2019年5月1日水曜日

歴代法皇は35人

   35日に『仏教抹殺』という記事をアップした。関連して38日には『天皇家は仏教徒であった』をアップした。
 昨日平成の天皇が退位し、およそ200年ぶりに上皇となり、今日は令和の天皇が即位するので、記録のためにもコピペで申し訳ないが一文を紹介してアップしておきたい。

 紹介するのは35日にアップした文春新書『仏教抹殺』の著者でもある、ジャーナリスト、浄土宗僧侶の鵜飼 秀徳氏である。
 氏のネット上の論文が大いに参考になるので、その骨子を紹介しておきたい。
 テーマは天皇家と上皇と仏教である。      

◆ 歴代天皇125人のうち上皇になったのは60人と半数近くに及び、神話上の天皇を除けば、過半数が上皇になっている。 
その上皇は仏教に帰依し、出家するケースがしばしばであった。出家した上皇は法皇と呼ばれ江戸時代までその慣習は続いた。歴代法皇の数は35人に上る。

法皇の名で呼ばれた最初は第59代宇多天皇で、東寺での受戒の儀式を経て仁和寺に入って住職となった。以来、仁和寺は皇族が住職を務める門跡寺院として繁栄し「御室御所」とも呼ばれるようになった。 
門跡寺院の他には、嵯峨天皇の離宮として建立され「嵯峨御所」と呼ばれた大覚寺や、鳥羽法皇ゆかりの青蓮院、後白河法皇が門主を務めた妙法院など全国に30か寺ほどある。

さらに、京都には「天皇家の菩提寺」である泉涌寺があり、江戸時代までの天皇の墓がある。 
泉涌寺は13世紀、四条天皇の葬儀が泉涌寺で実施され、南北朝時代以降は9代続けて天皇の火葬所となった。(中世以降の天皇の弔いは、仏式の火葬と神道の建前たる土葬が混在する形であり、第108代後水尾天皇以降は表向きは火葬、実質は土葬という不思議な形態だった)

こうして泉涌寺は「皇室の御寺」と位置付けられ、江戸時代の後水尾天皇から孝明天皇、そしてその皇后はすべて泉涌寺の月輪陵(もしくは後月輪陵)と呼ばれる区画に埋葬された。その数は、25陵と5灰塚、9墓(親王らの墓)に及んだ。

泉涌寺の陵墓は、古代の大王(おおきみ)や明治天皇以降の巨大陵墓と比べて、かなり質素で小規模なもので、意匠は仏式の九重の石塔である。
泉涌寺では、歴代天皇の位牌を安置し、朝夕、同寺の僧侶によって、読経がなされている。
各天皇の祥月命日には皇室の代理として、宮内庁京都事務所からの参拝が行われるという。

以上、長い歴史を俯瞰すれば天皇家と仏教とは切っても切れない関係性にあった。むしろ、明治以降現在までの天皇家のありようのほうが「特殊な状態」と言えるだろう。◆

   ・・・私が言いたいことは、歴史の事実を直視せず、明治以降の、日本史でいえばあだ花みたいな一時期を伝統だ伝統だと騒ぎ立て、政権浮揚策に大動員しているうさん臭さを理性的に観察しようということに尽きる。
   そも元号はそれほど国民・庶民に浸透していたのだろうか。実は「戊辰戦争」の言葉のように、国民・庶民レベルでは干支紀年の方が馴染んでいたのではないだろうか。
   いや元号だとおっしゃるトラキチの皆さんは、明日から「大正13年球場」と呼ぶがいい。

0 件のコメント:

コメントを投稿