 16日の朝日新聞朝刊『政治断簡』高橋純子編集委員の文章にはう~んと唸った。
 見出しは『畑作は土から 寝言は寝てから』だった。
 近頃の言葉でいえば『男前』だろうか。頼りない男が目に余る昨今、『男前』はしばしば女性に冠せられることが多くなった。こういう言葉の変化というのも実に面白い。

   書き出しはこうである。
 「国会で議論すべきことは他にもたくさんある。〇〇問題一色になるのは残念だ。私は必ずしも安倍政権支持ではないが、野党は対案を出さずに批判ばかり。もっと政策を議論すべきだ」
 以上、男もすなる「憂国しぐさ」といふものを、女もしてみんとてするなり。
 ①議論すべきことは他にもあるという〈嘆息〉 ②私は「中立」だという〈弁解〉 ③野党は対案を出せ、政策論議をせよという〈すり替え〉
 ――が基本セット。なにげに手軽に高みから知ったげに何か言ったげになれるがゆえに流行中だが・・・

 そして、
 畑の土が汚染されていることがわかった。もうこの畑で作物をつくるのは無理ではないかという議論をしているときに、いつまで土の話をしているのか、ニンジンをうえるかジャガイモをうえるか議論すべきだ、冷夏への備えも必要なのに、対案を出さず批判ばかりして……などと言い出す者は正気を疑われる。

 ・・・信頼などどうでもいい、成果さえ上がればいいという立場もあり得るだろうが、それはもう政治ではなくビジネス、それもかなりブラックなビジネスの感性と言わざるを得ない・・・

 最終章では、社会学者大澤真幸さんの言葉を引用して、
 「現実主義だリアリズムだと言って、可能なことだけを追求するというのは単に、船が沈むのを座して待つということにしかなりません」
 ・・・いろんな意味でこの国は老いているとしみじみ思う。どうすれば若返れるか……あっ。「やらされモードではなく、死ぬほど実現したいという意識を持つことが最低条件」かもしれない。自分の記憶の限りでは。(と、結んでいる)(以上は抜粋)

 本文にもあるが、見出し後段の「寝言は寝てから」もいい。
 私が意気に感じて「ヨオッ男前!」と天井桟敷から掛け声を挙げたくなった気分も理解していただけると思う。
 女だから男だからとすぐに言うのは正しくないが、東京新聞の望月衣塑子記者といい女性ジャーナリストの奮闘が目立つのは頼もしい。

 朝日新聞の『折々のことば』に「やらないうちからできないというな」というのがあったが、高橋純子氏の締めの言葉は一人ひとりの市民への訴えになっている。うがった見方をすれば男性記者諸君が氏の頭の片隅にあったかもしれない。
 そして思うのだがこの言葉、民主勢力と言われる中の人々も噛み締める必要がないだろうか。

    ホバリング鵯は椿に季を惜しむ
    ヒヨは盛んに椿の蜜を吸っている。急げ、今年の春は足早に去って行くぞ。

2018年4月17日火曜日

ヒップシート

   「世の中は日進月歩」などと驚くのは年寄りの証拠だが、写真の私が腰に着けているのはヒップシートという。
 直訳なら「赤ちゃんのお尻を乗せる腰掛け」といったところだろうか。
 「肩ベルトの無い抱っこ紐」と書かれていたりする。
 大容量のポシェットの機能もあるから主にお母さん方には便利だろうと思う。
 私は療育施設の送迎バスの利用時に使用している。

   話は代わるが、ベビー用品つながりで言うと、奈良公園に行くと2枚目の写真のようなコンパクトなベビーカーを使用している外国人旅行者が目につく。
 旅行ではきっと重宝がられるのではないだろうかと感心した。
 使用しないときも持ち運びに軽そうだ。
 そのうちに買うことにしようと心に決めた。

   こういうところに目がいくのも、孫の凜ちゃんのゆっくりした成長があるからだが、その凜ちゃんは歌が好きなので先日「いないいないばあ」の最新のCDを買ったが、2200円+税だった。またレコード店を覗くと普通の童謡のCDも2~3000円はする。
 童謡以外のCDや幼児向けDVDのセール品が200円ぐらいでざらにあるのに童謡のCDはなぜか高い。
 どなたか、ケースの中でゴミ同様になっている童謡のCDはないでしょうか。

    もう春か?桜見ながら母が聴く
 空調の効いた建物の中で過ごしている義母は季節さえ判らない。「(もしかして)もう春か?」と聴いてくる。ほら、窓の外は奈良の八重桜が満開ですよ。

2018年4月16日月曜日

しっかりせよ団塊

 老人ホーム家族会の定期総会を終えた。
 出席したメンバーはもちろん「介護する」家族だが、政府の介護制度の見通しを聞くと、Ⅰ 地域包括ケアシステム Ⅱ 自立支援 Ⅲ 多様な人材確保 Ⅳ 介護サービスの適正化・・・などなど、テーマの中心は団塊の世代が75歳以上となる2025年問題なので、頭の中は自分自身の介護のされ方、もっと言えば甘い言葉でどう介護から排除されるのかに関心がいった。
 
 私は団塊の世代の前の世代の最後、団塊の世代の兆しの最初にいる。
 少し後ろが本格的な団塊の世代で、息子は団塊ジュニアである。
 思い起こせば、プレハブ教室、講堂内の間仕切り教室、60人学級等々で、就職してからもことあるごとに団塊対策で賃金や昇進の制度改悪と直面してきた。
 そのため、いろいろ批判もあるが学園紛争のような新しい運動もいろんな局面であった団塊の世代だ。
 そして、最後にガ~ンとやられるのがこの介護問題だ。

 と言ったことに当の団塊の世代はどれだけ気付いているだろうか。
 「前の世代は好かった」的な分断策に乗せられずに、もう一度1970年代的な政治運動を考えないか。
 「ネットなんか苦手や」みたいなことをホザイテイル場合ではありませんぞ。はい。

 夜には役員らで懇親会を行った。次々に歌も飛び出し時の経つのも忘れるほどの元気の良さだった。
 そのパワーは他の世代の追随を許さないほどだった。
 そのときには老人ホーム入居者自治会を作って頑張ろうと約束した。
 しかし、自治会活動ができる間は入居できないジレンマがある。

2018年4月15日日曜日

 トランプがメキシコ国境に壁を建てるというのを肯定するものではないが、かつてのベルリンの壁という発想は多くの日本人には珍奇に映るが世界的には珍しくないようだ。
 NHKBSプレミアムの「世界街歩き」では街中が城壁に囲まれている古い都市が珍しくない。
北アイルランドの壁
   中国の城や街というのも歴史的にはそういうのが多い。
 現在進行形ではイスラエルがパレスチナ地域に壁を建てている。
 またNHKの「関口宏の鉄道旅・イングランド」では北アイルランドにはプロテスタントとカトリックの住区ははっきり分かれていて、住区の間に高い壁があり、夜間には門が施錠されていた。
 イスラエルも北アイルランドも、信仰する宗教の違いが大いに関わっているというから、平均的日本人にはその感情が理解し難い。
 
 英領北アイルランドについては、イギリスがEUを離脱することで、EU加盟のアイルランド共和国との国境を越えた移動の制限が生じる。
 そうすれば北アイルランドの和平合意20年が崩壊する可能性もある。今現在も自治政府は機能不全状態だ。
 あまり悲観的になる必要はないが、世界中では戦争や紛争が後を絶たない。
 
 よく考えると、ここ70年間に戦争そのものをしてこなかった国は日本ぐらいではないだろうか。
 この国にいろんな弱点はあるが、戦争も壁も必要としてこなかった淵源が現憲法にあるのは間違いない。
 この憲法の上に民主国家を発展させれば、真の意味で日本は世界のリーダーになれる気がする。
 特に一神教の宗教国家でないことがプラス面だが、そういう意味でも戦前の国家神道の復活は好くない。

2018年4月14日土曜日

愛燦燦

 新聞を読んで、映画「マルサの女」が頭をよぎった。
 山崎努扮する権藤が「正直に税金を払えば会社がつぶれる」というのに宮本信子の査察官板倉亮子は「査察が入ってつぶれた会社はないよ」と言った。
 労働基準行政や労働保険料の行政の現場では、これに似たやりとりが数えきれないほどあった。
 
   さて、その新聞だが、13日朝日朝刊のトップ記事は日本郵政グループの「同一労働同一賃金」策だった。
 社員の約半数が非正規雇用で、その差別の解消を求める要求や行政指導に対して、それならと正社員側の住居手当を廃止し、「はい同一になったでしょう」というのだ。
 これは権藤でさえ真っ青になるぐらいの「脱法行為」である。立法主旨に基づけば非正規雇用の労働条件の改善こそが日本経済の喫緊の課題であることは明らかだ。

 早速ABCテレビの「おはよう朝日です」で、司会の岩本計介らが「ヨーロッパでは産業別労使協定で同一賃金は相当確保されている」「日本でいえば吉本でも松竹芸能でもほかのプロダクションでも同じに・・」と振った後、「それはええなあ」と答えた芸人の亜生(アキ)に対して、「これ(日本郵政の策)はどこのプロダクションの芸人も(低賃金で有名な)吉本に合わせようということや」と話し、亜生「ええ~っ」と大笑いになった。
 安倍政権与党だけでなく、経済界のモラルも相当タガがはずれている。

 そういえば、倒れた市長を救命処置するために土俵に登った女性に「土俵から降りてください」とアナウンスした相撲協会は、その後開き直って、従来から行われていた「ちびっ子相撲」の女子の参加を静岡市の春巡業から断わった。
 「女子のけがが目立つと保護者から意見があった」という頓珍漢な説明は、先の「若い行司だったので」という釈明や、文科省に前川氏の公開授業で圧力をかけた池田佳隆自民党文科部会長代理の「地元から懸念の意見があったので」という理由同様、責任はすべて他人にと責任逃れをする卑怯千万なものだ。
 相撲協会のその対応には、伝統と改革の議論以前の、人間としての誠実さが欠けていないか。
 冷静に議論しませんか。表彰式にあまたの部外者が土俵に上がるのに女性はお断りというのに道理はあるだろうか。勇気をもって議論しませんか。

 「魚は頭から腐る」という西洋のことわざがあるが、この国は頭を洗い直して消毒しなければどうしようもない。
 〽 人は哀しい 哀しいものですね などと口ずさみたくなる春の宵である。
 14日は、〽 ちぬの浦風~という校歌の同窓会。
 楽しい同窓会にしたいと思うが、いつものように大すべりするかもしれない。
 結果はしょうがないが努力するのみと、前夜チヌ(黒鯛)の塩焼きを食べて自分自身にカツを入れた。

2018年4月13日金曜日

天網は漏らさず

東大寺大仏殿
   秘密保護法のとき、
 警察「秘密保護法違反でお前を逮捕する」
 私 「私がどんな秘密を漏らしたというのだ」
 警察「それは秘密だ」
とブログに書いたが、今般の自衛隊イラク日報隠蔽と自民党改憲案の緊急事態条項を重ね合わせると、
 首相「緊急事態なので国会や自由や人権は停止する」
 国民「どこにどんな緊急事態があるのか」
 首相「それは明かせない」
となることがはっきりした。
 もちろん、「ほんとうのことが書かれた文書はここにある」という内部告発者は秘密保護法違反で逮捕され、籠池夫婦の二の舞となる。

 自民党は「9条に自衛隊を明記しても現状と変わらない」と言う。
 だが憲法学者の指摘するところ、憲法に自衛隊が明記されたならば、自衛隊の公共性が認知され「公共の福祉」のためということで「徴兵制」が法理論上可能になるという。

 ここ数十年の政治を振り返ると、日本会議に代表される安倍右翼政権の戦術は明らかだ。「小さく生んで大きく育てる」だ。
 規制改革、特区、内閣府での官僚人事、メディア干渉等々だ。
 囲碁や将棋ではないが、庶民には「大局観」が求められている。

 天網恢恢疎にして漏らさずという言葉がある。
 安倍政権の大嘘は誰の目にも明らかだ。
 キーポイントは、批判し続けることにうんざりして飽きてしまうことだ。

2018年4月12日木曜日

歴史とりどり

   OB会の遠足で今城塚古墳に行ってきた。
 圧巻は堤上の「埴輪祭祀場」で、約190点の埴輪が約1500年前にそのようにここにあったように再現されていた。

 問題は・・・、大王の葬儀であるから武人や武具(盾)や馬は解る、僻邪のための巫女も相撲取りも解る、だが、それにしても白鳥のような水鳥のこの多さは何だ。
 これは渡り鳥である水鳥は、この世(地)に見えない間は黄泉の国に行っているのだ、渡り鳥は黄泉の国の使者だ・・と信じられていたからとしか思えなかった。
 継体大王は、このとおり水鳥に守られて無事?黄泉の国に行ったと伝えているのだろう。
 しかししかし、そうであれば、そこかしこの鶏(の埴輪)はこれまた何?(かしわ=豊かな食料?)
 ああ、遠足で全てが理解できるほど古代史は簡単ではない。


 今城塚古墳は、真の天皇陵としては日本で唯一古墳に登れる御陵で私たちは後円部に登ったが、天皇陵にふさわしく野鳥が見事に囀って御陵を荘厳していた。
 中でも一段ときれいな声だったのがイカルで、とても素晴らしかった。
 だから私は「イカルは尋ねられて自分の名前と歳を答えているのだ」「お菊二十四」と・・・と解説したが、ほゞ誰にも信用してもらえなかった。
 平均的現代人には、はっきりと「お菊二十四」とか「お菊十七」ってイカルたちが答えているのが聞こえないようだ。 
 生まれたての赤ん坊は鳥や獣の言葉が聞き分けられていたが、俗世で成長するに従ってみんな言葉を聴けなくなるのではないだろうか?この考え如何?

 
 遠足が終わって昼食しながら「秋の遠足は?」という話になり、私が「伏見稲荷で雀を食べようツアー」はどうかと話すと、圧倒的には「雀なんてほんとうに食べられるの?」との反発を受けて、その案は即座に却下された。
 
 しかし念のため言えば、伏見稲荷で雀を食べるのはゲテモノ食いの世界の話ではない。
 今でこそ商売の神様のように喧伝されているが、稲荷の字のごとくそこは元々は稲作の神である。
 だから古来、参拝者が、秋の害鳥たる雀を食べて心の底から豊作を祈ったのは当然といえば当然で、それこそ正しい伏見稲荷詣りのマナーであり伝統であった。

 天皇の承継の行事にしても、大相撲の土俵にしても、はては憲法改正問題でも、日本の歴史の上ではあだ花だった明治から昭和前半を指して「伝統だ」などと世迷言をいう人士が多いが、ほんとうにこの国の伝統や文化を大事にして現代の民主主義につなげようとする人々は、もっと深い歴史を味わいつつ、例えば伏見稲荷で雀を食べてほしいと私は念願するのだが、それはやっぱり私の変わった趣味の発想なのでしょうか。

    春深しお菊二十四と鵤(いかる)啼く

2018年4月11日水曜日

人間という奴は

 愛媛県出身の先輩の言うには、加計学園認可の不当性は頭の中では十分わかるが、四国の過疎化の「やりきれなさ」を見続けてきた気分でいえば、新しい大学(学部)が地元にできることを応援したい気分になってくると。
 これは非常に正直な気分だと思う。
 「メッセージの伝え方」というテーマでいえば、自覚的民主勢力といわれる人々は、そういう気分を頭から否定せずに対案を共に語る必要があるように思う。

   奈良県でいえば、京奈和自動車道(高速道路)の大和北部分が平城京域を地下トンネルで縦断する事業化が進められようとしている。
 先の平城宮祉の舗装化と相まって「地下の正倉院」と呼ばれるほどの木簡が地下水の低下によって「歴史的破壊」に遭うことになる。
 しかし、奈良県の道路事情の悪さを改善してほしいという「一般大衆(多分に皮肉を含む言葉)」の希望も大きいから、「今後の少子化・人口減少社会で道路も空くだろう」では対案にならないのではないか。
 大阪市法円坂・難波宮祉北側のように盛土方式等で対応できないものだろうか。

 安倍内閣のモラルハザード(一般的な言葉)につられるように、ことほど左様に地方自治からも良識とか文化というものが劣化しつつある。

 小笠原好彦先生の古代史の講義の脱線部分にこういうのがあった。
 小笠原先生は奈良文化財研究所を卒業後40年近く滋賀大学で研究され、聖武天皇の紫香楽宮跡の発掘調査を担当され、途中からは調査委員長として分析・研究されてきた。
 そして、甲賀宮跡を発見され、甲賀宮と紫香楽宮の関係などを解明途中だという。
 ところが、平成の大合併で信楽町は甲賀市になり、元信楽町長と元水口町長が熾烈な市長選挙を闘って元水口町長が当選し、その途端「紫香楽宮・甲賀宮」の発掘調査は事実上ストップし、水口城の整備事業に重点は移ってしまったと。ああ。

 昔、上岡龍太郎が「民度以上の政治はできない」というようなことを言った記憶があるが、民度=市民の良識や文化水準や知性を底上げする大切さをつくづくと思う。
 近畿財務局職員の自殺に関わって私は現職職員に対して「各自がしっかりしろ」とはこれまで言ってこなかった。ただ、「仲間を大事にしろ」「労働組合は防波堤になれ」と繰り返してきた。

 反対に、OBに対しては「声を上げよ」「語れ」としつこいように言ってきた。そうなれば京都府知事選挙の44%は各地のものになり、さらに44%は50%越えを展望できるのではないかと思う。
 人間という奴は、世論という奴は、弱いものだと私は悲観的でなくそう思う。
 そんなことごとをホンネで語らないか。

 受講終え控し妻と合流す脳梗塞の友の恥かみ
 リハビリのために歴史講座を受講した友(先輩)を奥様は家からずっと付き添われていた。奈良公園を少し散歩してから家路につくらしい。

2018年4月10日火曜日

芸術風土記

   岡本太郎著『日本再発見~芸術風土記』角川ソフィア文庫を読んだ。
 初出は1957年であるから岡本太郎がカメラを片手に巡った日本は戦争直後でもないし経済成長に狂奔もしていない微妙な時代である。
 小学生の私が見ていた世間~世界である。

 あれから時代は超がつくほど大きく何度も変化した。
 街並みも人間も・・・
 ところが岡本太郎が各地で感じた、そして未来を予想した「文化」の問題は見事に的を射ていた。ただただ脱帽するしかない。

 「大阪」の章が後ろの方にあった。
 きっと東京の人が読めば面白いのかもしれないが、私の印象ではこの本の中で一番面白くなかった。
 岡本太郎がけなしているというものでもない。ただこの街の混沌にさすがの太郎も分析しきれなかったのではないだろうか。

 東京人の官僚的事大主義に対して、例え誰がなんと言おうと自分でいいと思う道を突き進む大阪人を探したが、そんな大阪人は1957年時点でもういなくなっていたと嘆いているように読めた。

 文化芸術でいえば、その後の大阪の大失敗は阪大、外大、関大等の大学を市内から放り出したことにあるような気がする。
 そうしておいて、ワッハ上方、大フィル、文楽、果ては大阪府大と市大の統合のように、文化や芸術に対してまるで憎しみを抱いているかのような政治を産み出した。
 この本全体には感動すら覚えたが、大阪の章で私の気分は少々落ち込んだ。

    虐待を何故見逃したと報道す役人減らせと叫びし口で
              障害のある子を檻に入れていたというニュースを聞いて

2018年4月9日月曜日

土俵

 多くの人々は大相撲を神事というよりも、周辺に神事の性格を残しつつも基本的にはスポーツとして観戦していると思う。それが常識だろう。
 主たる性格が神事であるなら日本相撲協会が公益財団法人であること自体が不当になることは当然だ。

 さて私の卒業した堺市立大浜中学校にはその昔れっきとした土俵があり相撲部があった。
 中学校で立派な土俵があった理由は知らないが、今にして思えばちょっとした特徴だった。体育の時間にそこで相撲の授業もあった。懐かしい。

 ところで読者の皆さんは、高校野球のメッカが甲子園なら『アマチュア相撲のメッカ』と聞くと何処だと思われるだろうか。
 これが堺市の大浜公園相撲場で、もちろん土俵がある立派な建物だ。大浜中学校の校区であるのはいうまでもない。
 ここではいろんなアマチュア相撲大会が開かれ、全国大会はもちろん世界大会も開かれている。
 アマチュア相撲の国際連盟は「SUMOUをオリンピック競技種目に」という運動もしている。
 大阪府下にこんな殿堂のあることを知らない大阪人もいるのが少々残念。

   で、ここまで言えばお気づきのとおり、「全日本女子相撲大会」も「世界女子相撲選手権大会」もしっかりある。
 堺市議の山口典子氏は日本女子相撲連盟の顧問も務めておられる。

 土俵は神聖とか女は穢れているなどという寝言をいう人はこういう素晴らしい現実に対して無知でしかない。

 ちちんぷいぷい等の番組でも京都両洋高校女子相撲部の奮闘が取り上げられていたのを知っている人は多いだろう。
 7日のテレビでは奈良興福寺ゆかりの宝蔵院流槍術でも女子の初級が生まれたことを報じていた。

 時代は大きく進歩している。
 誰であっても過去を引きずりながら今を生きているのであるから古い抜け殻をお尻にくっつけているものだが、そこに安住して考えることもしないで「伝統だから」などと知ったかぶりはしない方がいい。

 そんなことを言っている人間で(私よりも)年中行事を大事に行っている人は少ないのでないか。
 それに「それなら宝塚に男も入れろ」的な反論が成り立っていると思う思考水準がお粗末だ。
 歴史を学ぶ意義は今をよりよく生きるためである。
 「伝統」という言葉に甘えて内省と自己改革をサボってはいけない。

 紛れもない事実は、穢れない?男も全て母なる女から生まれたのである。ただ一人として例外はない。人間の属性をもって穢れなどと言うのはほんとうに止めにしなければならない。
 穢れの観念を肯定すれば身分差別も肯定しなければならなくならないか。
 
 日本相撲協会はいい加減にしないか。周辺に神事の伝統を大事にするのはいいが、穢れ理由の土俵上の女人禁制は絶対にないと私は思う。

2018年4月8日日曜日

ハナノキ

   紅葉(こうよう)のきれいな樹には、大きく分けていわゆるカエデと楓(フウ)の2種類がある。
 私の見分け方でいうと、実が竹トンボ(プロペラ)になるのがカエデ、実がトゲトゲのクリスマスツリーのガラスボールになるのが楓(フウ)だと思っている。ただし根拠はない。

 私はハナノキ(花の木)はてっきり楓(フウ)の仲間だと思っていたが今般それがカエデだと知って驚いている。これも特に根拠はない。
 ハナノキというのは北米に2種類、日本に1種類だけらしく、日本では環境省のレッドリストⅡ類と書かれている。

 私は以前にアメリカハナノキ(レッドメープル?)を植えていたがテッポウムシにやられてしまった。
 きれいな紅葉が忘れられず2代目を植えたが、アメリカものか日本ものかは解らない。そういう素朴な植木屋で購入した。
 名前のとおり春にきれいな花が咲く。だからハナモミジというともある。いうほど大層な花でもない。
 そこまでは先代同様だが、それに今般実がついた。それが写真のとおり変形ではあるが竹トンボなので「驚いた」と書いたわけである。

 そして調べてみると「ハナノキは雌雄異株」というから、近所に私の知らないハナノキが植わっているのだろうか。謎である。
 何しろ今年、初めてハナノキの竹トンボを見つけたのが嬉しい。

    カエデの実この国には汝がよく似合う
    無粋なオスプレイはいらない

2018年4月7日土曜日

『街の鳥』に認定

  「となりの人間国宝さんに認定します」というテレビのコーナーがあるが、「磯鵯(イソヒヨドリ)をこの街の鳥に認定します」ということについて、わが家では満場一致で認定することに決定した。満場一致と言っても定数は私と妻の2名である。

   認定に至る選考理由は、3月中旬から毎日のように街中に美しい囀りを高らかに響かせているからで、極めてオーソドックスな理由である。

 昨日などは私が庭で草を抜いていると頭のすぐ上の電線で囀ってくれた。

 さて、囀りは基本的に求愛である。
 写真1(上)は♂の求愛、写真2(下)は♀による「♂の品定め」、撮影している私はペッパー警部並みの無粋な邪魔者というかパパラッチになる。

   しかし近隣住民にはパパラッチでもよいから鳴声の主を見上げてほしいが、ほとんどの住民はこんな美しい声にも無反応のまゝその下を足早に通り過ぎている。

 そこからの連想だが、「忙しいという字は心が亡ぶと書く」とはよく言ったもので、庶民は余裕がないほどに抑圧しておけば(心が)疲れて政権批判もできないと安倍ら為政者は思っている。

 だから「美しい鳥の声に耳を傾けよう」という呼びかけは「政治を監視しよう」に繋がるのでないかと私は強引にこじつけている。

   写真3(右)は隣家に来たもので12月に撮った。綺麗なので再掲。

 囀りといえば少し離れた田圃の上にはヒバリも舞い上がっている。
 恋の季節である。

2018年4月6日金曜日

岡本太郎

   先日来、太陽の塔の48年ぶり内部公開のニュースがテレビで報じられている。
 私は近頃、縄文文化を読んだり考えたりしているが、そのニュースを見ながら「たしか表紙が火炎土器の岡本太郎の文庫本が本屋にあったな」と思い出した。文庫本ではあるが1000円以上していたので買わずにいた。
 そこで今般アマゾンで検索し、ピッタリのものではないが「神秘日本」と「日本再発見」という2冊の本を買い求めた。

 岡本太郎のことは以前からテレビで紹介されてきたし、そこそこ解っていたつもりだったが、といっても「シュールな芸術家」という程度の理解で終わっていた。
 今回2冊の本をパラパラと読んだだけだが『人を見かけで判断してはならない』ということを大いに反省させられた。
 この人は目玉をひん剥いて「芸術は爆発だ~!」などと言っているだけの≪おかしな≫人ではない。
 それどころか、本人は民俗学者と言われると怒るかもしれないが、非常に実証主義的に思考を積み重ね、その上に文化や芸術を考える文化人であり哲学者のように私は感じた。

 『神秘日本』の各章の初出は1962年~1964年というから、今から考えると貴重な記録ばかりだが、それでも岡本太郎は「昨今(昭和30年代)の近代的経済主義的功利主義」を怒り、落胆している。
 
 火炎土器など縄文土器についての感想はこのブログでも少しだけ書いたことがある。
 「縄文文化」の本を読むとその装飾は出産、誕生を表わしているとの説もあるが、後の弥生式土器に比べて「どうしても装飾せずにはおられない」作者たちの情熱を私は感じる。
 裏返せば恐怖なのだろうか、喜びなのだろうか、信仰なのだろうか。
 「日本再発見」以前に岡本太郎を発見して少し満ち足りた気持ちになっている。

 その理由の一つは密教についてである。
 私は密教について考えては見たが判らないことばかりだ。ほんとうに仏教なのか、まじないなのか…
 ただ岡本太郎が密教美術、特に曼荼羅について感じたことを読むうちに、それは宗教の究極の表現方法なのかとボンヤリと理解することができた。
 なので少しだけ楽しい。

 閑話休題
 私にとっては育ての親のようだった大先輩の訃報があった。
 元国公労連委員長内山昻さんである。
 マルクス、不破哲三と並んで個性的な字であったが、内容は常に新鮮で的確だった。

    専属の植字工ありと伝説の癖字溢れる大先輩逝く

2018年4月4日水曜日

お見舞い

 同窓会の準備をしている。恩師との折衝役から「先生は療養中で出席できない」と連絡があり、「ついては色紙かなんかでお見舞いしようか」と提案があったが、私は乗り気になれなかった。
 というのも病状が判らないからで、大した病気でないのに大層なお見舞いをうけたら「もしかしたら自分の病状は深刻なのではないか」と思われたりしないかと考えてみたり、ほんとうに重い場合は「やっぱり・・・」と思われないかと悩んでいる。
 若い頃の病気見舞いは文字どおり「病に打ち勝ってね」で済むが、歳がいくと話は単純ではない。この辺の判断は私は苦手である。

   新聞に金子兜太氏の「終の句」が紹介されていたが、私は2句目に引っかかった。
 雪晴れのあそこかしこの友黙まる
というものだ。
 昼は自宅で療養し夜は念のため施設に入所していたというから、あそこかしこの友人たちが気を使って見舞いを遠慮したということだろうか。
 それならば「黙まる」の文字はないだろう。
 素直に読めば、「アベ政治を許さない!」と墨書した兜太氏であるから、昨今の状況に「もっと声が聞こえてくるぐらいに頑張れ」ということだろうか。
 私は勝手に後者だと思うことにした。

 森友事件も単に安倍晋三氏の度の過ぎた身びいきではなく、戦後レジュームから脱却し戦前の秩序の復活を目指す改憲派の「安倍晋三記念小學院」を無理矢理作ろうとしたところに出発点がある。
 日本会議等の改憲派は初詣の神社で署名を展開したり、教科書や道徳や教育内容に横車を押すなど、ある意味で着々と草の根の活動を積み上げ、資金を提供してネット上の右翼=ネトウヨを育成し、マスコミ幹部や芸能人を酒席に呼んでいる。

 そういう時代にあそこかしこの人々は「もう歳だからネットは苦手だ」と戦場に出てこない。
 もっと声を上げよ!という気持ちが「黙まる」に結実していないか。

 近畿財務局職員の自死の報を受け注意して見てきたが、公務員労働組合運動のOBたちの声の低さには私自身予想外だった。
 どこかしこでは憤懣やるかたないと語っているのだろうが、それでは足りないと私は思う。それは「黙っている」のとあまり変わらない。
 雪晴れのあそこかしこの友黙まる
 兜太氏は何を言いたかったのだろう。

2018年4月3日火曜日

新年度はじまる

 実につまらん些末な日常のことであるが・・・、
 今年の4月1日は日曜日であったから、少なくない職場では2日が年度替わりの初出勤(人事異動の辞令交付日)となったことだろう。
 官民を問わずサラリーマンは、懸案事項はできるだけ片付けてから出ていくのが当然に常識だが、中には人事異動をよいことにして本来なら片付けられたはずの「未処理」を引継ぎにする者もいるから、未経験のポストに異動した場合の少なくとも1か月間は憂鬱なものだった。五月病とはよく言ったものだったが今になってみれば懐かしい思い出だ。

 さて、ニッサンにゴーン社長が来た頃から日本の社会と会社が変わったと言われている。
 それまでの家族主義は陳腐だと退けられ、首切りや賃下げが「リストラ」などという言葉に置き換えられ、まるでそれが流行で正しいことのように喧伝されるようになった。
 政府周辺でいえば竹中平蔵に代表される「新自由主義」「市場原理主義」が闊歩し始めた。
 だから昨今の勤労者の職場は全体として辛いものになっており、昨日(つまり2日)、新しい職務を命じられた人の不安は私の思い出に倍する以上のことだろう。それでも頑張ってほしいと願うばかりだ。でも不条理を抱え込んでは駄目ですよ。

 前段に指摘した「新自由主義」の、その正当な落とし子が安倍政権であり維新の面々である。
 結局庶民の購買力を低下させたまま日銀による官製株式相場で糊塗しようとするものだから、何かの一つ覚えのようにアベノミクスと唱えようとも世界的に見ても異様な経済の低迷を生んでいる。
 そして、国つまりは国民の財産を「お友達」で奪い合うという政治だった。その現代版がモリカケだ。

   ところが、政治状況のあまりにひどい閉塞感と不正の数々に庶民はうんざりし、無気力感さえ生まれているが、それこそが為政者の狙いだろうと私は思う。
 「いつまで森友だ」という練られた誘導に乗ってはならない。それは罠だ。
 政治を正しくする秘訣は「諦めないこと」だと実感している。新年度を画期的な年度にしたいものだ。

 孫が「療育施設」という、まあ保育園のようなところに通うようになった。
 何ということはないが「1ランク昇格」と夫婦で言い合っている。
 2日は綺麗な満月だった。そういう未来であってと月に願いつつ・・・。

    療育の入園式の朝風に祖父は鯉のぼりをただ揚げるのみ

    鯉よ泳げ孫療育の入園式

2018年4月2日月曜日

万愚節

3月27日の三分咲きのときのもの
   正直に言うと私はトランプと金正恩の米朝関係が一挙に平和条約まで進むとは思っていない。
 外交ごとだから今後二山も三山もいやそれ以上に問題は出て来るだろう。
 それでも、南北会談、中朝会談などで大きな一歩を踏み出したことは間違いないし、対話を重ねることが次のステップを用意することは間違いないと思う。

 そして、韓国、アメリカ、中国の対応を見るにつけ、一人蚊帳の外の安部外交の無策、失敗が日本国民として情けない。

 各国が外交努力を重ねているときに、この国の政府は「対話のための対話はしない」などと粋がって、頭を覆ってミサイル避難訓練なるものを国民に強いていた。

 その情けない外交の主人公の一人河野太郎外相は31日高知市で講演し、北朝鮮が新たな核実験に向けた準備と受け取れる動きを見せていると明らかにした。
 「(過去に)核実験をした実験場で、トンネルから土を運び出し、次の核実験の用意を一生懸命やっているのも見える」と述べた。(毎日新聞)

 関係各国が水面下で外交協議を重ねてきたのに比べられてあまりに恥ずかしかったのかもしれないが、ほんとうにこの人の頭の中はどうなっているのだろう。
 米韓合同演習が「配慮」された規模であるというこのときに、いくら何でも北が核実験をするだろうか。
 読者の皆さん、貴方が金正恩ならそういう選択でどのような勝算を描きますか。
 あ、そうか、今日は万愚節だった。え、フェークニュースでない。

    春暑し手袋ふたつも落ちている
    囀りとくしゃみの響く花見かな

2018年4月1日日曜日

キャリアのことなど

   森友事件のおかげで行政官庁のキャリアとかノンキャリアという言葉がよく話題になるようになったので少し感想を書いてみたい。

 キャリアというのは国家公務員の上級職(Ⅰ種採用)試験を合格して採用された者を指すが、私の感覚でいえば、行政職(総合職)以外の研究職や専門職は上級職合格者であってもあまりキャリアの匂いがしない。個人的な感想だが、事務次官コースとは最初から外れている場合が多い。

 そのキャリア中のキャリアである上級職の行政職合格者の大半は東大法学部卒であり、これも、他の大学卒業者で事務次官レースに残る者は珍しい。ないことはないが。
 キャリアは基本的には本省で働くが、若いうちは研修的経験のために地方局の幹部ポストなどを渡り歩いたりする。

 本省の中でもキャリアというのは特権階級のようなもので、〇〇課でいえば課長一人ぐらいがキャリアで、圧倒的には上級職採用以外のノンキャリアが仕事をおこなっている。
 外から見た感想でしかないが、ノンキャリアはキャリアである上司が在任中に仕事上のミス(バッテン)(キズ)が付かないように細心の注意を払っている。
 本省内部のキャリアとノンキャリアはこのように人種差別があった時代の別階層の人種?のようにも感じる。戦前はトイレも別々であったが、それに近い感覚は今もある。

 ビジネスマン、サラリーマンなら研修で「ほうれん草」を叩きこまれたはずである。「報連相」は「報告、連絡、相談」で、組織として仕事をする上で徹底される言葉である。
 低いレベルながらも、私も職員研修の講師のときには常々強調した。
 
 本省のキャリアのポストの仕事と課題は国会議員からの問い合わせやマスコミからの問い合わせに如何に迅速・的確に答えられるかにあるように思われる。
 だからキャリアはノンキャリアである部下に常に的確な「報連相」を求める。
 そして直接「報連相」を求められるノンキャリアの課長補佐や専門官等は、どんなに複雑な事案であってもA4数枚にまとめて「報連相」を行うのが常であるが、そのA4数枚は公文書ではなく単にペーパーと呼ばれたりする。

 だからお判りのとおり、近畿財務局内で「安倍事案」と呼ばれていた「〇政事案」を、本省のキャリアが知らずに、地方局や本省のノンキャリアだけで実行したなどということは絶対に信じられない。
 官邸のノンキャリアである谷査恵子夫人付け秘書官が同じ経産省出身のキャリアであり、官邸では上司に当たる今井首相秘書官、そして昭恵夫人に「報連相」をせずに独断で行動したなどということも同じである。

 さて、官庁は文書主義が大原則である。政治家やマスコミと話した内容も直ぐに文書にして「報連相」をしておく。それは担当者の「身の安全」のためにも徹底されている。
 「探したがない」とか「廃棄した」というのはほとんど嘘である。

 なお話題の決裁文書だが、ルーティンワークのようなものなどは、例えトップの名前で発出された文書であっても部下に専決させているものが多い。
 大きな規模の組織で専決があるのは当然であって「虚偽」や「不正」には当たらないと理解している。
 それでも何かのときには最高責任者が責任を取るというのが、任命責任であり官庁の掟のようなものである。そういう意味で森友の「責任者」を私などは生理的に受け付けない。

 反対に、専決させていない重要な文書は普通には印鑑を用いず、花押つまり手書きサインで決裁される。
 その種の文書は「てにをは」まで徹底してチェックが入るから、そういう「〇決裁」と呼ばれる決裁文書の持つ意味は非常に重い。(電子決裁の状況は不知)

 感想の最後を言えば、「キャリア=(イコール)悪人」という単純な話を私は肯定しない。
 一般論を言えばキャリアは頭の回転は速いし、テーマの周辺にかかる知識も豊富である。
 だから、仕事を見ていて感心したキャリアの人もいる。
 反対に、受験勉強だけでここまで来たのかと人間性に疑問を持った人もいる。
 そういう意味では、ノンキャリアの中にもつまらぬ人間はいるし、民間にも同じような人はいる。学者や医者や司法界だって同じだろう。十把一絡げの断定は好くない。
 それに、ノンキャリアにも民間にも学歴や試験に関わらず仕事のできる人、人格の優れている人がいるのも至極当然である。

 少し寄り道だが、本省帰りのノンキャリアがよくキャリアの横暴を愚痴っていた。何らかのペーパーをもって報連相に及んだが出来が悪く、そのペーパーを紙飛行機にして霞ヶ関の高層ビルの窓から投げられたと一杯呑む度に愚痴っていた。ノンキャリアもノンキャリアだったかもしれないから公平な評価かどうか分からないが、それにしても・それはいくらなんでもの話だった。
 古い体育会系の話として1年生は奴隷、3年生は天皇みたいな話があるが、「それはいくらなんでも」が通っていたのかもしれない。これは寄り道。
 
 私は退職前にキャリアの上司に直接仕えたが、ことあるごとに現場の実情や苦労を話した。そして「貴方が幹部や事務次官になったときはここの現場の一線職員を思い浮かべてほしい」と繰り返し話をした。

 つまらぬことをグダグダと書いたが、「キャリア=(イコール)悪人」ではないということは繰り返しておきたい。もちろん、ノンキャリアを含む国家公務員全般にも言えることだ。「官から民へ」だとか「小さい政府」という論調も同様に承諾し難い。
 それだけに、超法規的圧力を加えた政治家や、彼らのお先棒を担ぐ財務省の一部キャリアが、全ての責任をノンキャリアの部下のせいにするのは断じて許せない。全経済産業省労働組合飯塚副委員長ではないが、腸の煮えくり返る思いは私も一緒である。

 以上の文章はキャリアというものを正確に解説したりしたものではなく、私の職業生活を振り返っての感想である。
 「ああ、ああ、そんなものか」と雰囲気を感じてもらえればそれでよい。
 そして、省庁によって大きなばらつきはあるが、ノンキャリアの多くの職員、そしてキャリアでも地方局の時代などは労働組合の組合員であることが多い。
 そして、国公労連や都道府県国公傘下のその労働組合では、行政民主化、司法民主化などの研究、提言、さらには個々の政策に対する国民目線に立った運動を地道に推進していることも理解してほしい。