2011年4月30日土曜日

四月尽

 桜の花の開花の変化も大きいが、ブナの葉の芽吹きも劇的だ。
 さすがに注視している目の前の芽がそのままスローモーション映像のように動くわけではないが、午前中に冬芽であったものが夕方には葉っぱになっている。
 硬い硬い感じの裸の木が2日もすると一人前のブナになったのを見ると、自然の力強さに圧倒される。
 この時期の落葉樹は冬の寂しさを補って余りある。
 八重桜、フジ、ハナミズキ等々の華麗なまでのパフォーマンスの陰に隠れて可哀相だ。落葉樹の芽吹きはもっと称揚されてよい。

 

2011年4月29日金曜日

今日も古代史 水野ワールド

 講演内容が問題ではない。
 新聞報道もされなかったのに1200名もの受講生が集まってきた事実が楽しい。
 水野正好先生喜寿記念大講演会。
 チラシのキャッチフレーズは「考古学で日本を元気に!」「卑弥呼から光明皇后までを語りつくす白熱の四時間」だったが、午後1時から5時まで4時間しゃべりっぱなしでまだ足りなかった。
 受講者は誰もがそうなることを知っていて大声で笑っていた。
 
 さて、「東北大震災で東北の遺跡が大変だ」という様な事を言うと、「この非常時に何を非常識な」と言われそうだが、「そういうこともあるのか」程度の理解をお願いしたい。
 自分の被災のことも忘れてそんな心配をしている人も貴重である。
 そんな人々(弟子)を全国に排出したのも先生の大功績だろう。

 追加の写真 4月30日付朝日朝刊

2011年4月28日木曜日

マティーニはオシャレ

 友人のブログに「梅酒の飲み頃は何時?」というのがあり、梅酒づくりの大先輩である義母に聞いたところ「そんなのチョッと飲んでみたらええねん」という名回答があった。
 後日、取出した梅の実をもらったので義母にお伺いを立てたところ「(梅酒としては)チョッと早いな」というものだったが、梅の実としては、かえって美味しいものだった。義母は毎日喜んで食べている。

 以前に健康酒づくりを試してみたことがある。
 要するに甲類焼酎にいろんなものを放り込んだだけ。氷砂糖も入れなかった。
 松葉酒はすばらしいジンになった。そうかジンは松脂の香りだったんだ。これはオシャレなマティーニを想像しながら暫くの間楽しんだ。

 しかし、紫蘇、笹、etc etc どれも跳び上がるほどのリキュールには変身しなかった。というよりも美味しくない失敗作だった。やはり梅酒づくりが王道のようである。梅酒もよいが漬かった梅の実を食べるのが楽しい。

2011年4月27日水曜日

神話について思うこと

 原発の安全神話と言われているものがもっている問題の本質は、東電や学者や官僚の知恵が及ばずに安全を信じきっていたとか、想定外の危機に見まわれたとかというものではなく、これまでの各局面で、「そうではないかも知れない」という意見を一切排除してきたことにあると思う。そしてその問題は、今現在の事故の対応策でも克服されていないと思う。
古墳上も立入禁止ではない

 
 ・・・というような書き出しは yamashirodayori らしくないので、天皇陵神話に移る。

 日本書紀によれば、継体天皇崩御は西暦531年(6世紀前半)で、延喜式(967年施行)は「三島藍野陵」は「摂津国島上郡(平たく言えば高槻)」に在りと言っている(書紀や延喜式の記述には矛盾や不正確さが大いにあるが)。

円筒埴輪と形象埴輪は
性格が違うものだった?
 にも拘らず明治政府は、茨木(701年の大宝律令で言えば島下郡)の太田茶臼山古墳を継体天皇陵に指定した。
 
 案の定、1986年に陪塚から出土した埴輪は5世紀前半から中頃のものと発表され、この古墳が継体天皇陵ではありえないこととなったが、現代に至るも政府・宮内庁は「明治の指定は正しい。決定的な証拠がない限り指定変更はしない。」としている。

 このため、地元の茨木市HPは「宮内庁によると、継体天皇の御陵であるとされている。その没年は、『日本書紀』によると西暦531年頃。天皇の没年が6世紀、古墳の築造時期が5世紀であることなどから、この太田茶臼山古墳が、本当の継体天皇御陵であるか否かの論議が繰り返されている。」と苦しみながら書いている。

歴史館にある埴輪
左は力士(腕輪は大陸の残像?)
真ん中は鷹匠
 一方、高槻市の今城塚古墳は、陵墓参考地にも指定されなかったため、10年間にわたる発掘調査が行われ、200点以上の形象埴輪が並んだ祭祀場が発見されるなどから、これが真の継体天皇陵であることが今や定説となっている。
 よって、高槻市のインターネット歴史館も「真の継体天皇陵と言われている」と堂々と書いている。

 結局、言いたいことは、経産省や宮内庁には「異なった意見を論じ合う」ことを拒絶する神話信奉者が現に存することで、そういう「神話」はこの二つの組織だけでなく、大多数の企業をはじめ社会の広範囲に広がっており、そういう現実を直視すると、「この国が民主主義の国であるというような神話」の真実も見えてくるのではないかと思うことである。
祭祀場は葬祭後の
ジオラマ展示?
これはすごい兵馬俑?

 なお、このたび、真の継体天皇陵といわれる今城塚古墳と歴史館が公開(開館)されることとなったので、社会学習の子供たちが「天皇陵」の上で大いに遊んでいる。
 考古学ファンならずとも一度足を運ばれることをお勧めする。
 追伸・・継体天皇の謎解きの本を読み始めるときりがない。

2011年4月26日火曜日

ど根性すみれ かも

 江戸時代のヨーロッパ人が、日本では上流階級から一般庶民までが園芸を愛していて、植木屋という商売が成り立っていることについて驚きのレポートを故国に送っていたらしい。
 (当時のヨーロッパでも園芸ブームであったらしいがそれは王侯貴族の枠を出ていなかったとか)
 という本を読んだりすると、改めてへ~っと感慨を深くする。

 しかし、現代人は、自分の庭や鉢を離れると、いっぺんに冷淡になっているのかもしれない・・・と思うことがある。 
 写真は、園芸ではなく、家を出てすぐの舗装道路の端。

 持って帰りたい気もするが、「やはり野におけすみれ草」でいいんじゃないかと置いている。正確には「れんげ草」だが、「れんげ草」は普通に野のものだから、ここは「すみれ草」に替えてもいいと思う。
 どのように種を飛ばしたのか、点々と舗装の継ぎ目に咲いているのだが、その姿を愛でている人はほとんどない。
 勤労者は脇目もふらずに通り過ぎ、愛犬家はおしっこをかけて行く。

2011年4月25日月曜日

姫君を見習いたい

 避難した福島の児が「放射能がうつる」と苛められた・・・正確な科学的情報が必要だ・・・とメディアがお説教をしているが、日常的に、霊感がある人の話とか、背後に誰それが見えるとか、血液型だとか、星座だとか、今日の運勢だとか、さんざん非科学的なことを繰り返してきた責任については一言の反省も無い。
 だいたいが、3.11を前にして「避難せよ」と警鐘を鳴らした霊能者を一人として知らない。人生幸朗なら「責任者出て来い」と言うはずだ。

 実母の施設で「もうすぐ毛虫の季節になる」というと「毛虫は大嫌い」という方がおられ、「そういえば毛虫を飼う話があった」というので「虫めづる姫君ですか」「そうそう何という本でした」「今昔物語集でしょうか」「しっかりした姫でしたね」と話が展開した。・・・正しくは堤中納言物語で翌日に訂正した。

 そこで、この話だが姫君いわく「人々の、花や蝶やと愛づるこそ、はかなくあやしけれ。人は、実あり、本地尋ねたるこそ、心ばへをかしけれ」とは何んと合理的でロジカルな主張であることか。
 老人施設での会話のほうが、無責任なメディアよりも余程まともでないですか。

2011年4月24日日曜日

中世もおもしろい

 法然上人八百回忌・親鸞聖人七百五十回忌ということで京の街は賑わっているように見える。
 先日は展覧会に足を運び、昨日は節談説教と落語のコラボであった。節談説教は真宗大谷派の住職でもある藤野宗城氏、解説は浄土真宗本願寺派住職でもある釈徹宗氏、落語は大作・地獄八景亡者戯を雀々が演じた。

 しかし、正直に言おう。一番心に響いて楽しかったのは平雅行著「親鸞とその時代」(法藏館)(を読んだこと)であった。「旧仏教の停滞。鎌倉新仏教の民衆開放論の登場」という中世史の定説が如何に事実に反しているかを証明し、目から鱗の感動を味わった。
 以前に福永光司氏が「明恵、親鸞は完全なタオイストですよね」と論述しているのに逢ったとき以来の感動である。

 小さい時お寺でポスターを見て「おやわし聖人」と読んで笑われたことを思い出した。(よく似たことが先日新聞にあったような気がする)。
 振り仮名もつけず「誰でも知ってるやろう」という感覚はおかしいとその時(小さいときに)感じた。だが親鸞は好きである。
五木寛之の小説もおもしろかった。三國連太郎もいい。

2011年4月23日土曜日

札幌ラーメン味噌ラーメン

 野鳥の囀り(さえずり)の季節がやってきた。
 今まで「チーッ」としか地鳴きしていなかったメジロも「長兵衛、忠兵衛、長忠兵衛」と鳴き出し「地鳴きから囀りへの変化は顕著である」と努力賞をあげたい。


 写真1のホオジロも「チッ チッ」としか地鳴きしていなかったのが囀り始める。
 その「聞きなし」の定番は「一筆啓上仕り候」だがなかなかそうは聞こえない。
 「源平つつじ白つつじ」はなるほどそうかも知れないが、この辺りでは「札幌ラーメン味噌ラーメン」がぴったり合う。(鳥の囀りにも方言があるようだ)
 ホオジロは、雀に間違えられそうなくらい地味な鳥だが囀りとなると三役クラス(小結?)に昇進させたい。

 それに比べると、写真2のカワラヒワは「ヒリヒリ ヒリヒリ」と鳴いていた地鳴きが「ジーッ ジーッ」と変ったからと言ってそんなに雅趣が感じられない。清少納言さんならボロクソに貶すかもしれない。


2011年4月22日金曜日

そも 鳥は精霊であった

 オシドリのいた池の鴨たちも旅立ち、鵜だけが喧しく子育ての最終コースを努めている。

藤井寺市・津堂城山古墳の
水鳥形埴輪
  その水鳥のことだが、古代の遺跡からは鳥形木製品や鳥型埴輪が発見されており、その意味について史学者達が諸説開陳しているが、・・・「それは、渡り鳥(主として水鳥)が時処をたがえずに帰り来る姿を祖霊の化身と信じたからである。」「そのことは、鳥や隹(ふるどり)という文字自身がその頃の世界を憶えているので明らかだ。」と白川静先生は喝破している。
 転じて水鳥は、神の化身となり神の使いとなったのであろう。
  
 
 そんなことを考えると、既にこの地を不在となった水鳥たちの旅立ちを言祝ぎ秋の再来を心から念じたい。
 大いなるマンネリ・季節の繰り返しほど幸せなことはないと、文字も埴輪も教えてはいまいか。
 さあ、もう10日もすれば夏鳥たちの登場だ。私は(去年こそ例外的に執行できなかったが)毎年5月3日きっかりにキビタキと対面することを「年中行事」としている。恋の囀りは、既にあちこちで始まっている。

(参照)常用字解の『推』

 作家のような、あるいは技術者のような先生方が目につく昨今、白川静氏の著書に触れるたびに、「ああ、この方こそ学者に違いない」との思いを新たにする。




                      白川静監修小山鉄郎著「白川静さんに学ぶ 漢字は楽しい」新潮文庫

 写真の本の上でクリックすると拡大して読めると思います。
 ただし、著作権を尊重し2頁に止めます。





2011年4月21日木曜日

タンポポを見てナショナリストになる

 田中修著「雑草のはなし」(中公新書)の1ページ目はタンポポで、日本タンポポと西洋タンポポの繁殖の仕方等が詳しく解説され、「近年では、都会で見られるタンポポはほとんどがセイヨウタンポポで、ニホンタンポポは都会ではどんどん減ってほとんど見かけられず、田舎の畑の畦や山のふもとの野原などにひっそりと暮らしているだけである。」と記されている。

 要約すれば、ニホンタンポポは、セイヨウタンポポのように1年中花があるわけでなく、さらに、自家受粉では種が出来ず、故に近くに仲間がいてハチやチョウが来てくれる必要がある。だからといって、増えにくくはあるが減ることはないわけで、人間が生息地を開発した結果がもたらした現象と指摘している。
 
 そんな天然記念物的なニホンタンポポの群生地が家のすぐ近くに広がっている。
 歩道の緑地帯の街路樹の木の下で、何の変哲も無い場所である。
 これは、群生しているのが珍しいのではなく、ニホンタンポポは群生するもので、人間がやたらに開発さえしなければ、セイヨウタンポポが入ってきても駆逐されたりはしないという、本に書いてあるとおりの証拠でもある。
 現にいくらかは花の下の「外総苞片」が反り返ったセイヨウタンポポだった。
 
 四国や九州辺りでは、タンポポの花は白い(シロバナタンポポ)というのが常識らしい(と、この本には書いてある)が、この地では圧倒的に黄色であり白色は珍しい。ただ、明日香にはシロバナタンポポの群生地があるようだ。
 近所の歩道がニホンタンポポの群生地であるのを確認してから、少しナショナリスト的な高揚感を覚えた。
 同時に、「フランスではタンポポのサラドを食べないと春が来たような気がしないという」という文を読んでは真似をしたくなるエセナショナリストである。

 ※ニホンタンポポはカンサイタンポポ、カントウタンポポ等20種以上もあり「四季の野草」(山と渓谷社)に詳しいが、実際には見分けがつきにくい。とはいえ、写真のとおりゆっくり見ると個性豊かなのが判る。


 

2011年4月20日水曜日

浜通り はるか

 今では関西の人も「福島県浜通り」という地域名称を知るところとなったが、少し前まではそうではなかった。
 判りやすく言えば「東北本線が中通り」「常磐線が浜通り」である。
 私は40年近く前、その常磐線沿線に住んでいたから「会津」や「中通り」に比べて「浜通り」には親近感が染み付いている。

まだ見ぬ孫に伝えておこう
塩屋岬灯台下の
お祖母ちゃんとお父さん

浜通りの海はきれいだった
   乗換えナシで行ける「いわき駅(当時の駅名は「たいら」)」は極めて近い東北の玄関口(という言い方も東京中心主義ですが)で、文字どおり「浜通り」なもので、塩屋岬を眺めながらの海水浴にも便利だった。
 塩屋岬はその後美空ひばりの「みだれ髪」で超有名になり今は歌碑が立っているらしい。

 先日来の天災と人災は、私にとっては遥かな思い出が痛々しく変化するだけだが、地元の人々の絶句するしかない辛さを応援できる言葉を私は知らない。「浜通り」の支援と復興に遠くから微力を尽くすだけである。

 なお、いわき市は北部が30km圏にある。
 いわき市のHPには「がんばっぺ!いわき」を合言葉にしていると書いてあった。

2011年4月19日火曜日

学名はオキザリス

1 カタバミで悪かったね
 この花は、知らない人がいないくらい有名な雑草=カタバミであるが、よく見ると結構可愛い。(写真1)
 種が出来ると一寸した刺激でプチプチプチと四方に飛ばして大繁殖し、根付いたら結構強く根を張る。
 アッと言う間に子孫を増やし庭や植木鉢を席巻するので、ガーデニングのご主人方からは蛇笏のごとく嫌われている草である。

 ただ、体内時計でも有名?で、夜の姿は如何にも「睡眠中」である。
(写真2)
2 夜は眠るよ

 そして、その花が少し大きかったり(写真3)、ピンクであったり、白であったり、葉の色が紫であったりすると、学名であるオキザリスの名でこちらは園芸店でちょっとした値段で売られている。
 時々行く医院の待合室に『この世に雑草という名の草はありません・昭和天皇』という額が飾ってあるが文字の限りでは全くそうである。

3 オキザリスは有料
 たまに野草のままで雰囲気のある茶室の庭があるが、野草のままで風情をかもし出すガーデニングはやってみると極めて難しい。
 ただのズボラもんの手抜きだと近所では思われている。



2011年4月18日月曜日

思い出の八頭

 4月17日(日曜日)の新聞に八重山諸島のヤツガシラが「日本では数少ない旅鳥」として紹介されていて、懐かしい思い出がよみがえってきた。
 10年ほど前、奈良公園の奥のほうで(最初は一人っきりで)出会ったからである。
 ひらひらひら という感じで舞い降りてきた彼女を見た最初は「バードウォッチングに来て、ペットショップから逃げてきた珍鳥と言うのもなあ・・」というものだったが、図鑑を見て「ほんまものの野生の珍鳥だ」と、その貴重な出会いに興奮した。
 帰ってから記憶でスケッチに残して奈良の野鳥の会に送った記事は直ぐに「ヤツガシラに出会ったぞー」として会報に掲載された。
 昨日の新聞のおかげで、そんな興奮した思い出が懐かしかった。

 石垣島に転居した友人はこんな珍鳥を何回も見たのだろうか。
 年賀状にはリュウキュウアカショウビンが写っていた。
 超多忙の様子が覗え「過重労働による健康障害(いわゆる過労死)」が心配である。
 
当時のスケッチ
 
4月17日(日曜日)掲載




2011年4月17日日曜日

水野節絶好調

 昨日は、「脱線部分が面白いので有名な」水野正好先生の考古学を夫婦で受講。(車で5分の大学の公開授業)

稲荷山鉄剣
 その脱線部分・・・・鉄剣の金象嵌文字の解読は、国立奈良文化財研究所は錆落し等の失敗を恐れて作業が遅々として進まない。
 解読そのものも、その道の大家をいっぱい集めても、ああでもないこうでもないと進まない。・・・・とその筋の「権威」を一刀両断に腐し。
 しかし、西山要一先生は、稲荷山鉄剣を、普通の学者は箸で押さえてグラインダーで作業していたところを、竹の皮部分で自作した道具で抑えながら歯科医の器具で作業するという、柔らかい頭で見事に解読したんだ。・・・・と弟子を誉め。
 その獲加多支鹵(ワカタケル)大王=雄略天皇も、解読以前は「実在しなかった」と言っていた非常に多くの学者が解読後は知らん顔して「実在した」と言い始めた。頭を丸めた学者は一人もいなかった。と舌鋒止まるところを知らない。
 さらには、・・・・明治天皇は寂れた奈良に来て楽しまなかった。そこで寛政6年に西大寺西塔跡から1枚出土した地鎮の金貨を「日本で一番古い金貨です」と言って見せたらポケットに入れて帰ってしまった。・・・・をパントマイムで講演し、いつもどおり爆笑のうちに時間をオーバーして終了した。
 講演内容の一つひとつの水野説に同意するわけではないが受講は吉本よりも数倍楽しい。あれだけ好きなことを言いながら、前・近つ飛鳥館館長、現・大阪府文化財センター理事長、日本文化財科学会会長、全国埋蔵文化財法人連合協議会会長というのだから幸せなお方である。

2011年4月16日土曜日

源平枝垂れ花桃

 15日の朝日新聞に奈良・不退寺(業平寺)の源平花桃の満開が紹介されていた。(上の写真)
 そこで、少し鼻に掛けた自慢話だが、我が家で唯一メジャーな庭木である源平枝垂れ花桃も見てほしい。(下の写真)
 鮮やかな源平の対比といい、白花の花弁に表れた多種多様の紅模様といい、不退寺に勝るとも劣らぬ咲具合は、我が家に不釣合いな豪華さである。(そこまで自分で誉めるか・・)
 散歩の方も「これは何ですか。八重桜ですか。」等々と感心してくれる。

 花桃は桜とほぼ同時に開花し少し後まで咲き続ける。だからだろうか、保育園・幼稚園の卒園ソングで有名な「想い出のアルバム」も「桃のお花もきれいに咲いてもうすぐみんなは一年生」と結んでいる。
 この歌は昭和56年に「みんなの歌」に発表されたものらしいが、娘の卒園式でも多くの父母に感動を与えていた。
 そんな記憶もあり、職場の送別会ではよくこの歌の合唱を提唱して皆に喜ばれた???(皆無理をして私の顔を立てていてくれただけ?)
 もちろん私もこの合唱で送られた。
 私が職場に残した唯一の「制度」かも知れないが、もう捨てられてしまったに違いない。 

2011年4月15日金曜日

障子に目あり

 3月3日の「京の果ての上巳の節句」というブログの写真の説明に「KCN京都」が取材をしていた」と書いたが、先日散歩の途中で町内の方から「ひな祭りの写真を撮ってられたのですね」と言われ、咄嗟には何のことか判らなかったが、・・・・・そのうち、このことだというのが判ってきた。
 そして、よくよく聞いてさらに判ったことは、このケーブルテレビは、一日3回×15日間同じ番組を放映し、4月前半は「加茂・船屋のひな祭り」がそれであり、その中で私が出ていたということだった。
 私は取材の邪魔にならないよう控えていて取材の終了を確かめてから古い様式の御殿型の雛飾りを見に行ったのだが、その途中でアナウンサーが突如予想外にお世辞みたいな挨拶をしてきて、少しドギマギと対応したのが(もちろんこんな応答はカットされているに相違ないと信じて疑っていなかったが)そのまま放映されていた。
 自分でも「これが自分だとは気づきにくい・・」と感じた程の画面だったが、それを見て私だと特定した人のいたことに驚いた。
 歳をいくと身なりにも振舞いにも横着になっているが、いつどんな事があるかもしれないと、少し気を引き締めた出来事だった。

 昨日の朝日新聞の声欄にも、「介護の日々、おしゃれとは無縁のざんばら髪で探偵ナイトスクープの取材を受けコミカルに放映された。心機一転、これからは何時出くわしてもいいようにおしゃれに挑戦しなければ。」とあった。
 読んで笑った。
 同意。

2011年4月14日木曜日

どこか胡散臭い自粛ムード

 大阪の天満橋周辺の大川の桜並木が満開であったが、ほとんど花見をしている様子がないことに驚いた。(京都の円山公園はこんなではなかった。)これが自粛ムードなのだろうか。だとすれば、昨今の大阪人は「よい子」になったものである。

 さて、阪神大震災のときにもあったことだが、直接の被災者(被災地)とそうでない人(ところ)が「直」隣り合わせに並存する微妙さは確かにある。そして、直接被害を受けなかった者が物「心」両面で支援することは当然だし、その「心」の側面で言えば、ある種の心配りがあるべきであるのは当然だろうと思う。

 しかし、あえて言えば、少し冷静に考えると、もう少し規模の小さな天災は日常的にどこかで起こっているし、そこでは、やはり亡くなった方もおられるし、住居や全財産を失った方もおられるのだが、これまで、その全ての局面で「自粛」が語られたわけではない。(さらに加えて冷徹な事実を言えば、人生で最大級に近い悲しみは個々人の誰かの頭上で常に起こっており、その時に「日常風景が画面の向こうの別世界に見える」という矛盾は、解くことが出来ない永遠の課題なのだと思う。)

 結論を言えば「(リーダーシップがウリの)為政者が国民の心の問題や日常生活について強力に誘導」しょうとする場合には、どこかに胡散臭さが潜んでいると私は感じる。

元気な声が飛交っていた
 「自粛が過ぎると経済が停滞する」側面だけで批判するわけではない。
 気分・感覚の問題であるから気分・感覚で独り言を言わせてもらえば、原発問題がなくてもこれほどの自粛ムードが語られただろうか??? 原発問題の秘密主義体質には、スタートの時点から公式見解の裏側に「いつの日にかの核武装を可能にする技術の蓄積」という暗闇がなかったか??? 異常な自粛ムードは異常な真相の隠蔽のような気がしてならない。 

そのままで・・・美味しいでえ
 近畿では、花見でもしながら、これからのこの国を語るほうがよい。
 おっと、大阪でも、元気な街があった。
 鶴橋市場周辺は元気そうだった。
 美味しそうな「ヒネ鶏」も売っていた。
 「どうやって食べるん」と聞いたら「そのままで・・」「美味しいでえ」と返ってきた。


2011年4月13日水曜日

燕雀のことと嗤ってはいけない

大家が帰ってきた
 3月23日のブログのとおり、燕が南方へ渡っていた隙に雀がその巣をチャッカリと拝借しているのを以前に見つけたが、桜前線とともに大家の燕がその巣に戻ってきた。

 どうなるのかと見ていたら、予想どおり不在地主よりも実際に居住している借家人のほうが強く、その時は燕は追い返されてどこかへ飛び去った。

 今後、第2戦、第3戦の攻防があるのか、雀と燕の繁殖期の微妙な差異で円満明け渡し~入居が実現するのか、全く予想がつかない。

 私としては『燕が巣に帰ってこない年は縁起がよくない』というような迷信は信じないが、このまま燕とサヨナラするのは少しさみしい。


桜前線とともに帰ってきた

2011年4月12日火曜日

一流の職人は一流の道具を選ぶ

 若草山の麓に刃物の店が2軒あるのは有名で、全国の教員の間では、修学旅行で生徒を休憩させている間に自分の土産の包丁を買い求めるべし・・との「校訓」の伝承があるらしい。

 江戸落語にもなっている名刀(御物)「小烏丸」の流れをくむ「大和伝」(大和流の刀剣)の後裔というか、菊一文殊四郎包永と三條小鍛冶宗近という2軒のお店で、お能の「小鍛冶」は京のことであるが、後に奈良に移ってきたのが後者の店。(こういう話に直に御物やお能が出てくるのが奈良の歴史の深さだろう)

 しかし、現代の圧倒的なプロの料理人が愛用する堺の包丁と比べると、申し訳ないが昔はいざ知らず今は土産が似合う刃物かもしれない。(決して粗悪だというのではなく、超一流といえる堺に比べたら・・ということ)

 えへん、私は「堺石藤」の包丁を使っている。 ・・といっても年とともに怠惰になり、ほとんど研がないものだから、茅渟の海氏に「この包丁で料理しているとは余程(料理の)腕がよい」と冷やかされた次第。(本物の包丁は本物の手入れが必要・・ハイ)

 そして何を隠そう、今現在、お刺身等に愛用しているのは「京セラ」の名刀である。残念ながら切れ味は悪くない。これは、京阪奈の歴史と文化を語る  yamashirodayori では、あまりバラしたくない恥部である。

姿かたちに味はないが、その技術水準はすばらしい。

2011年4月11日月曜日

欅の芽吹き

 文春文庫にも収められている名著に畠山重篤著「森は海の恋人」がある。
  一月前の今日発生した震災と津波の折はツイッター上に「あんなに三陸の海を愛した畠山重篤さんと連絡が取れない」という悲痛な声が呟かれていたが、数日後に「無事でよかった」というツイートがあり、ただの読者ながら安心した。
 森の話では、宮脇昭著「鎮守の森」新潮文庫、一志治夫著「魂の森を行け」新潮文庫、西口親男著「ブナの森を楽しむ」岩波新書、石城謙吉著「森林と人間」岩波新書が共通して針葉樹に特化した人工林行政を批判しているのは、「森は海の恋人」同様「理解できる」というどころか、先々週などはスギ花粉で半ば仮死状態に陥っていた身としては、文句なしに「激しく同意」する
 (林野族は製薬会社等から賄賂を受け取っているのではないかと勘ぐっている。)

 
 とまれ、原発がいくらあっても森の代りはできないし総動物は総植物なしには生きられない。

 木々が芽吹き、その木々が海を(核汚染を除いては)「快復」するのは間違いない。人の心も考えも同じだろう。一喜一憂しまい。窓の外の欅の芽吹きが美しい。






2011年4月10日日曜日

旨味皮膜論

 何かの本で誰かが(此の頃の記憶の程度はこんなものである)「美味い塩鮭の皮があれば他におかずはいらない。」というようなことを言っていたが同感である。
 鮭に限らず魚の旨味は皮=精確には皮の下の脂身にある。先日のブログの続きで言えば、肝、白子、皮は三大旨味部位である。プラス目玉と顔肉だろうか。
 コラーゲンのサプリメントを呑むぐらいなら鯛の兜焼き(兜煮もいいが)をせせる方が余程美容と健康によいと信じてる。
錦 のとよ

 私は、錦市場「のとよ」のうなぎが好きである。すでにお察しのとおり、身もよいが皮がすこぶるいい。この少しパリッとした皮でご飯を巻き込んで食べると、笑顔を見られて怪しがられないかと気を使う。「京風うなぎ」と称しているが無条件で承認したい。(うなぎ丼1500円)

 私は「女学生の弁当」「ジョガベン」派に属している。美味しいものを最後に食べたい派である。
 妻は「考えられない」と嗤っている。
 焼き魚の皿に骨と皮だけが残った時、注意しておかないと妻がさっさと片付けてしまう。「ま、ま、待ってくれ。」「この皮を味わいたいために計画的に?食事をすすめてきたのだ。」
  妻「あほかいな」

2011年4月9日土曜日

飾らずにはいられなかった縄文人

 小さい頃に感じていたデザインに関する印象を述べれば、戦前的、過剰装飾的、成金趣味的なアールデコのマイナスイメージに対して、次々と新発売される電気製品に代表される、機能的、工業製品的なモダンデザインのシャープなプラスイメージは圧倒的であった。

 そんな感覚的な素地があったから、縄文土器から弥生土器への変遷についても、極めて素直に文化の進歩のように、つまり、劣った過剰装飾の時代から進んだ機能的デザインの時代へと「進歩」したのだと、全く深い考えもなく感覚的に納得していたように思う。

 後に知るのだが、これは無知な子供の感覚であったというよりも、その時代の日本美術史の正統な感覚でもあったようで、縄文のデザインはグロテスクな原始的感性とさえ言われていたようだが、それに大岩のような一石を投じたのが岡本太郎氏であったらしい。また、考古学の立場から控えめではあるが評価した中に佐原真氏がいたようだ。
これも爆発だろうか
(近鉄奈良駅東向南商
店街すぐの店にある)
 そして今・・・・、企業戦士と揶揄される環境から一歩身を引いた立場から落ち着いて縄文土器を眺めてみた場合、「飾らずにはいられない」という、たぎるような縄文人のパッションと心の奥深さが、素直に、極めて素直に心臓に響いてくる。

 縄文人は、土器を作ること、日々の生活を送ることを楽しんでいたんだ。
 佐原真氏流に言えば、戦争を始めたのは弥生人からなのだ。(弥生人の体内から鏃(やじり)が出たり、戦死の痕跡が顕著になるらしい。)
 
 無性に「三内丸山」に行ってみたい。
 日本列島の縄文の先進地は圧倒的に東北だったといわれている。

 蛇足・・・近鉄奈良駅前の商店街を何故「東向き商店街」というかというと、この道の東側はその昔興福寺の塀が続いており、その道の西側に東向きに各店が並んでいたかららしい。というと、この変な名前もありがたい気がしてくる。
 





2011年4月8日金曜日

ちょっと待て アカハラ

 まるでアカハラの身投げ!! 先日からの?アカハラがまだ居た。

 屋根から地面に向けて飛翔した。
思わず 早まるな!
 写真(絵)としては羽を広げて飛んでいなければ鳥じゃないが、「事実は小説よりも奇なもの」とお笑いを。
 鳥の写真としては失敗作の教科書に採用されるだろう。

 以前のブログと繰り返しになるが、このアカハラはこれまで(去年まで)に見たものよりも格段に衣装が見事。見るたびに惚れ惚れする。
 ツグミ類の模様は千差万別で、ピンからキリまでいるので悩ましい。

 そして、シロハラも度々我が家を訪問してくれた。なんか人懐っこく、窓のカーテンを開けたぐらいでは動じない。雀やヒヨが飛び去っても関係ナシに落葉を放り投げている。 ガサッ ゴソッ と結構大きな音を立てての散歩である。飛び立つ時にはキョロン と挨拶をする。
 
 シロハラは今年の正月が初の出会いだったが、その後は近所でも奈良公園でも度々出会った。・・・・ということは、身近にいたのにこれまでは見逃していたということ?? ツグミかヒヨかハトだと思って見過ごしていたのだろう。きっと。
 だから、鳥と出会えない最大の原因は既成概念だったんだ・・。

 この冬は、ちょっと楽しい「鳥日和」の多い冬であった。

別人(鳥)と思われるシロハラ
家の窓ガラスの内側から撮影
馴染のアカハラ
飛翔の前

2011年4月7日木曜日

山菜の女王 うるい

 無理をして話を“東北”にこじつける気は毛頭ないが陸奥(みちのく)の山菜のことである。
 酒席で山菜の話になった時、大多数の近畿の人間はウドやタラが美味しかったと・・主として旅先での話しになるが、東北出身の人はウルイやミズやコゴミの話を懐かしそうに大演説する。やはり山菜は東北の看板である。
 だから、食べ物全般に季節感がなくなってから久しく、山菜だってハウス栽培の時代らしいが、それでもスーパーに並べられた山菜は“春~”という季節感と陸奥の風景や気分を運んできてくれる。
 (それは少ない経験ながら山菜採りの記憶があるからで、そうでなければスーパーに置いてある珍品の一種でしかないのではなかろうか。)(「自分で採取しない山菜は山菜にあらず」とのお叱りはおいておいて)
 さて、市場のニューフェース。昔はスーパーに置いてなかった山菜にウルイがある。綺麗にパックされて並んでいるが、そして「どこかで見たような」気がするが、調理方法等の特段の知識もないので購入はしていなかった。
 今朝方、庭の大葉擬宝珠(オオバギボシ)の新芽が目立ってきた。そして「オオバギボシの新芽は食べられる」と書いた本が確かあったような記憶がよみがえり、山菜の本を取り出して調べてみた。するとなんだ。オオバギボシがウルイだったのだ。知らなんだ。
 早速湯掻いて酢味噌で戴いた。癖のない(ということは我が家では若干評価が低いが)上品な山菜で、美味しい山菜だった。世間一般では文句なしの優等生である。
 庭先グルメのレシピが一種類豊かになって何か得をしたみたいである。