2015年8月31日月曜日

雨傘無用

8.30国会前
  歴史というものは淡々と流れているようにも見えるが、振り返ってみると「ああ、あの時!」という瞬間があるもので、それが一昨日昨日だったと私は思う。だから、その舞台を共有できたことは幸せこの上ない。
 大阪の地下鉄扇町駅はホームに人があふれていて「これは違うぞ」と会場に向かう前から感じさせた。(JR天満駅は何倍も凄かったらしい)
 開会40分前には小雨が降っていて昨日のブログの『兵戈無用』のミニプラカードを傘に付けて会場に入ったが、開会の頃には幸い雨が上がり『雨傘無用』で個人的には嬉しいような悲しいような・・・・。
 なので、幟や服やいろんなところに付けてもらった。
 集会では政党代表以外にも多くの若者のスピーチが続いた。
 さらに、創価学会のグループの代表の挨拶は文字どおり感動的だった。
 さらに、パレードではミニトラメガを持って行ったのでコールにも積極的に参加できて自己満足・・・。
 主催者発表は25,000人らしいがパレード出発時点でも人が増えていたし、はぐれた仲間が「お疲れ会」に合流できた時には1時間以上経っていた。
 「次は何日や?」と言い合いながら「お疲れ会」を散会した。

  追記1 「兵戈無用(ひょうがむよう)は解説もいるぞ」と指摘をいただいた。・・ので、「戈」は「ほこ」ですと言うと納得いただいた。

 追記2 パレードやコールについていろいろ気がついたことがあったが「新しい酒は新しい革袋」と自分に言い聞かせて我慢した。そう思うと、兵站を「ひょうたん」とたどたどしくコールする娘らの必死さも微笑ましかった。

 追記3 余談ながら昨日は朝から少々腹痛で弱っていた。ところで私は集会参加の経験回数だけなら玄人と言ってよいだろう。だから、扇町ではなく途中乗換駅である日本橋でトイレを済ましておいた。案の定、扇町のトイレは『素人さん達』の長い行列であった。教訓、大集会のときには少し前の駅等でトイレを済ませておこう。あはははは。これってけっこう大切な知恵だと思いますよ。

 追記4 スピーチの中では笑福亭竹林さん、さすが落語家という楽しいお喋り。反維新の場でも奮闘ぶりは有名。繁昌亭等では応援したい。

 追記5 僧服の参加者も少なからず目についた。「僧服のお坊さんも『兵戈無用』のゼッケンを着けていたよ」と教えてくれた人あり。

 追記6 今日(31日)の新聞で初めて知ったのだが、僧侶でシンガーソングライターの鈴木君代さんが『兵戈無用』という歌を作詞作曲して歌っておられた。

兵戈無用のミニプラカード
どれのことか判ります?
8.30大阪扇町公園









2015年8月30日日曜日

兵戈無用(ひょうがむよう)

  今日は『戦争法案を廃案に!アベ政治を許さない!おおさか大集会』だが天気予報は雨である。
 となると、手に持つプラカードは無理だし全体として視界が悪くなる。だからと言って何の意思表示も準備せずに参加するのは心の中の何かが許さない。
 そこで、ここ何回か使用した大判のネームプレートに加えて、傘の中(端でもよい)にぶら提げるミニポスターを制作した。(全て大雨仕様)(傘でなくても小さな目玉クリップで何処にでも着けられる)
 写真は、試作品を家の中で撮ったもの。
 今回のキャッチコピーは『兵戈無用(ひょうがむよう)』にした。
 SEALDs等の青年学生の運動に感心したOLDsが、SEALDsばりのロック調とでもいうようなキャッチコピーやコールを真似るきらいが無いでもないが、OLDsはOLDsらしく発信したいものである。
 『兵戈無用』は私の発案ではなく、どこかで見て私なりに感心したキャッチコピーで、出典は大無量寿経で仏教の基本的な考え方だと理解した。(私は戸次公正師の「お経は日本語で」で意味を知った)
 いま世間では、SEALDsの新しい自主的な運動の広がりとともに、良心的な創価学会員が公明党や創価学会本部に異議を申し立てている運動が注目されている。創価大学関係者らによる戦争法案反対の公然とした主張も起こっている。
 そんな小手先のことを考えて作ったのではないが、そういうふうな多くの国民の良心に訴えたいと思ってこのキャッチコピーを私は採用した。
 「解り辛い」とか「古臭い」とかブーイングがあるかもしれないが、今の私の気分にあっているからこんなミニポスターを制作した。
 友人たちには大無量寿経云々ではなく、多かれ少なかれ仏教に親しんだ心で賛同してほしいなあと思っている。

2015年8月28日金曜日

じっとしておれない という先輩

 和道おっさんのブログ http://wadou.seesaa.net/article/424864810.html に心を打たれた。(このアドレスを左クリックでドラッグして全体を反転させ、右クリックすると「http://wadou…に移動する」が出るのでそこを左クリックでそのブログにかわる)
 「おっさん」というのは「法主さん」が訛ったものらしいが、私が小さい頃から遣い慣れてきた言葉で「お坊さん」のことである。
 和道おっさんはパーキンソン病で集会やデモのような人混みになると必ずのように「すくみ足」の症状が出るらしい。
 そのおっさんが、それでも「もうじっとしておれない!」と、戦争法案に反対する全国100万人行動に参加するとブログに書かれていた。想像の及ばない決断だと思う。
 そういえば春の反原発の大阪の集会にはパーキンソン病の別の先輩が歩行器に頼りながら参加されていた。

イチモンジセセリ
  なお、大阪の集会は30日(日曜日)の午後4時から扇町公園で開催される。
 
 台風15号と前後して秋空がやって来た。
 アキアカネが舞い始め、セセリチョウが飛び始めた。秋である。
 「危急存亡の秋(トキ)」と書くが、文字どおりそんな秋(トキ)だと思う。
 焼き魚や煮魚を最後まで綺麗に食べる過程を「せせる」というが、そういう突く様な箸使いからセセリチョウの名がついたらしい。
 小さい頃は蝶か蛾か解らず私は勝手に「蛾蝶」と呼んでいた。
 今は勝手に「秋の使者」と呼んでいる。

 追伸
 和道おっさんの神戸からのレポートは次のとおり。
 http://wadou.seesaa.net/article/425005081.html

2015年8月27日木曜日

もう怖くない

  洗濯物をとり入れたら洗濯物の上で昼寝をしていた?珍客を一緒にとり入れた。
 この客人を私は知っている。
 以前にクマバチだ!と思って写真を撮ったらそれはオオハナアブだったと教わったので、今ではもうその強烈な攻撃的羽音も怖くない。
 写真を撮ってから逃がしてやった。

 そして、念のため昆虫図鑑で確認したらどうもオオハナアブではなさそうで、エエエッ・・、図鑑では典型的なクマバチ・・・・キムネクマバチになっている。
 (オオハナアブだと)信じ込むことの方がクマバチよりも怖いことだ。
 本には「オスは刺さない」と書かれているから結果オーライだったようだ。
 キムネクマバチもオオハナアブもズングリムックリした体型で、航空力学上飛べるはずがないのに飛んでいる不思議・・と大議論があったらしい。・・と、これも本にあった。
 それにしても、以前のオオハナアブの方は殺気に満ちていたのに、今回のキムネクマバチの方は殺気を感じなかった。
 『狐の方が虎よりも虎らしく虚勢を張る』というようなオオハナアブによる擬態の成功例だろうか、それとも私の思い込みがそう感じさせたのだろうか。

 今回の私の勘違いで、少なくとも妻の私に対する昆虫学(昔昆虫少年)の評価は地に落ちた。
 「オオハナアブだから心配ない」とか言って孫が刺されていたらどうするのん!と言われて返す言葉がなかった。

2015年8月25日火曜日

暑気払い

  暑気払ひなどともとより異存なし (鈴木鷹夫)

  1か月ぶりで暑気払いに参加した。
 良い意味でも悪い意味でも半ば強制的であった職場の飲み会が激減したらしい昨今なら、「暑気払い」という言葉も死語に向かってフェードアウトしていっているかもしれない。事実、息子のお嫁さんと話していた折り「暑気払いってどういうものですか?」と聞かれたことがあった。
 結局、暑気とはあまり関係なく、なんとなく私を元気付けてやろうという雰囲気で何人かが集まってくれたもので嬉しかった。
 同時に、内容は違えど誰もがいろんな苦労に疲れている話も飛び交いお互い慰め合ったから、考えれば一番暑気払いらしい暑気払いだったのかもしれない。
 歳がいって経験ばかりが重なると他人にはめっぽう辛くて自分には大甘になるので、「可愛い爺さん」になる勉強が大切なようなことを確認し合ったようなしなかったような。そんなひと時を過ごした。
 グルマンの友人の推薦した冷酒を注文したら、バーテンダーがワインか何かを注ぐようなパフォーマンスを披露してくれた。
 以前なら「何故そんな注ぎ方をするの?」などと聞いたに違いないが、今回は単純にその技術に拍手を送るだけにした。
   なんとけふの暑さはと石の塵(ちり)を吹く (鬼貫)

2015年8月23日日曜日

日本よい国

 8月の新聞各紙には戦時中を振り返る記事がたくさんあったが、70年という時の経過の結果、どうしても敗戦時には子供~青年だったという方々の声が私には目立った。
 そんな中で私が「ヘ~ッ」と思ったことの二つは、① 大人以上に子供たちは「神風が吹いて必ず勝つ」とほんとうに信じていたこと、② 戦後は、民主主義になったとはいうものの戦時中のことを語ることが長い間タブー視されていたこと・・の2点だった。
 ①には、教育の持っている恐ろしさを再確認させられたし(大人はホンネとタテマエだったとしても子供は実際に洗脳させられた)、②に関しては、非人道的な加害行為や、反対に幼児を手放したりレイプされたりという極限の体験が暗黙の共通認識となって、お互いに戦時中の経験を聞かない、話さないという、今の言葉で言えば「空気を読む」というような感じで、いたわりあうルールがあったらしい。そういうことを目から鱗の感じで気付かせてくれたのは澤地久枝さんの話からだった。
 だから、よくいう「戦前は大変だった」というような言葉ではカバーしきれない重い諸事実を私たち(少なくとも私)は、まだまだ心から理解できていないのではないだろうか。

  22日の朝日新聞に面白い4コマ漫画があった。
  「ニッポンノ ドーデモイイコト ナンデモイイカラ ホメマクレバ オ金モラエル スバラシイ (ニッポンノ テレビノ) 仕事デース」とは、近頃のテレビ番組の傾向を鋭く皮肉っているように思う。
 誰でも『自分が所属している集団』を誉められて悪い気はしないだろうし、その種の郷土愛やスポーツのフアン心理のようなものがあって悪いわけではない。
 しかし近頃のテレビの傾向は、「神国ニッポン」「鬼畜米英」「チョンやチャンコロ(という差別語)」と言っていた時代の空気とは別種のものだろうか。
 書店に山積みにされている嫌中、嫌韓の出版物は別種のものだろうか。
 もし、そこに黒幕がいる!と感じなければ現状は戦時中の子供たちと変わらない。

 昭和11年にNHKから「国民歌謡」として放送された『日本よい国』の歌詞は・・・、
 〽日本よい国み神の国よ
   何を荒波いはほは不動
   どんとうつ波さつとうち返す
   意気だ豪気だ久遠の国だ
   こゝに日が照る月も照る
・・・だった。(この歌詞のレベルの低さに比べ、果たした影響の大きさに戦慄しないのは鈍感のそしりを免れない)

 「日本の良いところもあるし他国にも良いところがある」「何年か前の日本もそうだった」と語る姿勢こそが大人の姿勢ではないだろうか。
 「汚染水は完全にコントロールされている」「日本の火山は大爆発しない」「兵力という暴力でテロの危険はなくなる」と信じてオリンピックに浮かれているのは『日本よい国』の時代と同じではないかと私は気が塞ぐ。

2015年8月20日木曜日

ミートショップは何処にあったか

 小笠原好彦先生の古代史の講座があり「古代の市(いち)」について講義を受けた中で、「延喜式の中に平安京の東西の市における商売の店名が84もあげられているのにその中には肉屋がないが、その理由を考えるように」と宿題が出されたので帰路にぼんやりと考えた。
 その私の答えは、肉食のことを俗に「薬食い」と言ったこともあるから「肉は薬店で売られていた」という推論で、帰ってから私の推論を言わずに妻に尋ねた結果も同じように「薬店」だった。
 しかし、私の知っている「薬食い」という言葉はきっと江戸時代のことであり、犬公方たち幕府の施策に反発した庶民が広めた口実・言い訳だったような気がする(だいたいが落語「池田の猪買い」で知ったような気がする)から、この言葉をもって平安京以前の意識が肉=薬であったというのは原因と結果が一致しないように思って自信が持てなかった。
 正倉院御物の「種々薬帳」に「干し肉」とでもあればよかったのだがそれは見つからなかった。

 そのため別の角度から考えて、諏訪神社のように鹿の頭を供える信仰をみると、獣肉の主たる性格は贄、犠牲であるから、肉食の主たる側面も神人共食(直会)であったはずで、故にその材料の流通経路は市ではなく神社と朝廷にあったのではないかという推論に行きついたが、これは反対に各地の主要な神社で獣肉を売買していたというような証拠が見つからず、採用できないように思った。

 さらに別の角度から考えると、中世には世の中の主だった意識が、獣肉の解体処理を汚穢として嫌悪、忌避したが、それ以前にも仏教の受容と相まって穢れを恐れ畏怖する観念が始まっており、故に神聖な?市の中でその売買は許されず、市の隣接地の処刑場のごとく、隣接する『河原』が肉の売買の場所ではなかったかという推論に達したが、これも藤原京出土の動物の骨の状況などからすると、もっとあっけらかんとして食していた様でもあり、この推論も根拠に乏しく、私の頭はもう一度元に戻って考えることとなった。

 そうすると、万葉集の「乞食者(ほがいびと)の詠(うた)」の中に、「王がヤマトの平群(へぐり)で薬猟(くすりがり)をするときに・・・雄鹿がこう嘆いた・・・自分の肉は膾(なます)の材料、肝も膾の材料、胃は塩辛の材料になるだろう」というのがあった。
 また日本書紀推古19年(611)5月の菟田野の薬猟も、女は薬草、男は鹿の角を獲ったとされているし、薬猟というキーワードで考えると、獣肉が薬餌と考えられていたことは薬食いという言葉に先行して常識であったと考えられる。
 というような要旨で書かれた文章も少なくないのだが、第一次史料となるとなかなか見つからなかった。
 そんな中、弘仁14年(823)の「日本惣国風土記」の石川郡富樫のところに、「鶴、鵲、鴎、鷺、鹿、猪革肉を貢ぐ。革は武庫部に献じ、肉は典薬寮(くすりのつかさ)に送る」というのを見つけた。
 当時の肉の多くは塩漬けや干し肉であっただろうから『典薬寮(くすりのつかさ)』に送ったことも納得できるし、典薬寮に送ったのだから肉=薬と考えられていたことは間違いなさそうだ。
 また勉強の途中では、「少彦名の神話を持つ出雲世界は縄文時代から薬の知識があり、それが富のひとつであった」「山陰の特殊な土器は薬づくりと関係がある」「特異な大型甑は『いぶし肉』を作るのに適していた」という考古学者の文章にも出会って先の考えが補強された感じがした。
 以上のとおり回り道をして、結局のところ・・・、
 「古代社会もタテマエとしての禁令(多くの例外があるが)とは別に薬餌という口実で獣肉は食されていた」
 「それは京(みやこ)にあっては典薬寮が管轄する『薬』のひとつとされていた」
 「そのように『薬だとカテゴライズする』ことによって、朝廷自身も、天武4年(675)以降の数々の食用禁令と実際の薬猟やその食用という事実の間に存在したダブルスタンダードに、まるで落語の鹿政談のように安心の根拠を与えていた」
 以上の結果、「主に塩漬け肉や干し肉であったそれらは、市にあっては『薬店』で売買されていた」
 だから「延喜式の市の店に『肉屋』がないのである」・・・と考えついたのだが、さて、この答えは間違っていないだろうか、そして、点数は何点だろうか。

2015年8月18日火曜日

木製飛行機

下の白く小さいのが桜花
(ネットから)
  終戦記念日とその前の数日は第二次世界大戦関連のテレビ番組が多かったが、たまたま点けた番組で海軍の「特攻兵器桜花(おうか)」のことが語られていた。
 母機(一式陸攻)に吊るされて運ばれ、その後切り離され、ロケットエンジンで敵艦に体当たりする有人特攻機で、「神風」や人間魚雷「回天」は知っていたが、こんな特攻もあったのだと初めて知った。(戦後70年というけれど、語られていなかった話も多いものだ)
 そして、その放送の中で、羽の部分が木製であったことに触れられていたので私の心は少々ざわついた。
 というのも、以前の記事に書いたが、私の亡父は戦時中松下飛行機(株)に勤めていて、そこで造っていたのが木製爆撃機「明星」だったからである。
 もしかして「明星も特攻機?」と連想してしまったからである。
 ただ、調べてみると当時は世界中で木製や布製の爆撃機は珍しくなかったようで、少しホッとした。
 後に亡母に父の会社のことを聞いてみたが何も知らず、ただ「あの辺(盾津飛行場:現東大阪市)にはベニヤ板の工場がいっぱいあった」と語っただけだった。
 さらに後に調べてみると、高度成長のシンボルのようであった家具調のテレビや家具調のステレオの「家具調部分」は、松下飛行機(株)のこの木製飛行機の技術の成果であったらしい。
 これも以前に書いたことだが、敗戦時に亡父は「何日もかけて徹底して軍関係の証拠」を焼却したと語っていた。
 当時は、そういう「証拠隠滅」が軍や軍需工場で天文学的な規模で実行されたのだろう。
 そのことに考えが及ばなければ、「植民地支配の証拠がない」「やむを得ず戦争をした」「もう謝った」というような甘い言葉に乗せられるのではないだろうか。
 「証拠が残っていない」は「事実がなかった」ことではない。
 事実、さらに後日、亡父の人生を振り返りたくて国立国会図書館へ「松下飛行機(株)のことを知りたい」と相談に行ったら、「軍需工場の記録は全くと言っていいほど残っていない」との回答であった。

2015年8月16日日曜日

タマムシに失礼


  14日の夕方に、安倍首相の「戦後70年談話」をテレビで観た。
 安倍首相は村山談話や小泉談話にあった「侵略」「植民地支配」「反省」「お詫び」の言葉を述べないのではないかという観測もあったが、安倍談話にはこれらの言葉がちりばめられていた。
 だから、翌朝の朝日新聞の1面大見出しは『「侵略」「おわび」言及』だった。
 しかし、それは過去の政権がそのように表明してきたという事実に言及しただけで、安倍政権としてどう考えているかについてはあえてそれらの文言を語らなかった。
 だから質疑の際には「侵略にあたるか否かについては歴史家の議論にゆだねるべきだ」と強調し、「日本が国策を誤り植民地支配と侵略を行った」と「痛切に反省」した村山談話を否定したところにこそ安倍談話の本質がある。
 こういう文書を一般に『玉虫色』といい、「どうにでも解釈できる曖昧な表現」と言われている。
 しかし私は、こんな安物の文書に「玉虫色」というのはタマムシに失礼だと思う。
 韓国の植民地化に進んだ日露戦争を「植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけた」と歴史を歪曲し、「子や孫、その先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」と、国家の責任と個人の問題をあえてすり替えて語った件(くだり)ではその不誠実さに気分が悪くなった。
 そんな折、江弘樹氏のツイッターが飛び込んできた。安倍談話の大阪弁訳としてある。
 『欧米列強が世界分割しとる時代に日露戦争で一矢報いた日本はアジアの星やった。侵略て言われたらそうかもしれんけどな、やらなやられたでしゃあない、オレらとしては挑戦やわな。まあ負けてしもた。せやけどこれまでせんど詫びて来た。これでお詫びはヤンピやなあ』というもの。
 大阪弁というより泉州弁のように感じられるが、首相の気持ちを正確に代弁している。

 この間から、タマムシが飛んできたごとに妻に「タマムシが来たぞ」と教えたが、妻が2階に上がってくるまでに飛び去ってしまったり樹の中に隠れたりで見せてあげることができなかったが、今回はキチンと見せることができ、二人で暫し「飛ぶ宝石」を堪能した。
 重ねて言うが、こんなタマムシに「玉虫色の談話」は失礼だ。

2015年8月15日土曜日

70年目の夏

 名古屋には名古屋の顔あり見なれたる美人が力士のむこうに写る(三島市)渕野里子
 先頭は法定速度のパトカーで抜くに抜かれず長い列なす(西海市)前田一揆
 こんな歌を見つけると「そうそうそのとおり」と笑いたくなる。毎週月曜日の朝日歌壇・朝日俳壇。

 その8月10日版から抜粋してみると、
 戦争に捲きこまれたらきつと言ふ「想定外」と口を揃へて(前橋市)荻原葉月
 過ちは繰返しませぬという碑文安保法案成らば嘆かむ(三原市)岡田独甫
 〈賛成の諸君〉がのったり起立して安保法案強行採決(安中市)鬼形輝雄
 解釈で憲法を変えた人物として教科書に載りたがってる(宮崎市)大田原良治
 読み返す『想い出袋』鶴見氏の反戦の意志リレーしたくて(常滑市)井上啓子
 骨壺に石ころひとつからんころん東洋平和のいくさの果てに(名古屋市)諏訪兼位
 国民に充分理解はされてないと言ひつつ審議を打ち切る不思議(新潟市)伊藤敏
 理解した上で反対なにゆえに「理解進んでいない」と言うのか(東京都)井ノ川澄夫
 読み返す『想い出袋』鶴見氏の声が聞こえる人を殺すな(常滑市)井上啓子
 名古屋場所高校野球盆踊り平和であるから九条あるから(松山市)宇和上正
 金子兜太の「アベ政治を許さない」てふ太筆の文字揺れる間に法案通る(横浜市)坪沼稔
  戦争の歯車の音我鬼忌かな(京都市)武本保彦
 七夕や届くところに平和吊り(吹田市)佐野仁紀
 英霊は小石で帰還敗戦忌(堺市)奥村英思
 デモに蹤く老いては蜘蛛の子の如し(静岡市)西川裕通
 つくづくと憲法九条蟇蛙(東京都)高井高盛
 安保法案に関連するものを拾っただけでこのとおりで、このほかに原発や社会問題を扱ったものも多い。
 私は朝日新聞の中でこの紙面が一番権力の圧力から遠く、真実に迫っているように思う。
 そして、「私も一句」と気持ちだけは毎週思うのだが、
 何もかもこの汗引いてからのこと(新潟市)岩田佳 に激しく同意して怠惰な日常に戻るというのを繰り返している。

2015年8月14日金曜日

エナガも暑い

  12日の夕方庭の水撒きをしていると、エナガの集団が、チーッチーッチーッチーッ、スイーッスイーッスイーッスイーッという感じでやって来た。
 体重約8グラムで日本で2番目に小さな野鳥である。
 少しのワインレッドと白と黒で装いも綺麗な小鳥だ。
 尾羽が長いので、体全体を柄杓(ひしゃく)と見て柄(え)が長いから柄長(えなが)というのだろう。(と想像している)
 そして、水を撒き終わった木の葉で盛んに遊び始めた。
 すぐそこにバードバスがあるのだがそちらには行かず、葉っぱの滴を体に塗って羽繕いをしたり、あるいは滴を飲んでいるようだった。
 どうも非常に喜んでいるように私には見えた。
 そこで、ホースの先をシャワーにしてかけてみたら、驚いて逃げるどころか、さらに多くのエナガが「シャワーを浴びた~い」という感じでやって来た。
 文句なく可愛い光景が続いた。
 早速幾つかの野鳥の本をめくってみたが、こんな習性のようなものは書いていなかった。
 よっぽど冷たい滴が気持ちよかったのだろう。

 12日には苧殻(おがら)を買ってきた。
 親鸞の教えには迎え火送り火の思想はないが、こういう小さな形式を通して祖霊を思うというのも悪くはないだろうと考えている。
 13日に孫の夏ちゃんと迎え火を焚いた。
 夏ちゃんが初めてマッチを擦った。
 どういうわけか燃え付きにくい苧殻だったのでパッとしない迎え火になったのは残念。

2015年8月13日木曜日

妄想敵

  〔知識はすべて疑うことから始まる。疑うことがなくては、本当の知識は得がたい。疑い始めると、すべてが疑問にみえる。それを一つずつ解き明してゆくところに、知的な世界が生まれる。単に知識のことばかりではない。世上のありかたすべて、そのままでよいはずはない。〕〔白川静 回思九十年〕・・・・という文章を見つけた数日後、大門みきし参議院議員の「妄想敵」と題したエッセイを読んだ。

 曰く、〔政府・自民党が戦争法案のために北朝鮮・中国脅威論を振りまき仮想敵を演出しているが、2008年9月、高知県足摺岬沖で国籍不明の潜水艦が領海侵犯したと防衛省が発表したことがある。
 軍事アナリストの小川和久氏などはテレビで「中国海軍の潜水艦に違いない」と断定した。
 しかし1週間後、防衛省は鯨を潜水艦と見誤った公算が大きいと発表を訂正。
 交信しても返事がないのは当たり前。
 お化けなどいないのにお化けがいると思い込み、恐怖のあまり銃を撃ったら人間だった。となると、妄想から戦争が始まることだってある。〕・・・と結ばれていた。
 世界中で日本は、突出して国民がマスコミ発表を信じているという統計を見たことがある。
 白川先生の言葉を拳々服膺することが大切だ。(主題は以上で終わり)


 足摺岬の鯨はもう少しで魚雷をぶち込まれる?ところだった。
 世界動物園水族館協会が「イルカ追い込み漁」で捕獲したイルカを購入したなら除名する」と報じられ日本の協会が応じたニュースがあったが、郷里の堺市は、「捕鯨を守る全国自治体連絡協議会」に加入して太地町らとともに「捕鯨と鯨文化を守ろう」と訴えている。
 捕鯨は魚雷ではなく銛で対峙するものである。
 堺市ええぞ!

2015年8月12日水曜日

沈まぬ太陽

  日航機事故から30年が経った。
 ネットには驚くような「事故の真相」という記事があるがそれはさておき、この事故がJALの労務政策に基づく‟人災”であったことは明らかだ。
 しかし歴代自民党、一部民主党政権下で同じような不当労働行為がJALでは継続され、発生した争議は未だに解決していない。

 30年前、仕事上でこの事故に直接関わった。
 東京出張帰りの大阪の労働者が多かった。
 遠い昔のような気もするが、風化させてはならない課題は多い。
 『沈まぬ太陽』。電車の中で読んでいて涙をこらえるのが困難だった。

2015年8月11日火曜日

若草山に眠る皇妃

  新聞報道によると、奈良県は7日、若草山モノレール構想に代わるバス道路建設案についても、これを凍結すると発表した。吉報である。
 今後は、山頂の駐車場へ既存のバス運行ルートを延長するなどのソフト整備による移動支援を検討するそうだ。これは賛成。
 以前のブログに書いたが、知事は当初「モノレール反対は考古学一派の少数意見だ」とうそぶいていたが・・・・、広範な階層から寄せられた世論の勝利だと思う。
 私のところにも多数の署名が寄せられ中継させていただいたが、ご協力いただいた方々に心から感謝したい。

 さて、若草山頂上の絶景ポイントに鶯塚古墳がある。4世紀末~5世紀初頭築造といわれている全長103メートルの大型前方後円墳で、清少納言は「みささぎはうぐひすのみささぎ・・」と記している。
 眼下に後の平城京、北には後の恭仁京を一望できる、標高300メートルの山頂という、こんな超一等地に葬られた者、葬った者は誰だろうか。
 明治以前は、記紀に夫の浮気を許さなかった自立した女性として特筆されている仁徳天皇の皇后・磐之媛命の御陵とされていたが、確率の高い推定なら大王家に次々と皇妃を送り込んだ和爾氏(後に春日氏)出身の皇妃の御陵のような気がする。
 奈良にはこんな超ド級の遺跡がごろごろあり、「奈良公園には何回も行った」「若草山にも何回も登ったこともある」という人々もごろごろいるのに、鶯塚古墳を知らない人は多い。

 私はモノレールやバス道路よりも、鶯塚古墳を発掘調査した上で、復元すればよいと思う。
 若草山の頂上に円筒埴輪に囲まれた前方後円墳の往時の姿・・・・、
 平城京、東大寺、春日大社以前のヤマトも貴重な歴史だし、奈良時代だけが奈良の歴史ではない。復元された鶯塚古墳は素晴らしい観光資源にもなると思うのだが。
 そんなことを言うと、開発至上主義者につまみ食いされるだけだろうか。

2015年8月9日日曜日

戦争のリアル

 共産党の志位委員長がインターネット放送局のインタビュー番組で語った内容を新聞で読んだが、その中で次のように語っている部分に私は少し驚いた。
 志位 「朝鮮有事」ということが、あたかもリアリティーがあるかのように語られているのですがはたしてそうか。一番わかりやすい事例というのは、1994年に、本当の朝鮮半島危機があったわけですよ。これは、米国のクリントン政権が、北朝鮮の核施設を先制攻撃で空爆するというシナリオだったのです。このときに止めたのは、韓国の金泳三大統領なんですね。彼が、クリントンに電話をして、‟もしそんなことをやれば地上戦になっておびただしい犠牲者がでる、だから絶対にやめてくれ、もし米国が北朝鮮を攻撃しても韓国軍は一兵たりとも動かさない”と談判して止めたのですね。そのとき、関係国みんなが地獄を見たと思うのですよ。米国も、軍事攻撃すれば、大変な状況になる。韓国も、ソウルの40キロ先は境界線で、大砲の弾が届く距離ですから、これも地獄になる。北朝鮮も破滅することになる。それぞれが地獄を見たと思うんですね。こういう経験を経ているのです。だから私は、「朝鮮有事」がさもすぐおこるかのようにあおられているけれど、そんなものではないと思います。
 私がこの発言の何に驚いたかというと、そういう事実が私の記憶には全くなかったという、そのことだった。(瞬時には知ったニュースだったとしても「そういう重大なことだった」という記憶が今はない)
 1994年(平成6年)というと、私事では、相当な部下を抱えてけっこう仕事に没頭していたということもあるし、社会では細川内閣、羽田内閣、村山内閣と目まぐるしく、私の目や耳も松本サリン事件の謎に興味が集中していたのかもしれない。
 さらに、年が明けると阪神淡路大震災の渦中に投げ出され、ニュースは地下鉄サリン事件で埋まり、さらに些末な私事になるが畑違いの業務に転勤して格闘していたからかもしれない。
 ということはやはり言い訳で、結局のところは、当時の自分の勉強不足以外の何ものでもないことだろう。
 (だから、非常に狭い自分の経験から考えて余談を言えば、不安定雇用・過密労働は悪政を支える最高のシステムだと思うし、そういう観点からの過重労働防止の運動は重要だと感じている)

 ということで、ネット上の「コリア・レポート」編集長の辺真一氏のレポートを今頃読み返すとこういうことだったらしい。
 米国は・・1994年に一度だけ、北朝鮮への攻撃を真剣に検討したことがあった。・・大統領は1994年5月19日、シュリガシュビリ統合参謀本部議長らから戦争シミュレーションのブリーフィングを受けた。シミュレーションの結果は「戦争が勃発すれば、開戦90日間で▲5万2千人の米軍が被害を受ける▲韓国軍は49万人の死者を出す▲戦争費用は610億ドルを超える。最終的には1千億ドルを越す」という衝撃的なものだった。
 当時、極東に配備されていた在日米軍3万3千4百人と在韓米軍2万8千5百人を合せると、約6万2千人。なんとその約8割が緒戦3か月で被害を受けることになる。駐韓米軍のラック司令官にいたっては「南北間の隣接性と大都市戦争の特殊性からして米国人8万~10万人を含め(民間人から)100万人の死者が出る」と報告していた。
 クリントン大統領はそれでも将来米国を核攻撃するかもしれない北朝鮮を今のうちに叩くのが得策と判断し、一か月後の6月16日、ホワイトハウスでの安全保障会議で空爆を指示した。ところが、ほぼ同時に訪朝中のカーター元大統領から「金日成(主席)が核開発の凍結を受け入れた」との一報が入り、幸いにも攻撃は中止された・・と、
 窮鼠猫を噛むの諺ではないが、ミサイルは一瞬にして北朝鮮と同時に、韓国、日本、そして米本土を焦土にするだろう。
 一時は、クリントンは、100万人の死者を見込んだうえで戦争を決定したのである。怖ろしい事態だった。という記憶のない自分もまた怖ろしい。
 だから山本太郎議員の主張のとおり、北朝鮮を仮想敵国にしながら日本海側にずらりと原発を並べて矛盾を感じない安倍首相の考えは全くリアルでなく、支離滅裂で狂気の沙汰でしかない。
 とすると、不良少年に因縁をつけられた友達を救うというようなレベルの例え話で防衛を語るのでなく、外交の力で平和を守るというのが最もリアルな選択であることは明らかだと私は思う。
 戦争を知らない子供たち世代である私などが言うのも憚られるが、安倍側近や日本会議に群がる子供たちの、戦争ゲームレベルの主張の愚かさは度し難い。
 戦争法案よりも憲法、軍事よりも外交という考えを『平和ボケ』の理想論だと笑う意見があるが、そういう人こそ事実が見えていない『平和ボケ』の『戦争オタク』である。
 3.11後は、23万人自衛隊員の半数以上が東北の被災地に投入されていた。安倍流にいえば火事場ドロボーがやって来る最も軍事力が脆弱な時代だった。しかし北朝鮮は侵略して来ず、義援金を送ってきた。これこそリアルな国際関係ではないのか。
 憲法順守こそ最もリアルな『抑止力』と考えることが知性ではないか。
 北朝鮮の政治を擁護する気などさらさらないが、安倍周辺の言動は彼らと瓜二つである。そんなメンバーがロシアンルーレットで粋がっている政治は非常に危険だと考える。

2015年8月7日金曜日

魂虫


  古代の遺物などを見ていると、その頃の人々が鳥や虫たちを『異界からの使者』と認識していたと想像できる。
 中国のミイラは口に玉蝉を含んでいたし、日本の古墳には水鳥や鶏の埴輪がそなえられていた。
  そこで心をその時代に遊ばせてみると、この昆虫こそが使者に相応しい出で立ちではないかと想像の翼が広がる。
 だから玉虫というよりも魂虫と私は書きたい。
 今年も家の前の欅の樹に魂虫がやって来た。二匹はカップルで卵を産みに来たのだろうか。
 魂虫よ! 君が使者なら、病気と闘う幼い子供に幸あれと異界の神仏に伝えてほしい。
 
 本によると、魂虫の大好物は榎(えのき)らしい。そして、江戸時代、浅草伝法院の山門に大榎があり、その下に浅草餅の店があったそうだ。
 で、玉虫を浅草餅の子が見付け という句が残っている。


 7日、写真追加
 「魂虫逢瀬のトキ」


 

2015年8月5日水曜日

とりまブログ

ネットから
  「SADLの集会は新しい文化(運動)を感じさせますよ」と教えてもらったことがある。
 そのとき私は、大阪1万人集会でもOBの方が目立ったようなこともあり、「働き盛りの貴方が若者の文化に驚くのでなく、あなた方こそが私たち高齢者(OB)を驚かせるような文化を創造してほしい」と話の腰を折ったのだが、人の意見はもっと素直に聞くべきだったと反省している。
 SADOLというのは大阪の、SEALDsというのは東京や全国の、戦争法案に反対する学生たちの自主的な運動体のことである。一昔前の言葉で言えば勝手連のようなものだろうか。
 そういう運動がいま、高校生の間でも広がりつつあるらしい。

 評論家というかコメンテーターが、「彼ら団塊の世代が・・・」だとか「ゆとり世代の彼らの主張は・・・」というように世代論を持ち出して解ったような顔をしているのは好きではないし、新人類という言葉や悟り世代というのも上から目線でしかないと思っているが、しかし、青年期に世の中がどういう状況であったかというのは、団塊ジュニア的な家庭状況も含めて、やはり特徴的な世代の様相を示していることもある。

 そこで先のSADLやSEALDsなどの行動をネットで見る限り、デモはパレードになり、シュプレヒコールはコールになり、自主的で創造的であるところに私は大いに共鳴し尊敬する。
 だがしかし、写真の主張「とりま廃案」「それな」「それな」には、かつての上から目線の年寄りが新人類だとか異星人とか形容したのと同じような絶望的なまでのカルチャーショックを感じた。言葉が通じないというか、その言葉が理解できない。
 追い打ちをかけたのは、ネット上で、若い西山あさみ名古屋市議(共産)がこれらの言葉を素直に理解できていることで、ということになると、「誰にでも理解できる言葉でアピールしてほしい」などと高齢者が御忠告することではなく、良し悪しは別にしても、若い人の文化に近づけていないしっかり者の高齢者にこそ問題はないかと私は胸に手を当てた。
 「とりま廃案」「それな」「それな」を娘に聞くと、「私は使わないが言葉は判る」ということだった。
 団塊の世代たちも、当時の大人たちはこんな風に感じていたに違いない。
 それがいつの間にか、当時の大人になってしまってはいないか。

 日本母親大会の講演で石川康宏先生が「まさかフェースブックやツイッターをしていない人はおられませんよね」・・・の言葉に会場ざわざわ・・というのもフェースブックにあった。

2015年8月2日日曜日

すなっぷ写真

 7月30日の新聞に、投稿しておいた「すなっぷ写真」が掲載された。
 撮影したのは7月18日の昼のことだった。ということは、約2週間、半月が経ったことになる。
 『時間だけは誰にも平等にやって来る』といわれるが、早いようで遅く、遅いようで早い日々である。
 『うす皮をはぐように穏やかになれる日がきっと来る』と信じて少しずつでも歩んでいかなければならない。
 
 古い友人が郷土の和菓子を携えてやってきてくれた。
 河島英五の『旧友再会』を思い出した。
 
 多くの友人からメールなどもいただいた。
 そこには、けっこう深刻な体験や現状が綴られていた。
 これ以上ないエールだと喜んでいる。