2019年5月12日日曜日

銅鐸を愛した弥生人

   5月8日の『土偶大好き1』でNHK BSの『英雄たちの選択▽追跡!土偶を愛した弥生人たち~縄文と弥生をつなぐミステリー』に触れ、「縄文時代の流れをくむ土偶を愛した(?)弥生人が、近畿地方にいた」ことを紹介したが、その放送では、弥生の先進地域九州北部の弥生時代早期(前10C~前8C)から前期(前7C~前4C半ば)の遺跡から、東北地方の亀ヶ岡系土器(縄文晩期)が出土することも大きな問題提起だった。

 ツイッターなどでは「弥生人と縄文人が雑居していただけではないのか」というような投稿もあるが、上記の事実はそんなものではないことを物語っている。
 もっと言えば、「西の方には新しい文化があるらしい」と、東北の縄文人が九州まで「国内留学?」や「移住」をしていたらしい。
 有名な姫川のヒスイの全国的出土状況からみても、縄文人の結構な流動性、あるいはネットワークは侮れない。
 それに比べると稲作弥生人は土地にへばりついて流動性は低下する。弥生~江戸時代の目で縄文を見ると間違う。

 時代は下って古墳時代の大和その他の古墳からゴホウラ貝の腕輪が大量に出土したりする。その場合、被葬者は女性が推定される。
 琉球諸島のゴホウラ貝の採取と流通をになった人々も縄文系文化の後継者であろう。
 つまり、稲作弥生人と、猟や漁に携わる縄文人は、雑居ではなく交流・交易し共存していたのだろう。古墳時代の一側面からもそのように想像できる。
 つまり、古く劣った縄文文化が終わり、新しい弥生文化が日本列島を席巻したと考えるのは単純すぎて正しくないと放送の出演者は口々に語り、私は大いに納得した。

   わが家の近くに銅鐸出土地がある。相楽山銅鐸(そうらくやまどうたく)と呼ばれている。
 高さ40㎝、重さ1.9㎏の中型のもので、三角形を連ねた鋸歯文(きょしもん)と袈裟に似た格子を縦横に組み合わせた袈裟襷文(けさたすきもん)で飾られた扁平紐(へんぺいちゅう)六区画袈裟襷文銅鐸で、この銅鐸は鳴らした痕がない弥生時代の謎の製品(一般には祭器)である。

 かつては畿内の銅鐸、九州の銅剣・銅矛と言われたが、九州でも銅鐸の鋳型が見つかった。
 弥生もまた一色でなく、いろんな人がいて共存し、果ては戦った(倭国大乱)。
 この銅鐸の所有者はどんな人だったのだろう。住宅地の路上に小さなプレートがあった。

1 件のコメント:

  1. 偶然ですが、見てました。(FBのコメント転載)

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