2019年3月31日日曜日

森友事件前半の主人公

   大阪第一検察審査会は29日、森友事件で不起訴処分とされていた佐川元財務省理財局長らの「不起訴は不当」との議決書を公表したが、それは余りに遅かった。
出先職員の自殺を思うとき、改めて安倍政権の汚さに私は怒りが湧いてきた。

 そこで再確認しておくが、森友学園は8億円値引き以前にとても小学校の認可など申請できるものではなかった。
 事実、201412月の大阪府私学審議会では設置認可は認められていない。
 それに対して「基準が厳しすぎる」と大阪府私学課に働きかけたのは大阪維新の中川府議であり、そのように基準を変更したのは維新の松井知事だった。
 籠池夫妻が、形成が悪いと見ると梯子を外した「松井が一番悪い」と言ったのは根拠のないことではなかった。

 事実、2015127日に臨時私学審が開かれ急転直下「認可適当」とされたのである。
 森友事件の前半の主人公は維新である。
 
   賃金も上がらない、将来の展望が見えない、という社会の閉塞感が、維新の大法螺にでも賭けてみたいという気分を生んでいる。特に大阪では。
 しかし冷静に見て、「身を切る改革」などと言いながら一番ダーティーな集団が維新ではないだろうか。
 そして、森友認可にみられる不正、裏取引こそが彼らの「実行力」ではないだろうか。

 振り込め詐欺グループのタイの拠点で日本人15人が逮捕されたニュースが報じられている。
 テレビのこっちで「何でそんなに多額の金をだまし取られるのん」という声を聞く。
 その同じような冷静な目で選挙報道を見る必要がある。
 森友事件でも一番先頭に立って追求してきたのは共産党だ。
 そして、地方財務局から「真実を明らかにせよ」と立ち上がっているOBたちを見るべきだ。

   「どうして自殺など・・」という状況が明日我々の周りに起きてしまわないうちに。
 振り込め詐欺の被害者は一様に「まさか自分が引っかかるとは」と信じられないという。他山の石ではない。

 お口直しに写真を1枚。奈良・氷室神社の枝垂れ桜。

2019年3月30日土曜日

二聖よ起きよ

   一昨日の記事で『でろれん祭文』を奈良町の徳融寺で聴いたと書いたが、その徳融寺は、2013713日の『維新と大砲』に書いた奇人・吉村長慶ゆかりのお寺でもある。吉村家は当時檀家総代のようであったらしい。

   写真は山門入ってすぐの『世界二聖・大日如来像』という大きなレリーフで吉村長慶が昭和12年に建立した。 

 釈迦 と、十字架を背おったキリスト が横臥し、マント姿の吉村長慶が二人の間にわり込んで、「あなた方が寝ている時ではない。はやく起き上がってこの世の乱れを救ってください」と胸をゆすっている。

 笑うなかれ。邪心を捨てて直視して、私は素直に感動したぞ!

 読みにくいが、讃文の「軍馬の嘶(いなな)きは則ち国を亡ぼす」の六文字が官憲の目にふれ、戒告があったため寺は扉をつけて秘仏としていたとも。

 2013年にも書いたが吉村長慶に深入りすると底なし沼かもしれないのでこの辺で置く。
 2013年の記事とコメントでは、戦前の右翼の昭和維新のスローガンと大阪維新の同質性についても少し触れた。

 先日OB仲間のTさんから「季節には、元興寺小塔跡の枝垂れ桜が見ものだ」とメールをいただいた。「でろれん祭文」の折りはまだだったが、そろそろ見ごろかもしれない。
 その桜は、近鉄やJRの駅から行って徳融寺の少し手前にある。

   賢人は奇人なり春徳融寺

2019年3月29日金曜日

なっちゃん工作所

 春休みで孫の夏ちゃんと一緒にバイクの荷物入れ(リアボックス)がわが家に届いた。

   バイクの荷物入れはスチール製で厚さは2㎜はある。それを荷台に装着するのに直径5㎜の穴を、指定した場所に開けられないかという息子からの注文だった。既存の穴では巧くないらしい。
 わが工作所としては余りに簡単な注文なので夏ちゃんと一緒に作業をした。
 その作業の再現報告をする。2枚目以降の写真は再現時のものなので実際のスチール缶ではない。

   1 まず最初に目的の場所をほんの少し凹ませる必要がある。その個所の下に木材の台をあてがって、その作業をカスガイと金槌で行った。こういう下作業が結構重要なのである。
   2 次は電動ドリルだが、先ずは2㎜の鉄工用ドリルビットで作業した。貫通はしてもしなくてもいい。これも下作業。
   3 ボルトは5㎜という指定だったが、よく計ると6ミリだった。そこで6㎜のビットで本格的に穿孔した。これが本番と言えば本番。鉄板を穿孔するのは結構ハード。
   4 6㎜の穴とボルトとはキチキチいっぱいだったので、バリ取り砥石ビットで穴の周囲を整理して完成。夏ちゃんも自分の出来栄えに満足した。

   コート脱ぎドリル扱う子八歳

2019年3月28日木曜日

でろれん祭文

   先日「でろれん祭文」を聞く?見る?機会があり、『新日本紀行』の番組の中に放り込まれたような感動?のひとときを味わった。

 2010年12月26日の記事に書いたが、私は奈良市東部山間、田原地区で奈良県無形民俗文化財『祭文』のホンの一部を聞いたときから、一度は本格的に聞きたいと思っていたのが実現した。

 先日、このブログで神仏分離令の横暴を書いたついでに奈良県宗教者フォーラム編『修験道の真実と未来』という本を読み返し、その中に「山伏の祭文語りの芸が江州音頭になった・・・」等々が心に残っていたので興味を持って出かけてみたわけ。

 それは、江州の浄土宗布教師、櫻川雛山師によるもので、阿波鳴門巡礼歌の段を中心としたものであった。語りの主な舞台はご存知大阪玉造。

 今般の場所は奈良町の古刹徳融寺(融通念仏宗)の本堂で、師は100%僧として、仏を背にして信徒に語る説教節?でもあった。私は1mの距離で聴かせていただいた。
 中型のほら貝はぶお~っと吹くのでなく、でろれんでろれんでろれんという囃子?のメガホンで、錫杖と、金輪を外した金杖が時々使われた。錫杖は江州音頭でも使われる。

 聞いていると、ここは浪花節や! ここは江州音頭! 義太夫! というように、源流はお経の声明や謡だったのだろうが、それが近代の浪花節などの芸能に昇華されていく「踊り場」であったことがよく解った。
 浄土宗の布教師が融通念仏宗の本堂で語るわけだから、念仏に始まり念仏に終わる説教でもあったのだが、芸としてもすでに一級品で、私は普通に芸能としても感激した。

 その芸をここに再現できる筆力はないから、ネットで見つけた師のプロフィールを紹介しておく。ここでは「貝(ほら貝)祭文」ともいわれている。
 【「貝祭文櫻川雛山師はこんな人」2007/2/22】 
伊賀の貝祭文宗家とはこんな人。櫻川雛山(加藤善也)プロフィール
昭和16年 滋賀県八日市で生まれ 幼少より江州八日市祭文音頭を習う
昭和39年 滋賀県職員
昭和44年 江州音頭 真鍮家一門 家元櫻川好玉を襲名
昭和56年 弘誓寺(ぐぜじ)で得度
昭和61年 総本山知恩院にて伝宗伝戒
昭和62年 仏教大学文学部仏教科卒業 優秀論文賞を受ける
平成4年  江州八日市祭文の大先萬寶院櫻川雛山を仏教大学四条センターにて襲名し、貝祭文宗家となる
平成8年  総本山知恩院布教師
平成8年  大峰山 大先達
平成11年 嗣講
平成15年 江州音頭連盟協会の推挙により、真鍮家宗家櫻川好文を襲名
・著書多数・
  特に祭文の研究については浄土宗教学院より仏教論叢などに発表
  僧侶と遊芸人の関わり
  説教、布教とのかかわりについて
  盆踊りくどきとのかかわりにつて
  仏教説話系の語り物
  語り物とのかかわりについて
  さんせう太夫のかたりもの
  文芸にあらわれた熊谷蓮生坊
  瞽女唄について        など
尚、舞台上での口演は全国多岐にわたっている。

 さて、本来は、でろれんでろれんでろれんでろれんと続いている間に世話役がお盆を持って廻ってお布施を集め、それが少ないとでろれんでろれんが続いてさらにお盆が廻るらしかった。
   で、このブログで「ありがたいお話を聞かせてもらえた」と共鳴された方は、何かの機会にお布施代わりに私に奢っていただければ幸いだ。

  でろれんの祭文語りや彼岸過ぎ

2019年3月27日水曜日

風雨順時

   お水取りが終わると古都奈良に春が来ると言われるのに、先日の寒の戻りは何だ。
 しかし考えれば、「寒の戻り」という言葉が堂々とあるように、季節は一直線には巡ってこないものなのだ。
 お水取り(修二会)の中で唱えられる大咒願(祈願文)の最後は、 天下泰安 風雨順時 五穀成就 万民快楽 余分功徳 三有法界 其中衆生 等出苦患 成無上道 となっている。
 季節が季節どおりに巡って来て、五穀が豊かに実り、国民が幸福になるように・・・だが、その風雨という言葉には恵みの雨だけではない「〇〇害」と呼ばれているような厳しい気象も折込済のような気がする。(私見)
 つまり、人にとってつらい現実もまた自然であり、言葉を変えれば神仏なのではないだろうか。
 そういう自然への畏敬こそが宗教であり、社会の潤滑剤だと私は勝手に思っている。

 25日は療育園の終業式に当たる日だったのだろうか。孫の凜ちゃんには春休みも何もないのだが、この1年の作品集などを貰って帰ってきた。ゆっくりではあるが1年前に比べると確かに成長している。

 私は末っ子だったから、60年ほど前に亡くなった祖母はよく「おとんぼ(末っ子)は親と暮らせる時間が短いから可哀相や」と言っていた。
 その頃は「なんのこっちゃ」と思っていたが、自分が年寄りになり、ハンディのある孫を持って、できるだけ長生きをして助けてやりたいと思うと、ストレートではないが祖母の言っていた気持ちが解るような気になっている。

   孫は長い間塩分や脂肪分などを相当制限されていたが、今はほとんど気にしなくてもよいようになった。
 写真は解り辛いかもしれないが土筆を食べているところだ。土筆を幾つも幾つもムシャムシャと食べたので途中で止めさせたくらいだ。
 もう充分75日は貯金した。(初物75日)

 風雨順時、春には土筆が顔を出し、それを我らが美味しくいただく。
 この先も幾らも風雨に会うだろうが、それもまた神仏であろう。そういう考えを私は唯物弁証法だと考えている。
 祖父ちゃんもボーダーファッションを楽しむぞ。

   つくし食うつくしのような児やグルメ

 ひげ親父さんから一句いただきました。
   祖父思い 土筆食う児の いじらしさ

【写真追加しました】



2019年3月26日火曜日

中世を離れて明恵は語れない

 319日に明恵上人のことを書いた。21日からは中之島香雪美術館で明恵上人展が始まった。
 白洲正子著『明恵上人』によると、強い意志で俗世との無縁を貫いた明恵上人と、世俗のトップの執権北条泰時が親しかったこと、御成敗式目(貞永式目)の思想的バックボーンは明恵であったと白洲さんが言っていることが心に引っかかった。
 なので、その時代を再確認したくて文春新書・本郷和人著『承久の乱』を読んだ。

   その結果、中世史というよりも、中世の肌感覚のようなものが全く解っていなかったと反省している。
 その典型が『男衾三郎絵詞』で、『絵巻で読む中世』などで知ってはいたが実は知ってはいなかったと思い知らされた。

 武士が男衾三郎の館の前をたまたま通った通行人を捕らえて、「庭に生首絶やすな。切りかけよ。追物射にせよ」となぶり殺しにして生首を供えようという。
 男衾三郎のモデルは畠山重忠で、ならず者などでは決してなく、むしろ武士の鑑とされた者、著者は埼玉県警本部長のようなものだと言っている。
 つまりこの絵巻では、その凶暴さを非難しているのでなく、むしろ勇猛さを讃えている。それが中世の武士の殺生感で、その感覚が解れば鎌倉幕府の血なまぐさい権力抗争が理解できると書かれていた。

 近頃のテレビや書籍では「日本人エライ」が洪水の如く流されているが、自虐でなく公正に歴史を振り返ると、ひとつ間違えば結構危うい民族かもしれないと考えさせられる。
 良い歴史も悪い歴史も冷静に判断して議論はしなければならない。
 議論を単純化する癖は危険だと思う。

   血の臭い中世史読むようずの日 (季語「ようず」とは、春に吹く雨もよいの生ぬるい南寄りの風で、義母はしんどそうに「ようずやな」と言ったりする)

2019年3月25日月曜日

やせ我慢

 引かれ者の小唄は何べん歌ったかも知れない。
 負け惜しみだとかやせ我慢だとか言われたりしているが・・・。
 さて、私たちの仲間は結構幅広い友人知人に折々にニュースを届けている。
 先日は、いよいよ選挙本番というイメージで編集して送付した。

   そして「送付してくれてありがとう」というメールを受信した。
 ただ、そのメールには続けて、自民党が擁立した候補者を共産党が推してどんな大阪府政・大阪市政になるのかイメージが湧かないという感想が添えられていた。さらには、今の閉塞状態を思うと「何かしてくれそうな」維新に期待したいとあった。

 正直に言うと、半日ぐらいはがっくりきた。
 「ニュースを読んでよ!」と言いたいが、そう思ってもらえるほどの己が筆力の無さを反省する。
 よくよく読むと、今の政治に批判があることは明らかだ。ただ、展望が持てていないで、「何か」新しいものに期待するという感じだろう。
 これが、少なくない大阪の現実かもしれないし、決して芸人に偏見を持つわけではないが、いわゆる「お笑い枠」やノック知事を生んだ感覚かもしれない。
 もちろん私の思いを返信したが、翻意してくれるという自信はない。

 で、痩せ我慢になるが、そのメール全体に共産党への悪意や嫌悪感はなかった。(社交辞令かもしれないが)
 社交辞令でもいい。私たちが筆力を磨いて事実に即して情理を尽くせば解ってくれる日が来ると思う。そういう意味では、課題・目標が明らかになって再び元気が出つつある。
 えっ! これってやせ我慢ですか。

   暑いのか寒いのかホームの落葉掻き

2019年3月24日日曜日

長いは短い

 自分のことは棚に上げて思ったことを書く。お許しを!

   若い頃、機関紙学校で「長いは短い」ということを教えてもらった。
 「長い記事は読む人が少ないから記事の長さ×人数でいうと短いが、短い記事は多くの人が読んでくれるから(教宣の)総量では長くなる」というような人情の機微にも通じる話だった。

 よく似たことで私は「怒りの言葉は短い」というようにも感じている。これは「メッセージの伝え方」という側面から感じる人情の機微である。少なからず「その怒りは解った解った」で終わってしまわないだろうか。
 また、「何でも反対の〇〇」というような、事実とは異なる卑劣な宣伝にも「何となくそうだ」という風に利用されないか。
 と思うと、相手の心に残る(響く)言葉は怒りの言葉ではないように思うのだが。

 先輩から「キャッチボールは相手の捕りやすいところへ投げるんやで」と教えてもらったことがある。蘊蓄のある助言だと噛み締めている。
 些細なことだが、「府民の良識を示そうではありませんか!」という言い回しも何か上から目線や同意の強要にかんじるという素直な指摘もある。

 自分のことを棚に置いて語るのは心苦しいし、先日の「つどい」の案内状に「おぼしきこと言はぬは腹膨るるわざなれば集はむとぞ思ふ」と書き、看板には「#(ハッシュタグ)あきらめないが方程式 あの人に芽吹きの音を届けよう」としたのも、「解り難い」「廻りくどい」と批判も受けている。難しいが、”文句言われているうちが華”と居直ろう。

 ニュースの発行の場合も、私は記事以上に「送付状」が大切だと繰り返し語ってきたのだが、まだ多くの人には理解されてはいない。私の言葉が届いていない。
 受け止めてくれた友人は、ニュース送付の翌日に送付状だけ皆に送ってくれた。すごいことだ。その真摯な態度に敬服している。
 結局いずれにしても文章の巧拙ではなくて人柄の問題だというと実も蓋もないが、正味のところはそうではないだろうか。反省と日々研鑽!

 私はフェースブックでは市田忠義さんや大門みきしさんの投稿が好きである。
 社会問題に参考になるデータとして重宝というよりも、その人柄や生きざまに触れて感銘を受けるからである。
 3月20日の大門さんのフェースブックはこうだった。

 『きょうの参議院財政金融委員会。維新の会の藤巻健史議員(著名な株式トレーダーでたいへんな資産家)が麻生財務大臣にこう質問しました。
 藤巻健史議員「きのう大門先生から、格差是正のためにも富裕層に課税すべきだという話がありましたが、富裕層はそんなに数がいないから、課税しても大した税収になりません。それより消費税で国民多数から取ったほうが税収になる。大門先生のことは好きですが(場内爆笑)、金融課税はやめるべきだと思うが、大臣どうですか」
 麻生財務大臣「…財務省としては、やはり所得の再分配は重要だと考えております」
 そのあと、わたしが質問でしたので、冒頭、こういいました。
 大門みきし議員「さきほど、格差是正についてお話がありましたので、ひとこと申し上げます。私も藤巻さんのことは好きですが(場内爆笑)、藤巻さんと私の間そのものに、所得格差があるわけで(爆笑)、とらえ方に違いがあるのは仕方がありません。まあ、階級闘争ということでございます(大爆笑)」
 いちばん大笑いしていたのは麻生大臣でした。
 笑いながらも、じつは久しぶりに階級闘争を実感した場面でした』

 さて、俳論には門外漢の私だが、聞きかじった範囲では、芭蕉が晩年に到達した心境・作風は「軽み」だと聞いている。
 大門質問にはそれに通じるような「軽み」が感じられて好もしい。
 その対局のように生臭い自分だが、大いに学びたいと思っている。

   子らの声街に生気や春休み

2019年3月23日土曜日

寒の戻り

 それにしても酷い乱高下だ。寒の戻り。
 そのせいでもあるまいが、先日は夏鳥であるツバメが来たと書いたのに、今回は冬鳥だ。
   ジョウビタキの「尉」つまりロマンスグレーの♂である。(♀はロマンスグレーではない)
 紋付を着て旅立ちのあいさつだろうか。それとも「まだまだ春は遠いでっせ」と私を笑っているのだろうか。

 冬に食料の乏しい北の大地から渡ってきたのは理解できる。
 しかし、結構餌も豊富なこの地の春や夏を避けて北へ帰るのはどうしてだろう。

 春ごろのシベリアの蚊の大発生は桁違いらしいから、植物よりも栄養価の高い昆虫を食べて子育てをするのだろうか。
 それとも春何番かの強い南風に乗って北帰行を楽しむのだろうか。
 東京では桜の開花宣言というから、ええ加減早く帰ったらどうかと老婆心。

   冬鳥と夏鳥が逢う春彼岸

2019年3月22日金曜日

続 啄木鳥

 3月12日の啄木鳥(キツツキ)の記事で、森之宮神社の社伝に次のようにあるらしいとして、要旨をいえば、① 森之宮神社の地は元物部守屋の邸宅跡であった。② 故に守屋を討った聖徳太子が守屋の霊を鎮めるためにその地に四天王寺を建てた。③ それに対して守屋の怨霊が啄木鳥となって寺を襲った。④ そのため四天王寺は現在地に建て直された。という異説があると書いた。
 ということで確認のために森之宮神社を訪れ、お歳を召された神主さんにそれを尋ねたところ、な、な、なんと、神主さんは「そういう話は知りません」と言うのだった。

   そのため、改めてネット上の記事の出典を調べると、聖徳太子伝私記(古今目録抄)と和漢三才図絵(荒陵山四天王寺の項)であることがわかったし、どちらも国立国会図書館のデジタルコレクションで公開されていた。
 しかし、古典の写真の頁をめくってそれを探すのは至難の業で、何時間もかけたが結局たどり着けなかった。

 特に和漢三才図絵は何巻もあり頁数はもう数えきれない。
 「寺社」の項からも四天王寺は見つからなかった。

   そこでヤマカンで「林禽類」をめくっていって「啄木鳥」を読んだところ、『昔初玉造建 天王寺 時此鳥群來啄 損寺軒 故名 寺啄 守屋之怨霊爲 災也』というのを見つけた。やれやれ。傍証にはなるだろう。

 『故名 寺啄』は、故にこの鳥の名を「寺つつき」というということだ。
 その昔は「きつつき」よりも「てらつつき」の名の方がスタンダードであったらしい。

 以上の話とは直接関係ないが、森之宮神社の境内には、わがOB会の旗の「ライオン橋」でお馴染みの加藤義明さんのきり絵のコピーが貼られていた。「きり絵で訪ねる上町台地」というシリーズのひとつで森之宮神社を斬ったものだった。

   寺つつきその名の由来の森之宮三才図絵にようやく見つく

2019年3月21日木曜日

borderを着て越えて

 今日3月21日は国連が定めた「世界ダウン症の日」である。

   念のため”言うまでもないことを言う”が、ダウンは、「down・下へ・落ち込む・故障」などという意味ではなく、この症状を見つけたダウン博士の名前に由来する。
   多くは突然変異により21番目の染色体が1本多く、筋肉、心臓の疾患や症状などが少なからず出現するが、現代医学では「それも個性」と笑って生きていけるし、そういう元気な人々は沢山いる。ただし成長には時間を要する。

   さて、2018年6月21日の記事で娘夫婦から父の日プレゼントにボーダー柄のTシャツを貰ったことを書いた。そしてそれは私が爺臭くなってきたから「シャンとしろ」という意味だろうと書いた。
 この冬にもバースディプレゼントにボーダー柄の長袖Tシャツ(左の写真)を貰った。「もっとしっかりせい」だと私は再び考えた。

 しかし今、私は大いに恥じ入っている。
 元々娘は親(特に父親)に対して饒舌ではなかった。どちらかというと不言実行型だった。
 なので今頃ようやく私はそれを知った。それは・・・、
 「ボーダレスファッションで、障がいの壁・境界線(border)を乗り越えて一緒にファッションを楽しもう!」という#(ハッシュタグ)だったのだ。

   ということで、少し気温が上がれば大いにボーダー柄を着て#の広告塔にでもなんにでもなるつもりだ。
 読者の皆さんには、ボーダーファッションを見つけたら、「境界線を乗り越えよう」と連想していただきたい。

 右の写真は大阪市立中央図書館でのダウン症の子らの元気な写真展にて。
 その日は寒の戻りでとても寒かった。

(注) ボーダー柄とは裾や袖口に縁(ふち)と平行してライン状や帯状の縁取りをしたものをいい、横縞のことをいうのではないらしいが、元々は誤用だったかもしれないがここは普通に横縞のシャツもボーダー柄と言っておく。

   解ってるなどと言いつつ比べる目そんな自分が恥ずかしくなる

2019年3月20日水曜日

十三まいり

   数え年13歳の旧暦3月13日前後に虚空蔵菩薩にお参りする。
 京・大阪あたりの行事というが他県ではどうだろう。
 私が数え13歳のときには父は既におらず祖母と一緒に確か谷町9丁目のお寺に行ったと記憶しているから太平寺だったのだろう。その年の秋に祖母は他界した。

 数え年だから1~3月生まれの者は1学年下の者と一緒になる。
 多くの成人式もそうだったが、もひとつ面白くなかった記憶がある。
 そんなもので、息子や娘には十三まいりはしなかった。
 だいたい13歳の子が親に連れられてお寺参りしても楽しくなかろう。

 ところが現代は十三まいりが再び流行っているらしい。特に女子。
 レンタル着物業界の戦略とインスタ映えがマッチングしたようだ。
 まだ戦後と言われていた時代に経験した者としては隔世の感がある。

 1~3月生まれのことを俗に「得生まれ」という。
 正月に歳をとる数え年と学年の差でいうと、1年早く卒業して稼いでくれて親が得をするとか、1年早く学校に引き取ってもらって親が得をするとか諸説あるが、特に低学年の頃は体格や体力でおよそ1年の差は小さくなくあまり得なことはなかった。

 歳をとってからは同学年の多数が「今年は還暦や」「古稀や」というのに「こっちはまだまだ」と得をした気分になっている。
 ただ「50越えたら順不同」というから得も損もない。

   今読んだ本は頭に残らずも十三まいりの景色は浮かぶ

2019年3月19日火曜日

明恵上人のこと

 和歌山は有田出身の友人がいて、彼の地出身の明恵(みょうえ)上人のことをいろいろ調べているという話を2月に聞いた。
 確か去年ぐらいに奈良国立博物館で明恵上人の特別展があったが私は行っていない。
 私の貧弱な知識はというと、何らかの形で上人が鳥獣戯画の制作に関わっていなかったかという俗説と「夢を記録した上人」という程度のものだった。つまり、まあそんなものだった。

   上記の話とは別に、大相撲立行司第41代式守伊之助の軍配の房を京の職人が作っている話を朝日新聞で読んで、それが紫と白の房だと言うので「やっぱり」と思って道教の本を引っ張り出して読んだ。
 するとそこに要旨次のようなやりとりが記されていて、私の目は止まった。

 ・・・親鸞の思想が道教だという話に続いて・・・
 福永光司 それに対して明恵の「自然」というのは山水自然で、・・それと一体となるためには・・夢だというのです。
 ・・僕は明恵さんの「夢記」は実物を持っていないので、白洲正子さんの「明恵上人」の一冊で見ました。明恵上人は物凄く老荘的なんですよね。
 河合隼雄 あれは本当にすばらしい本です。明恵の本がいろいろありますけど、やっぱり白洲さんの本が一番明恵の本質をうまくつかまえていますね。 

 ・・・という流れから、むずむずと好奇心が湧いてきて、白洲正子著『明恵上人』(新潮社)を求めて読んだ。
 結論を言えば、明恵上人の思想のタオイズムのようなことは十分に理解できなかった。(感覚的には納得した)
 ただ別に、平雅行著『親鸞とその時代』(法蔵館)を読んだときに衝撃を受けた指摘「古代の顕密仏教に対して法然・親鸞・道元・日蓮らの鎌倉新仏教という前提がそもそも間違っている」という提起が、なるほどと大いに理解できた。
 顕密仏教側の革新的なうねりを直視せよというそれは、明恵上人の生涯を見れば理解できそうだ。
 中世の新しい仏教界の大変動の主な主人公は顕密側の改革運動だったらしい。
 いわゆる鎌倉新仏教が影響力を拡げたのは戦国時代を待たなければならない。う~む。

 「明恵上人にみる老荘思想」は私の重い宿題になった。いつか判らない未来へ続く。

   今どきの大臣(おとど)明恵なら何と

2019年3月18日月曜日

しんこ団子

 若いときは年寄りの語る「昔の思い出話」などに興味もなく、自分が歳をとってくるとその話が懐かしく、「これはしっかり聞いておこう」と思っても義父はすでになく、義母の記憶も霧の彼方となっている。
 『しんこ』についてのそういう記事をブログに書いたのは2012年(平成24年)の春(5月19日と6月2日)のことだった。それからでも7年が経過した。

   そんな中、この3月14日に、『しんこ』を検索していてたまたま訪問してくれた方から次のとおりコメントを寄せていただいた。
 
 【 古い話題にコメントして申し訳ありません。親戚の法事がありしんこネタを探していたもので。
 大和郡山の50代の兼業農家ですが、20年くらい前までは普通にほうせき(おやつの奈良弁です)として食べていました。母親が作ってくれていました。
 今では法事の際のお供え物でしかお目にかかりませんが。。。
 もう必要ないのかもしれませんが、しんこを頼めるお店をもう一軒。天理市櫟本町和爾の高安萬栄堂さんでもお願いできますよ。要るときは、うちも親戚も今はそこに頼んでいます。白土の甲子屋さんもいいですけど。】

 これはインターネットの醍醐味のようなものだった。
 心から感謝している。

   ということで、老人ホームに入所している義母に久しぶりに「昔、しんこを作ってたんやろ?」と話を振ってみた。
 歯(歯茎)が痛いとかで機嫌があまり良くない状況ながら、どこかでいっぺんに回路が繋がったようで、『(親戚等に)子供が生まれたら(しんこを作って)。お重に詰めて(お祝いに持って行った)』と話しだし、しんこの金型を上下合わせて作る手の動きをしてくれた。
 もう理詰めの会話はできないのでよく判らないところがあるが、そういうしんこのときもあるしチマキにしたときもあったようだ。
 途中から手の動きはチマキを巻く動作になっていった。

 「どうして食べたん」と聞くと、「焼いて砂糖醤油をつけた」とも言った。
 少しは機嫌がよくなったようだった。

 下の写真は18日の昼に追加した。
 妻が、庭の蓬(よもぎ)を採って「よもぎ団子」(しんこ)をつくった。
 きな粉で見栄えは悪いが味は結構だった。

   草芽吹きしんこは大和の行事食

2019年3月17日日曜日

時よ止まれ!

   今週後半はいっぺんに気温が上がると予報士は語っているが、原稿を書いている17日段階では春は名のみで風は冷たい。

 春は名のみというと、3月7日にはこのブログで冬鳥の代表格ジョウビタキを書いたところだが、今日の主人公は夏鳥のペースメーカー格のツバメである。
 ホームセンターの玄関の頭上にその声を聞いた。
 そして近くの池の上を群舞している。(写真)いつの間にやって来たのだ。

 ついこの間「新年だ」などと言っていたのに、もう四半期(3か月)を数えてしまう。
 「時よ止まれ! お前は早すぎる」 というのが実感である。

   さて、わが町内はわが家の沈丁花の香りに包まれている。
 花粉症を忘れてその芳香を嗅ぎに私も外に出る。
 この原稿を書いていると「もしかして私は匂いフェチ?」などと変な反省をしたくなるが、沈丁花の香りを嗅ぐと「ああ年度末だ」と気が滅入る気がする。
 年度替わりは人事異動の季節でもある。
 その機会に人員削減があったりする。
 私自身も「えっ、長谷やんが来るの?」と異動先の管理者にショックを与えたこともあるし、私自身新しい人間関係や新規担当業務で疲れた感覚がこの匂いにはまとわりついている。
 友人たちは沈丁花の香りにどんなイメージを持っているのだろう。

   春愁は人事異動と沈丁花

2019年3月16日土曜日

維新の思い出(悪夢)

 「しつこい人は嫌われまっせ」という忠告は分かっていますが、「大阪投げ出しクロス選挙」を目前にして、平成28年春にSNSに書いた記事を一部手を入れて再録します。「そう云やぁそんなこともあったなぁ」と思い出していただければ幸いです。

   【記事】 
   【ウソとマネーロンダリング】
平成27年(2015)の大阪W選挙の折り、維新の党の分裂騒ぎがあり、橋下徹氏は東京組を「交付金目当てだ」とののしり、「大阪組は残った金を国庫に返納する」と大見得を切り、マスコミも大々的に報じました。しかし、返納されたという報道はありません。

  平成27年に維新の党に支給された政党交付金(財源は税金)は266千万円。128日に(東西の)「合意」が成り、18日に振込まれたそうですが、年内に(12日間で)使い切れなかった金は公表されていません。
それもそのはずでその金は、2712月に作って283月に解散した「なんば維新」(所在地は大阪維新の会と同じ)という政治団体に寄付をして、年を越えたら各議員の支部に「なんば維新」から寄付で返したというのです。

「国庫へ返納」という大嘘の上に、政党助成金が政党活動にも限定されない「何にでも使える金」に化けた(マネーロンダリングした)わけです。(記事は以下省略)

 以上がおよそ3年前の真っ赤な?事実です。「真っ赤な」の誤用はお察しください。
 選挙のときには大向う受けをする大嘘を言いあとは知らぬ顔をする、それが「身を切る改革」などと言う維新の実態です。
 近頃もの忘れのヒドイ自分自身のために昔の記事を読み直した次第です。

   茗荷断ち歴史探偵となる浪速

2019年3月15日金曜日

三半規管大丈夫か


   13日13時48分ころ地震があった。 和歌山県北部 和歌山県南部 徳島県北部 徳島県南部が震度4、震源地は紀伊水道(北緯33.8度 東経134.9度 深さ 50km)、地震の規模(マグニチュード)は5.2と推定。

 ということは南海トラフではなく中央構造線断層帯らしい。

 そのとき私は大阪管区気象台(と計測機器)の隣にいた。だから大阪中央区震度1というのは正しいのだろうが、大阪の南部は震度3、震源地からするすると中央区よりも遠い大阪の北部でも震度2が多数あったから、実際は震度2ぐらいではなかっただろうかと同室の人たちが言っていた。

 若い頃(1970年代)東京の気象庁の隣にいたことがある。
 当時は気象庁の担当が24時間当直していて、地震が起こると(寝ていた場合は跳び起きて)基本的には体感で震度を決めていた。
 なので当時流なら震度2だと想像したりする。
 大阪城に近い中央区(の計器)は上町の岩盤の上だったから小さかったのだろうか。

 といいながら実は私は地震に気づかなかった。
 以上のように「けっこう揺れた」というのは、同室の人たちが「大きい大きい」と言い、ブラインドなどがけっこう揺れていたからで、実は、私だけが地震に気づかなかった。
 ブラインドなどが揺れて皆んなが「まだ揺れている」と言っているのに私だけは感じることができなかった。
 目では揺れているのを確認できるのに感じないというこの感覚は不思議なものだ。
 阪神大震災時もこのあたりで一番被害の大きかった曰く付きの古いビルの8階に居たのだが・・・、
 ということで、東南海地震よりも自分自身の三半規管の劣化の方が心配になってきた。

   3月や直下に断層帯を知る 

2019年3月14日木曜日

奈良ぶらり散歩

   12日に奈良東大寺二月堂の修二会に行ってきた。
 と言っても午前中から昼過ぎまで。
 12日の夜(正確には13日の未明)はお水取りの本番だから夜は大混雑と聴いている。
 反対にこの時間帯は空いていたので、静かにゆっくり座り込んでお参りをしてきた。

 参籠所の籠りの僧の皆さんはいよいよ見せ場といえば失礼だが元気に華やいでいた。
 ただ白い紙衣が煤汚れて荒行の痕を見せていた。

 参籠所には天狗が外を睨んでいた。
 確か修二会の開始に当たっては天狗を静かにさせる祓えがあったはず。
 有名な「神名帳奉読」を言うまでもなく、神も仏も全く一緒のこの空気感は嬉しい。

   午後は古代史の勉強に行ってきた。
 講師の小笠原好彦先生が前日の新聞に直木孝次郎先生の追悼文を書いていたので、それにサインをいただいた。
 おかしい言い方だが、これでただの切り抜きではなくなった気がする。
 小笠原先生は当日のテーマではなかったが、直木先生の論文に言及され、天平18年(746年)の正月、左大臣橘諸兄が元正太上天皇御在所の雪かきに官人らを召集し、そこへ諸兄と対立していた人事担当である式部卿の藤原仲麻呂がやってきて、集まった官人らをチェックして大伴家持、紀清人をはじめ半分以上を地方国司に飛ばした話をされた。そのことを先駆的に指摘されたのが直木先生だった。

 天智10年(671年)、唐の郭務悰が2000人で訪れ、近江朝廷が書紀で絁(あしぎぬ)など端数まで記して大量に貢いだのは白村江での捕虜の返還だったからという直木説は、そもそもは私の手元にある本に書いてあった説だったのだが、恥かしながら全く記憶にも残らないような乱暴な読み方をしていた。そういう風に本は読まなければならないと反省、反省。

 奈良公園には私よりも10歳は高齢と思われる方々が吟行をされていたが、驚いたのは誰もが100%電子辞書をお持ちで、それを眺めながら575を指折り数えておられたことだった。
 その前向きの姿勢にショックに似た感動を覚えた。

   梅の香や吟行媼の電子辞書

2019年3月13日水曜日

象徴天皇

   3月8日に「天皇家は仏教徒であった」という記事をアップした。
 実は原稿は5日に書いていた。
 そこへ7日に朝日新聞が「オピニオン&フォーラム」で「平成流の象徴天皇」を大きく掲載した。
 分量も内容も豊富なのでその解説は省くが、一橋大学渡辺治名誉教授の指摘は鋭かった。幾つかを摘んでみるとそれは・・・、
 1 平成の時代には憲法が求める象徴天皇像からの逸脱がさらに進んだ。
 2 それは保守政治の側からは侵略や植民地支配への「謝罪」の外国訪問要請だった。
 3 天皇自身も「おことば」で平和に触れ、慰霊の旅を始めた。
 4 その「おことば」には平和の思いが読み取れたので、昭和の時代にはなかったような、リベラルな言論人も許容し称揚するようになった。
 5 また安倍政権の「歯止め」としての期待がうまれ、それが以上のことを助長した。
 6 しかし、戦争の責任は国民が主体的に解決するもので、天皇に代行させるべきでない。
 7 安倍政権の政治を変えるのは「おことば」ではなく選挙を通じて行うべきだ。
 8 なぜ憲法が天皇に一切の政治的行為を禁じたのか改めて考える必要がある。・・・というものだった。

 非常に参考になったが考えることも多い。
 安倍政権の反動的政治が進む中、天皇が言外に安倍政治に否定的なニュアンスの発言をしたことが何回かあった。
 あの場合、リベラルな言論人は「天皇は政治的発言をすべきでない」というべきだったのだろうか。
 どちらかというと私は称揚まではしないけれどそれを許容し、対する安倍政治の批判を行ってきた。

 実際にはリベラルな人々の多くは、最近の天皇について語るのは称揚になりはせぬかと口をつぐむ傾向にあるのではないか。もっと筆を滑らせるなら、思考停止していないか。

 以前にも書いたが日本国憲法は前時代的な天皇制と民主国家という矛盾する制度を孕んでいる。
 そのバランスをどうとっていくかが現代人に課せられている。
 私はリベラルと言われる人たちが、その在り方等についてもっとフランクに語ってほしいと願っている。

   現天皇の平成という30年間が、近現代において初めて戦争をしなかった時代として幕を閉じようとしている。そして、30年間、天皇が一度も靖国神社に行かなかった時代として終ろうとしている。
 「それはすばらしいことだった」と、リベラリストは大きな声で言っていいのではないだろうか。

   沈丁花その香は分け隔てなく

2019年3月12日火曜日

啄木鳥と揺さぶられ症候群を考える 

 このブログで取り上げるのも嫌になるような児童虐待のニュースが頻発している。
 原則死刑廃止論者の私だが、これには「縛り首にすればいい」などとテレビのこちらで怒っている。もちろん本気ではない。
 一言だけ付言させてもらえるなら、テレビの雛壇で「児童相談所は何をしていたんだ」と「解説」されているコメンテーターの皆さん!これは、皆さんを含むメディアが「公務員を減らせ」「無駄を省け」「リストラこそ善」と煽りに煽った果てにたどり着いたニッポンの姿でないかという反省は何時なさるのですか?
 児童相談所の職員も、学校の教員も、もうへとへとだという国が先進国なのだろうか。
 丁度、統一地方選挙目前。冷静な目でもう一度確認したい。公務には必要な予算と人材が必要なのだ。
 国語辞典的には「無駄を省く」は正解だが、声高にそれを連呼しているポピュリストは党利党略、私利私欲に走っているのが現実だ。
 堅い話はこれでお終い。

わが家の柿の木
   児童虐待の中には揺さぶられ症候群というのがあるが、そのニュースを聞く度に連想するのは啄木鳥のことである。
 普通に木を突いているときも相当な音量でコツコツコツと聴こえてくる。
 窓を閉めていても啄木鳥がやって来たなとカーテン越しに目をやるほどだ。

   本格的に木に穴をあけるのはドラミングと呼ばれている。それはドドドドドド・・・・・と、まさしくドラミングである。いや、削岩機という方が近い。

   そこで、啄木鳥には揺さぶられ症候群を回避するどんな仕掛けがあるのだろうという連想・想像になってくる。普通なら揺さぶられ症候群間違いなし?
 えっ、揺さぶられ過ぎたのであんなドラミングさえ麻痺して厭わなくなった?

   さて、聖徳太子に討たれた物部守屋の怨霊が啄木鳥となって四天王寺を襲ったという故事は以前(四天王寺の鷹の止まり木)に書いたが、実は、守屋が討たれてすぐに、鎮魂のための寺が守屋の屋敷跡、現在の森之宮(守屋の宮)駅近くに建てられたという故事もある。

   森之宮神社(鵲森之宮)の伝えるところによると、たくさんの啄木鳥に襲われてその寺は破壊され、そのため6年後、荒陵の地に現在の四天王寺が再建されたという。
 そのすぐ近くで何年も勤務したことがあるが知らなんだ。

 掲載の絵は守屋の霊が啄木鳥を放っている絵である。「木つつき」ではなく「寺つき」というのが後に「きつつき」に変化したという。絵には「寺つき」と書いてある。

   子は知らずウッドペッカーそれは何
   (そんなアニメありましたよね)

2019年3月11日月曜日

今日は3.11

 3月11日は悲しい日である。
 8年前の大津波のLive放送はほんとうに辛かった。
 続いて起こったフク1の原発事故では未だに故郷へ帰れない人々が1月末現在で5万534人いる。
 メルトダウンした原発の工事は期間も予算も見通せていない。(経産省は22兆円と言っているが誰も信用していない。シンクタンクの日本経済研究センターは35兆円~81兆円と言って、さらにまだわからないと言っている)

 昨年の3.11はそれに輪をかけて悲しかった。
 親しい友人である奈労連の谷山さんが「午後から3.11の集会に行く」と言っていたその日の午前中に動脈瘤破裂で急逝した。今でも適当な言葉が見つからない。
 
   さて、何かのテレビで「近畿とは?」「関西とは?」というようなクイズがあった。
 いずれも現在の府県単位で語っていたから敦賀(福井嶺南地方)を含む福井県は含まれていない。
 そんなものだから大阪の人々でも福井は少し遠方だという意識がある。
 だが高浜原発からの距離を測ってみると、福井県知事のいる福井市は88.1km離れているのに対して、高槻市は75.8㎞、枚方市は79.7㎞、豊中市は82.4㎞、大阪市中央区だって92㎞だ。もちろん京都市や大津市はもっと近いし兵庫県の北部もそうだ。神戸だってそう変わらない。わが家だって変わらない。
 北風の冬に原発事故が起こったら確実に福井市よりも危険だろう。 
 だいたい琵琶湖が汚染されたら京阪でどうして生活する。

 今夕はわが駅前でスタンディングアピールをするつもりだが、丁度イクジイでお風呂と夕食の時間である。イリュージョンのような体が欲しい。

   すぐ逃げろと言われて出たまま帰れない生まれた子さえ小二になるのに

2019年3月10日日曜日

伎芸天の霊験

 8日に孫を連れて秋篠寺(あきしのでら)に寄ってきた。(娘が私たち両親をねぎらうと言って連れて行ってくれた)
   秋篠は次期皇嗣の宮家の名にもなった地であるが、有名な奈良の古寺というのが(善い意味ではなく)嘘のように静かであった。
 その理由は、奈良公園から少し離れているからだけではなく、この寺が「古都奈良の文化遺産」から外された理由はズバリ近所の競輪場のせいである。 
 だとしたら、古墳と隣り合わせにラブホテルが林立している古市や百舌鳥の古墳群は世界遺産になるだろうか。
 「公営賭博とは別だ、ラブは愛だ」と説明するのだろうか。ただ老婆心で言っているだけだが。

 ご本尊の薬師如来には「孫ができるだけ病に苦しまないよう」お願いしたが、秋篠寺で有名なのはこのご本尊よりも脇の伎芸天である。
 現存しているわが国唯一の伎芸天という希少価値よりも、ヴィーナス像を思わせる魅力的なフォルムに称賛が多い。
 技芸を司るギリシャの女神ミューズに例えられることもある。
 
 本堂から出ると、本堂のすぐ隣で鶯が何回も鳴いてくれた。
 わが家の近くではまだまだ練習中を思わせるが、ここ秋篠寺ではホーホケキョを完全にマスターできていた。
 「さすが諸芸を主宰する伎芸天だ」とファミリーで納得しながら言い合った。(タイトル参照)

   写真は写っている石柱のとおり「かみなり石」。帰りに寺の受付の人に「由来は何ですか」と聴いたが「知らない」と。

 家に帰ってから「日本霊異記」「大和路の昔話」を手繰ってみたが見当たらなかった。

 で、ネットによると、孫の座っている石に雷が落ちたので僧か住民かは知らないが雷のヘソを取った。
 以降、秋篠寺乃至秋篠の里には雷が落ちなくなったという。めでたしめでたし。(異説もある)

   【余禄】 9日の新聞に「わが家の菜園自慢」が掲載された。
 見出しは「紫色のミズナ」だがモノクロでは判らない。
 友人から「カラー版にしてほしかった」とメールがあった。

 前日、NHK「ぐるっと関西」の園芸家の畑さんと雑談をして夏野菜のアドバイスをいろいろ聞いた。
 「菜園自慢」に書いたが、私の心は半分「夏野菜」の方にに行っている。

   鶯や秋篠寺は汝が領土

2019年3月9日土曜日

すり替え仮面

   孫に付きあって観ているテレビの『おかあさんといっしょ』の中に『すりかえかめん』のコーナーがあり、元の絵の一部を一瞬にして別の絵にすり替えるが、最後はこどもたちに見破られて「あー!なんで見破られたんだ!!ガックリ」と言って退場する。

 こんなのは子供向け番組だけのことかと思ったら、大人向けのすり替え仮面が登場したので驚いた。
 番組名は『都構想』とやらで大阪府知事と大阪市長が職務を投げ出して選挙をするという。
 で、出直し選挙だと当選しても残余期間しか任期にならないからと、知事と市長の候補をすり替えて立候補する。
 投げ出し選挙のすり替え仮面だ。

 プーチン大統領がロシア連邦憲法の連続3選禁止規定を踏みにじって、忠実な部下であるメドベージェフを大統領にして自分は首相にすり替えたのと同じレベルの脱法行為である。
 脱法行為とは、文字面では明確な禁止規定がないことをいいことに、明らかに立法趣旨を踏みにじる行為のことである。世間ではそういう行為をするものを詐欺師という。

 そういえばイロハのイである「都構想」という言葉からしてウソであり、彼らの期待する案が通っても大阪市が無くなるだけで大阪都は実現しない。
 ただ、大阪府の中核を担う政令指定都市が無くなり幾つかの区に解体されるだけである。
 東京の世田谷区などは特別区以上の政令指定都市になりたいと言っているが、予算を含め権限の強まる政令指定都市にして行政を充実させたいと思う方が、少しは法律や地方自治を考えたことのある者の常識である。

 そういえば2015年の住民投票の際に維新は「これが最後の機会だ」と煽って運動を行った。それもウソだった。

 「二重行政だ」という目玉のキャッチフレーズも、市立住吉市民病院を廃止して産科・小児科の患者を放りだしたというのが現実だ。
維新市政によって大阪の「格差と貧困」の広がりはどの大都市部よりも深刻さを増している。
そのうえ維新は、「国保」の負担増や医療・福祉サービスの削減、防災そっちのけでの「カジノ誘致」、異常なまでのテストと競争おしつけによる教育破壊、「何でも民営化」による自治体の役割放棄など「異質な悪政」をすすめている。

ゴリ押しを進めているカジノのことを言えば、カジノは府民の不幸を食い物に、その儲けをアメリカのカジノ大手資本に売り渡すものである。

大阪人ならここは「ええかげんにしなさい!」と言ってチャンチャンとしないと大阪人の名が廃る。
こんな、職務投げ出し・すり替え仮面には「あー!なんで見破られたんだ!!ガックリ」と言わせて退場させたいものである。

   春愁や裏取引に似非公約

2019年3月8日金曜日

天皇家は仏教徒であった

   先日「廃仏毀釈」のことを書き、明治の国家神道政策が如何にひどいものであったかを書いた。間違っても「明治150年はすばらしい」などと言ってはいけないと反省している。
 
 浄土真宗本願寺派(西本願寺)の僧侶で龍谷大学財団理事長も務めた松島善海は、「明治天皇が崩御されるとき『朕が一生において心残りのことは、即位式を仏教の大元帥の法によって出来なかったことである』と述べた」と伝えている。
 天皇家自身も仏壇や位牌を引き上げられたり、菩提寺(泉涌寺など)を取り上げられたのだ。
 さらに、天皇になれなかった皇子はふつうには門跡寺院で出家していたことも忘れてはならない。
 天皇家は明治維新までは丸々仏教徒であったのだ。

   さて、私の孫は東大寺福祉療育病院にもお世話になっている。
 そしてその病院の門前には『一乗院宮墓所』がある。
 後水尾天皇の真敬親王と後陽成天皇の尊覚親王等の墓所である。
 いうまでもなく仏教によるお墓である。
 廃仏毀釈も親王(皇子)の墓所までは手が回らなかったのだろう。

 もう一度言っておくが、日本の歴史、日本の伝統と言えば神仏習合であり、主要には仏教であった。
 明治150年にかこつけて、この国は一貫して神の国であったというような嘘に騙されてはいけない。

 各村の鎮守の神社も、神社本庁の政治的な路線に影響されるのでなく、わが国本来のおおらかな神社や神々であってほしい。

   共存に不思議などない神仏

2019年3月7日木曜日

別離


 既にいない義父は、住居の建て替えの際、ほゞ意中のハウスメーカーを決めていたのだが、説明に来る約束の時刻に遅れたからと問答無用でその会社を除外した。
 約束の時刻を守れないような者の言うことは信用できないと、ある意味単純明快だった。

   私が現職だったころの思い出でも、仕事には報告期限とか、多くの提出期限があった。
 特に、金銭にかかわる事項は期日を一日でも超過すると時効が発生したりしたから当然といえば当然だった。
 体制も整わないままそういうことを一方的・形式的に上司から追及されると過重労働になる側面があるが、ある意味では目標を定めて期限厳守で仕事をするのは労働者として当然の職場モラルでもあったと私は思っている。
 
 そんな「前説(まえせつ)」をどうして書くかというと、民主運動の中でも、出来栄えは別にして、約束した期日と内容はやはり仕上げるというモラルが必要だと思うからである。
 ダンドリ君ではないが2019年4月に統一地方選挙があることは4年前から分かっていた。
 そこに向けてミニコミ紙を出そうということは4年前とは言わないまでも何か月も前から分かっていた。
 そして、期日直前にアクシデントがある可能性も何回も経験してきた。
 それを読み込んで準備するのが社会人といえないだろうか。
 最初に決めた期日である6日、少なくない仲間からファックスやメールで原稿が届いた。
 みんな大人でありモラルある市民である。ありがとう。

   閑話休題、 別離の挨拶は市民社会の常識であろう。
 ジョウビタキ♀が別れのあいさつに来てくれた。
 渡り鳥の渡りの不思議は一冊の本になるし、それでも解明できていないことがいっぱいある。
 このジョウビタキはどんなコースを取るのだろう。
 北朝鮮の貧困、中国北部の大気汚染、ロシア・シベリアの経済開発に負けずに来年も来てほしい。
 渡り鳥はあれこれ言い訳などせず渡っていくのが偉い。

   北帰行また秋あおうジョウビタキ

2019年3月6日水曜日

修二会

   古都奈良に春を告げるという言葉が枕詞のように定着した東大寺二月堂の修二会(十一面悔過法)が始まっている。
 近頃は宣伝のせいか非常に混雑するので行っていないが、いつかは夜中の行事に付き合ってみたいものだと思っている。

 堂内は練行衆が作った椿の造花で飾られているという。
 庭先の椿の花を見ながら心は二月堂へ飛んでいく。

 先日のシルクロードはサマルカンドの記事で、仏像はガンダーラを中心とするシルクロードでギリシャの神像と融合して誕生したことを書いたが、そのときにゾロアスター教とも融合したのは間違いない。
 東大寺二月堂修二会の行事は最終日前日の行事から「お水取り」という愛称のようなものが拡がったが、行事全体で見ると、「火の祭典」という方が近い。

 国宝だらけの古く乾ききった木造建築物の中でまで松明が踊り狂うのだから・・。
 そこにゾロアスター教のDNAを考える人も多い。
 興味が尽きないが適切な著作物を未だ見つけ出していない。

   青丹よし奈良に伝わるお水取り青衣の女人を聞き漏らすまじ

2019年3月5日火曜日

仏教抹殺

   2018年は明治150年ということで、あちこちで「明治の精神」なるものを称賛する発言が相次いだ。その残りかすは今も書店の店頭を汚している。

 極めつけは安倍晋三内閣総理大臣で、この1月28日、通常国会冒頭の施政方針演説で明治天皇の和歌を引用した。それは日露戦争時に戦意高揚をめざしたものだった。
 それは、現天皇が在位30年の式典において「平成の30年間は近現代において初めて戦争をせぬ時代だった」と感慨深く述べたものと対極をなしていた。

 結論を言えば、明治維新から昭和前半の帝国憲法下の日本は、国民に多大な犠牲を強いながら富国強兵に突き進んで大いなる破滅に突き進んだという一面が大いにある。
 そこに目をつぶり、明治の精神や明治150年を問答無用で礼賛するのは極めて危険なことだと私は思う。

 その危険な誤解を、廃仏毀釈という側面から事実をもって教えてくれたのが文春文庫『仏教抹殺』だった。
 2001年にタリバンがバーミヤンの摩崖仏を爆破した映像は記憶に新しいが、明治の廃仏毀釈では全国の寺院は少なくとも半減し、仏像等は焼かれ、壊され、一部は糞尿で汚された。タリバンの野蛮以上だったとも言える。
 梅原猛は、廃仏毀釈がなかったならば今の国宝の数はゆうに3倍はあっただろうと指摘している。

 この本は非常に公平に筆が運ばれており、幕末頃の僧侶の一部に大いなる堕落があり、寺院の一部は大名まがいの地主として庶民を苦しめていた一面も正直に書いている。
 しかし廃仏毀釈の本質は、富国強兵を目指す明治政府が、国家神道の下に祭政一致体制を築こうとしたものであり、そのための思想(信仰)統制であった。

 ただ、この本で学んだことは、各地でその程度の酷さには大きな違いがあり、有体(ありてい)に言えば二流三流の知事の方(ほう)が政府のご意向に忖度して酷かったということである。
 さらにもう一つ、それは前述の寺院側の堕落や搾取もあったからという側面もあるが、その地の庶民が廃仏に熱狂した事実も現代人は大いに知っておくべきだろう。

 今まさに統一地方選挙の時期であるが、維新の二流三流の首長がやたらに過激な発言で扇動し、一部の煽られた庶民が熱狂する場面を見ると、約150年前にこんなようなことがあり民主主義が壊されたことがあったなあと私はしみじみ連想を拡げるのである。

 故に、今こそ全ての日本国民に問う。廃仏毀釈150年も知らずに、やれ家(うち)は真言宗だとか法華宗などと言っている日本人のなんと多いことか。
 いやしくも仏教徒と言うのなら、明治150年などという標語に親和してはならない。と、チコちゃんに倣って(パクって)私は言いたい。

 おまけを言えば、奈良公園の鹿は一般には春日大社の神鹿と言われているが、江戸時代までの実態は神仏混淆下の興福寺の鹿でもあった。
 よって第一代県令四条隆平は興福寺の権威失墜のための思想統制の一環として、廃仏毀釈に乗じて鹿狩りを行い、鹿はすき焼きにされたため絶滅の危機に瀕したという。
 奈良の歴史はいくらか知っているつもりだったが、この話は初めて知った。
 ジビエ料理は嫌いでないがこの話は喰えない。

   廃仏を忖度し熱狂したる明治あり

2019年3月4日月曜日

仏像の故郷シルクロード

   日本文化を語るとき、「室町を学べば日本が判る」とか「基層は道教」とかいろんな角度から指摘することができるが、やはり「仏教芸術」は日本文化の大きな柱のひとつとして外せない。
 事実、国宝や重文に占める仏像の割合は小さくない。

 ところが、インドの原始仏教は仏像を製作しておらず、その偉大な思想は車輪(法輪)などによって象徴的に表現されていた。
 浅薄を顧みず語るのも気が引けるが、仏像芸術を生み出したのはインドではなく、インドの北西のガンダーラであった。アフガンからパキスタンあたり、そして広義には次に述べるウズベキスタンあたりである。

   土曜日、ウズベキスタンのサマルカンドの8世紀カフィル・カラ城遺跡の発掘調査団の報告を聞きに帝塚山大学に行ってきた。ソグド人の都市遺跡だ。

 私の興味のひとつはどのようにしてシルクロードで仏像が誕生したのか。そしてボヘミアンラプソディーで興味を得たその地のゾロアスター教とそれらはどう関わっていたのかであった。

 結論を先に言えば、私の興味と調査報告とはあまり噛み合わなかった。
 それでも、古代のクシャン朝はシルクロードの民らしく多様な宗教に寛容であり、ギリシャの宗教、ゾロアスター教、そして仏教が融合し、その中から仏像芸術が生まれてきたらしいことはよく解った。

 近頃やたらと「ニッポン偉い」と言って大陸のアジア文化を軽蔑する人々がいるが、大きな歴史のモノサシで語るならば、それは自分の両親を軽蔑しているようなものではないだろうか。
 井の中の蛙という言葉があるが、世界は広く歴史は深い。
 報告者の宇野隆夫教授が、発掘された「鶏の群がる聖樹の金冠」と韓国の金冠、そして藤ノ木古墳の金銅冠の類似性について熱く語っておられるのが印象的だった。

   梅の香や平城(なら)仏の故地はクシャン朝