大雑把に言えば卑弥呼の次の次の時代、5世紀「倭の五王」の時代は巨大前方後円墳の時代であった。
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伝磐之媛陵 |
その時代に、奈良盆地南部の磯城・磐余(しき・いわれ、桜井市・橿原市)を本来の基盤としていた(当時の古墳の多くは大阪に築造されたが)天皇家と・・・、
奈良盆地南部を二分して、金剛山・葛城山東麓(御所市、葛城市、香芝市、北葛城郡)に権勢を誇っていたのが葛城(葛木)氏で、その葛城氏の娘、磐之媛(いわのひめ)が仁徳天皇の皇后となったが、天皇家一族以外からの皇后は異例中の異例だった。
記紀によれば磐之媛は強烈なヤキモチ焼で、仁徳の女癖に怒って旅先から仁徳の元に帰らず、淀川から木津川を上り、奈良県北部の那羅山(ならやま)から葛城を望んで歌を詠んだあと、筒城宮(京田辺市辺り)で暮らしたという。
そして、没して後は那羅山に葬られたといわれ、現在、その地である平城宮大極殿のすぐ北の佐紀楯列古墳群の中に伝磐之媛皇后陵はある。
それはなかなかに立派な前方後円墳で、私はしばしば野鳥の撮影のために訪れている。
権力との関係で巨大古墳はどのような場所に築かれたのかということは、いわゆる「王朝交代説」と絡んで論争のあるところで、4世紀中葉頃までの奈良盆地東南部の「やまと」の地から奈良盆地北部の「そふ」の地である佐紀楯列古墳群の地に築造場所が移動したことについても多くの意見がある。
ナマクラな私などは、大先生方の本を読むたびにナルホドと思い、結局頭の整理がつかないままである。
巨大古墳の築造地が顕著に移動(変化)しているのは王朝が代ったせいだ・・、いや、同一王権内で影響力を発揮した氏族の変化だ・・、墳墓の地は王権の宮とは関係ない・・、元の地が過密になったからだ・・、政治的効果を考えた位置だ・・、土地の開拓を考えたものだ・・、育てられた母系の氏族の地だ・・、途中から意味合いも変化したのだ・・、等々等々・・・・。
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葛木神社 |
ところが、伝磐之媛陵には30年近く訪れていたのだが、此の度初めて、その古墳の近くに葛木神社のあることを知って驚いた。間寛平なら「な、な、なんと」と叫ぶところである。
有名な葛木神社は金剛山の頂上にある。そこに祀られている「一言主神」は御所市の葛木坐一言主(かつらきにいますひとことぬし)神社にも祀られている。そして、同じ葛木神社がこの那羅山の麓にあったのだ。
何を驚いているかといえば、きっとここは葛城の領地だったのだ。だから、葛城の娘がそこに埋葬されたことに何の不思議もないのだと納得できたことである。
というようなキーワードで他の皇后陵などが解けるのかどうかはわからないが、おいおいと考えていきたいと思っている。
ちなみに、神功皇后(息長帯比売 おきながたらしひめ)は神話的装飾が著しい皇后で「架空の人物」と実在が疑われているが、私は実在したと考えている。父の息長宿禰は近江の息長氏とは別らしく南山城に勢力を張っていたらしい。とすると、伝神功皇后陵も実家の領地に葬られたことになり、全くの空想でもなさそうに思っている。
葛木神社の社伝には「仁徳天皇が磐之媛のために建立した」と書かれているが、私は違わないかと思っている。
葛城一族が、自分の領地に氏神を祀ったと考える方が素直ではないだろうか。
「そんな誰でも思いつくような当たり前の想像が、何が嬉しいのん」と言われれば身も蓋もない。
歴史の定説と言われているものも自分自身の五感で納得することが大切だ。
秘密保護法など現在進行形の社会問題についても、それが定説であるかのように発表する政府見解や報道されるニュースを無批判に信じることはよろしくない。
山本太郎議員が天皇に手紙を渡した件も、憲法第4条の「国政に関する権能を有しない」規定を踏みにじって天皇制を政治の舞台に引っ張り出す役割を果たすであろうことから私は反対ではあるが、園遊会が私的行事なら手紙も私的行為だろうし、天皇に対する請願なら(先の論から私は反対だが)提出先を間違えた問題だろう。それを戦前の不敬罪の脈絡で「懲罰だ」などという叫ぶ不見識をそのまま垂れ流す報道も報道だと思う。
先日は奈良の頭塔について「復元の姿がしっくりこない」と書いた。そして、「史跡頭塔」のFacebookに質問を送ったところ、「屋根の形は裏付け資料が少ないため復元は断念した。」「この屋根は復元ではなく石仏の劣化を防ぐためにつけたもの。」と返事を戴いた。
このことからも、いわゆる権威に盲従するのでなく、素直に考え議論することの大切さを痛感した。
談論風発がいいですね。コメントお願いします。