2019年2月28日木曜日

掉尾を飾る

   政治向きの怒りのネタには事欠かないが記事を書いていてもあまり楽しくない。そこで2月の掉尾を飾るにふさわしい明るいネタはないかと探していたら、何ともノーテンキな明るいポスターが見つかったので、めでたしめでたし

 安倍首相は自民党の党大会で「自治体の6割が自衛官勧誘業務を拒否している」「だから憲法は改正しなければならない」旨演説したと報じられた。
 それに対して毎日新聞などは「自治体の9割が実施しておりファクト(虚偽)演説だ」と即座に報じたし、そのとおり嘘の扇動だろう。
 それに、個人情報保護という大原則があるのに自治体が住民の情報を勝手に提供する方がおかしい。
 不殺生戒を信じる仏教徒は「私の情報を提供するな」と抗議するといい。

 ただ私は、安倍首相が大嘘をついたことよりも、「だから憲法改正だ」とつなげたロジックが怖ろしい。

 「大事な自衛隊になり手がないという状況でいいのか」「それは自治体にもっと勧誘業務をさせる強制力が弱いからだ」「だから憲法改正が必要だ」「憲法を改正したら強力に自衛官を補充できる」・・・というロジックが怖ろしい。

 それでも人手不足になったらどうなる。
 「徴兵制」を想像しない人は思考停止と言わなければならないだろう。
 中学校時代の国語の試験で「主人公は何を言おうとしていたか」というような問題があったが。
 「安倍晋三は憲法を改正して徴兵も可能なようにしたいと考えた」あたりが正解ではないだろうか。

 このポスターの載ったFbにベテランの元自衛官が次のようなコメントを書いていた。
 ◆ ポスターが堅い厳しいイメージだと隊員が募集しづらいとしても、実際はそういった仕事なので、ポスターと自衛隊の現実とのギャップがありすぎるのもどうかと思います。 ◆ 体力と覇気と協調性のない隊員が増えるのは訓練してても困ります。 ◆ そういった隊員は育ちにくく、大半が1任期(2年・3年)を満了し辞めていくと思います。 ◆ 明らかに適性のない隊員が入ってくると、上司がハッパをかけますが、そのことは、その隊員にとっては苦痛でしかありません。 ◆ できない→厳しくされる→嫌になる ◆ そうなると、毎日毎日の訓練や人間関係が嫌になってしまい、そのような隊員は精神的に参ってしまいます。 ◆ 自殺者の多い自衛隊なのでその辺も心配になります。

 そうか演説もファクトならポスターもファクトなんだ。
 そうして自殺者が生まれているんだ。
 あまりノーテンキだ!なんてやっぱり笑っていられない。

   コスプレで兵隊募る二月尽

2019年2月27日水曜日

オキザリス

   何年か前に「花いっぱい運動」のようなもので「クローバーの種」を貰って撒いておいたのが増えている。
 冬の寂しい庭をグリーンカーペットにしてくれている。そして花が咲き始めた。

 こんな早春に花を見せてくれるのは嬉しいけれど、この花はどう見てもクローバーではない。私の古い記憶がよみがえって来て、その繁殖力の将来を想像してタジタジしている。

 写真のとおり、これはクローバーではなくオキザリスの一種である。
 オキザリスは「花カタバミ」、つまりカタバミであり、その繁殖力、生命力の強さから武家の家紋にもなったくらいだ。
 以前にピンクの大花のオキザリスを植えたことがあるが、増えすぎて増えすぎて、今では庭のあちこちでその退治に追われている。

 花の少ない季節に屋外でこのように咲いているのは珍しく、通行される方が「これは何ですか?美しいですね」と言ったりするのは嬉しい。
 それにしても役所はクローバーと言ってカタバミの種を配ってはいけませんね。

   片喰は武家の家紋かとオキザリス

2019年2月26日火曜日

#あきらめない

 #(ハッシュタグ)あきらめない が方程式。

   沖縄県民投票の結果に自公維の皆さんが大慌て。
 写真の維新の下地ミキオ氏は「反対が43万票、反対以外が71万人」との珍論を展開。
 その伝でいくと自公維は全く過半数に届かない得票数だから内閣を辞職すべきだ。

 讀賣はトップ記事にせず、NHKは「法的拘束力がない」と・・躍起になってことの大きさを隠そうとしている。
 安倍政権の大方針は、強行すればするほど庶民は無力感を覚え政権は安定するというものだ。
 だから伝家の宝刀「どちらでもない」という無理筋だった。

 「愛の反対は憎しみではなく無関心」との箴言は的を射ている。
 となると、勝利の方程式は #あきらめない ということだろう。

 マヨネーズみたいな軟弱地盤に90mを超えるような杭を76,699本打つという工法の大変更が必要だ。当初2,400億円といわれていた費用も2兆円を超えるという。
 常識的には辺野古基地はもう造れない。
 NHKや讀賣には申し訳ないが、辺野古基地建設は中止されるだろう。
 次は本土のヤマトンチュウの立ち上がる番である。

2019年2月25日月曜日

2月は逃げる

   2月は逃げる、3月は去る、あと数日で弥生3月、年度末になった。
 どこもそうだろうが、多くの組織は3月が年度末で4月あたりに定期総会となる。

 老人ホームのわが家族会もご多分に漏れずそうだから、決算だとか、総会議案だとか、役員対策等々の季節を迎えている。

 客観的には多忙になるがそんなことは何年も前から分かっている。そこで「あっ忙し、あっ忙し」というのは”怠け者の節句働き”と言われてもしょうがない。

 そんな中、新年度の役員に2~3人が新たに「いいよ」と言ってくれたらしい。(施設の相談員が声をかけてくれた)
 あちこちの組織で「役員の成り手がない」という声を聞くから、嘘のようにありがたいことである。
 まあ、それだけ大層な組織でないからなのだが、新聞紙上で「PTAの役員にあてられて困った」とか「自治会は大変だ」という特集が組まれる昨今だから、やはり嬉しいことだ。

 「来年は家族会主催のドッグセラピーをしてみるか」などという前向きの意見も多い。
 ”家族介護が幸せ”みたいな迷信を実際の行動で乗り越えていこうと思っている。

   半袖のアロハ姿のスタッフに今は夏かと尋ねる二月

2019年2月24日日曜日

小市民の日常

   毎勤統計への官邸の圧力、菅官房長官らによる東京新聞望月記者攻撃、大阪維新両首長の権限の私物化・・・おぼしきこと言はぬは腹膨るるわざなれど、その種のブログ記事を書くのも結構気力・体力が要るもので、少し休息している。

 ということで、些末な日常の話になると、近所の近商ストアにはウスイエンドウが並んでいた。わが家の庭のものと比べてハウスものであることは明らかだが、それにしても春を感じさせる。
 一方、イオンにはウスイエンドウの影もなかった。
 このあたりの差も日頃から不満のあるところだ。

 ウスイエンドウはもう少し旬になってからということにしておいて、ホタルイカとシンコを購入して食べた。
 こちらはハウスや養殖でもないだろうから、文句なしの旬と言ってもいいだろう。
 しかしイオンのシンコ、ちょっとパサパサだった。
 イオンの海産物は物足りない。

 「日常ごと」のついでに、2月14日のブログに書いた小説『宝島』、ご希望の方がおられれば27日にでもプレゼントさせていただきます。メールかコメントでお申し出ください。

   早いよね蕾ふくらむと人の言う

2019年2月23日土曜日

ハッタリのアンチエージング

   今年の冬も娘夫婦からファッショナブルなバースデープレゼントをもらった。
 娘の目からすると「爺くさすぎるぞ!」というメッセージなのだろう。
 冬の間は防寒第一でよかったが、春には少し気合を入れなければならない。

 妻が町中の人間ウォッチングで「年寄りは腰に手を回して歩いている」と言ったが、確かに、普通にぶらぶら散歩する時も何となく後ろに手を回して両手を握っている。
 そうしないと腰が痛いという訳でもないが、なんとなくその方が楽な気がする。

 一番がっくり来るのは写真を見た時で「これはどこの老人や!」と叫びたくなる。
 よくカメラマンが「ハイ!自然にして」とか「力を抜いて!」とか言うが、ほんとうに体中から力の抜けた老人が写っている。
 で、先日、新聞に「奈良公園の自然を守れ」の記事と写真が載っていたが・・・、
 カメラマンがこっちを向いたので、「力を抜いた自然体はNG」とばかり、サッと全身に力を入れて直立した。
 新聞を見た妻が「合格」と言った。

   気を抜けば影の薄れる写真かな

2019年2月21日木曜日

天平のタカラジェンヌ

   和銅3年(710)に平城京遷都が成り天平勝宝4年(752)に大仏が建立されているから、天平12年(740)というと奈良時代の最盛期であった。

 その時代、続日本紀によると天平12年正月元日朝賀の儀に「奉翳美人(ほうえいびじん)」が参列していたことがわかる。
 古代、翳という長い柄の大きな団扇で天皇の顔を隠していたことが高松塚古墳壁画からも知られている。
 美人は唐などの高級女官の官職名である。
 翳を持って天皇を覆うように何人もの奉翳美人が参列していた。

 続日本紀には、そしてそのあとに、女官の礼服ではない「更に袍袴(ほうこ)を著た」と書かれている。
 袍袴は男性用の袴、つまり男装したとある
 後の東大寺要録などからそれは、奉翳美人が本来の任務を終えた後、服装を男装に変え、勇壮な男舞を舞ったのであろうと考えられる。
 後代の白拍子の舞などの起源のひとつが天平中期の宮廷にみられたわけである。

 以上は、先日来記事とコメントで紹介した直木孝次郎先生の小論「奉翳美人」の骨子である。
 こんなことまで興味を持って研究されたのかとただただ感心するだけだ。
 私は先日、狐忠信で白拍子静御前にも触れて書いたところなので、追悼にもならないが駄文を書いてみた。

   泰斗逝き奉翳美人も劣化して

2019年2月20日水曜日

爺ばかの日

   孫の凜ちゃんが胃腸炎になったので療育園を休んでわが家で一日静養した。
 心配した嘔吐もなく休息させることができたのでやれやれ。
 マイペースで成長しているが、ベビーカー替りの三輪車を私が押して散歩に行けるところまで来た。
 まだ話せないが、祖父ちゃんの手を引っ張って「CDをつけろ」「TVをつけろ」と意思表示をするようになった。
 他人と比べたりせず、じっくり見ているとゆっくりではあるが確実に成長してくれている。
 でも正直に言うと、ショッピングモールで元気に遊んでいたりする子を見ると「何歳ぐらいかな。何もなければ孫もこれくらい・・・」などとつまらぬ考えが頭をよぎる。

   孫の夏ちゃんがクッキーを作ったといって持ってきてくれた。
 緊急連絡用に「子どもスマホ」を持っているので驚いた。
 しかし、そのスマホでは”できない”ので祖父ちゃんのスマホでゲームをやり始めた。
 所有者の祖父ちゃんが知らないのにそんなこと(ゲーム)をいとも簡単にやってのける。
 「そんなことを勝手にしたらアカン」と叱ると、「無料ゲーム」「WiFiだから通信料も無料」と言い返してきた。

 スマホでいえば、メールと電話ぐらいしかしない私より、後発の妻の方が格段に前を行っている。
 天気予報、乗り換え、ラインのスタンプ、果ては芸能情報まで・・・。

 そんな私でも、OB会などに行くとガラケーが多数派で、しかも「ガラケーは家に置いておく」「ガラケーさえも持っていない」という友人もいる。つまりSNSなど論外だと!
 井の中のなんとか”という声も遮断されている。
 ということで、とりあえずスマホを持っているだけで私は大きな顔が出来ている。

   スマホなど解るもんかと自慢する

2019年2月19日火曜日

ハリハリ鍋?

   勇猛な蒙古の兵士は鉄兜を鉄板代わりに羊肉を焼いて食べた。それがジンギスカン料理のルーツというのは真っ赤な嘘で、あえて言えば日本料理に分類される。
 日本人によって確立された料理で、日本人が考案して作った鍋がジンギスカン鍋である。
 テレビや旅の本によると、モンゴルの基本的な羊料理は「塩ゆで」とかいう。

 さて、鍋料理は郷土料理の側面が多々あり地域ごとにバラエティーに富んでいる。
 で大阪といえば、ハリハリ鍋と一昔前には言われたものだが、鯨が珍味や高級食材になったこの頃では死語辞典一歩手前である。

 そこで、ラムでハリハリ鍋はイケるのでないかと挑戦した。
 正確にいえば私が入浴中に出来ていたので、ハリハリ鍋というよりも水炊きに近くなったが、そんな不満を言うと熟年離婚に発展しかねないから黙っている。
   なので、読者の皆さんも「なんやラムしゃぶ?」などと言わないでほしい。
 そして、わが菜園では紫色の個性的な水菜がたっぷり収穫を待っていた。
 で写真のとおり、日本の鍋料理にはちょっと見たことのない色合いの鍋になった。
 考えようによっては、ポリフェノールたっぷり鍋でないかい(なぜか北海道弁)。
 
 ラムも好き、鯨のハリハリ鍋も好きの私としては大いに満足の鍋になった。
 料理が至って単純なため、妻も大いに賛同した。
 ラムのハリハリ鍋、騙されたと思って挑戦してみては如何。水炊き風にポン酢などもよろし。

   ラム肉も和風料理と水菜刈る

2019年2月18日月曜日

朝日歌壇に学ぶ

217日朝日新聞の「短歌時評」は歌人の大辻隆弘氏の「短歌と天皇制」というもので、端折って摘んで述べれば『太平洋戦争中の短歌は戦意高揚の具であった。その反省から出発した戦後短歌は皇室と関係を結ぶことに慎重だった。ところが「短歌研究1月号」は「平成の大御歌・・」を特集し、それに対して歌壇は無反応だった。なので気鋭の歌人瀬戸夏子は「戦後短歌は終わった」と慨嘆する。天皇制との関係は短歌の「原罪」であると同時に「強味」でもあるのだ。その二面性を見つめる成熟した視座が必要だ』というもので、門外漢の私などはただただナルホドと感心するだけだった。

そういえば、128日に安倍首相は施政方針演説の冒頭に「しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける」という明治天皇の歌を引用した。
この歌は日露戦争の戦意高揚のための歌であり、その後の日本が戦争の道を歩んだことを考えれば、現憲法下で首相が得意げに施政方針の冒頭に引用するのは全くもって正しくない。
   歴史家の半藤一利氏が戦前の教訓として「国民的熱狂をつくってはいけない」「抽象的な観念論を排しリアリズムに徹せよ」と指摘されていたのは、遠くない将来、リーダーであるべき政治家がこういう演説をすることの危険性を予見しておられたのだろうかと私は以前にこのブログに書いた。

さて17日の「短歌時評」の掲載されたページは「朝日歌壇」の一部である。その(朝日歌壇の)入選作のひとつに次の歌があった。
 戦争に「どちらでもない」はなかった 基地ある限りどちらしかない(神戸市)加古裕計
選者である永田和宏評は「沖縄の県民投票。どちらでもないという保留票が加えられた不思議」だった。
そういえばそうだ!と私はこの歌の視点に目を覚まさせられた。

蛇足ながら、選者の永田和宏氏は現代政治状況にも非常に鋭い批判を堂々と発表されており、かつ、宮中歌会始の詠進歌選者というから、氏を認容する現天皇家と先の演説をした安倍政権の不協和音の象徴かもしれない。もし不当な圧力があれば守りたいものだ。

同じ日の新聞の別の頁に直木孝次郎氏の死去も報じられていた。
直木先生は古代史の大家で、私も著書をいくつか持っている。
古代史とは別の顔では有名な歌人でもあり、歌会始の召人(めしゅうど)になったこともある。
先ほどから述べてきた朝日歌壇にも度々入選していて、「いわゆる戦争法」が強行採決された年でもある2015年には朝日歌壇賞を受賞した。その歌は、
   特攻は命じた者は安全で命じられたる者だけが死ぬ だった。

   反骨の歌人逝く日の新聞に「どちらでもない」の欺瞞問う歌

2019年2月17日日曜日

源九郎稲荷

   JR郡山駅から近鉄郡山駅に向かう途中に正一位源九郎稲荷神社がある。
 人形浄瑠璃や歌舞伎でも特に有名な「義経千本桜」の狐忠信が祀られている。

 九郎判官義経が静御前に形見として与えた「初音」の鼓。静御前が捕らえられ鼓が奪われようとしたそのとき佐藤忠信が現れ相手の藤太を討ち取る。義経は忠信に源九郎の名と鎧と、後にはその鼓を与える。実は「初音の鼓」は大和の雄狐と雌狐の皮で作ったもので、忠信は実はその夫婦狐の子狐。べんべんべんべんべんべんべん・・。

   4月には上の写真のとおり子どもたちの白狐行列があるが、残念ながら私は実地では見ていない。
 ただ、あけっぴろげな神社で「記念写真用のお面」も置いてあった。
 私はスマホの自撮りを試してみたが上手く撮れないので、神社の方にシャッターを押していただいた。
 ただお面を持っただけの棒立ちだったが、帰宅してから、ほどなく遊びに来た孫の夏ちゃんに「お祖父ちゃんは狐に会って来た」とひとしきり話をした。
 神社には、演じた役者の「お礼参り」の書状や写真がいっぱいあった。
 小さいが味のある神社である。

   春めいて源九郎社の白狐の面

2019年2月16日土曜日

チキンラーメン

   チキンラーメンの発売日は昭和33年(1958)8月ということだが、妻と顔を見合わせて「初めて食べたのはいつ?」と言い合ったが特に強烈な記憶はない。

 私の強い記憶は昭和37年ごろ、年末のアルバイト先で残業の夜食が毎日それだったことである。
 キャベツの千切りだけが加えられていたものだが、今でも覚えているのだから、鶏卵100個を泡立てるような結構ハードな労働の後のそれは美味しかった。

 そういう記憶のせいか、その後いろんな即席めんが出たがチキンラーメンのあの味は今でも好きだ。
 即席めんをそれほど食べる派ではないが、今でもチキンラーメンとラ王は保存してある。

 朝ドラでは遂に本体は完成した。
 洗脳されやすい私はその日の昼にチキンラーメンの袋を開けた。
 そして、大阪人の習いのとおり、横には軽くご飯を付けた。

 余談 テレビで原田伸郎が池田伏尾温泉・不死王閣を訪れた際、主人曰く「池田ということでチキンラーメンの安藤百福夫妻もよく来てくれはりました」「夫人はテレビの俳優よりよっぽど美人でした」には安藤サクラの顔を思い浮かべて笑い過ぎた。

   老木の花若々しく盆梅展

2019年2月15日金曜日

節分後の豆ご飯

   大阪で「豆ご飯」というと2派に分かれる。
 私は基本的に「ウスイエンドウ(碓井豌豆)」の豆ご飯派である。
 ウスイエンドウの豆ご飯を食べると”春真っ盛り”と感じる。
 ウスイエンドウは東京の普通のスーパーには置いてなく、「エッ、グリンピース?」と誤解する。
 これは昨年、東京の友人に確かめた。
 言っておくがウスイエンドウはグリーンピースではない。

 さて本題。私は昔、阿倍野近辺で働いていたこともあり、当時阿倍野にあった廣田屋の大豆の豆ご飯も無視し難い。今は住吉大社の本店と阪急梅田店だけらしい。

 友人から自家菜園で採れた野菜が送られてきた。どういう訳かクッション代わりに豆の入った袋が詰められていた。

 想像するに節分の豆を貰い過ぎたのだろう(ちょっと上等な感じなので違ったかもしれない)。大豆を煎ったものである。
 といってわが家の節分も終了した。
 それに私はどちらかというと、お酒のあてに乾き物は余り得意でない。

 そんな私を察して妻が大豆の豆ご飯を炊いた。
 孫が来た時にも栄養満点になるだろう。
 節分の福豆を水で戻してから一つまみの塩を振って炊いたものである。
 素朴な味である。悪くない。野趣に近いだろうか。
 総じて豆類が好きで五穀米や麦飯の好きな妻は大いに気に入っている。
 廣田屋に負けない”お料理たる豆ご飯”であった。

 二度目は戻したときの水で炊いたのでさらに香りが引き立った。
 小さい孫の凜ちゃんもパクパク食べた。
 料理した妻は得意顔だった。


   豆打ちの話をあてに豆ご飯

2019年2月14日木曜日

あったかもしれない?島



















 たかが小説であるが、どうしてこう頭がくらくらして胃袋が熱くなるのだろう。
 時代がほぼ自分の青春と重なるからだろうか。
 小説後半の頃、私はヤマトで”沖縄を返せ!”とシュプレヒコールをしていた。だが小説のようなウチナーの心はほとんど知らなかった。
 どこまでが事実でどこが創作なんだ。教えてほしい。
 
 あまり大きくない字で541ページは長編だろう。
 私はメールのチェックも忘れて読みふけった。
 
 12日には早朝から「奈良公園壊し」に抗議する行動にも持参し、往復の電車の間中も読みふけった。
 午後から参加した歴史講座も開始直前までも読んだ。
 最終章近くは帰ってから家で読むのが待てなくて、帰路のイオンの通路のソファーで読み終えた。

 小説は、その時代のアメリカ政府と日本政府の薄汚さがこれでもかと暴かれている。
 そんなことのすべてがあったかもしれない。
 こんな人間がいたかもしれない。
 私自身主人公たちと小説の世界を一緒に激走した記憶が湧いてくる。

 しかし真藤さん、その後の沖縄は翁長知事を選んだし、デニー知事を選んだぞ。
 青春とは体力や齢ではなく心なんだと思う。
 直木賞受賞作品真藤順丈著『宝島』、ハウツーものにはない熱いめまいを貴方にもくれることだろう。
 
   夢にまで出るのはごめん痛快小説

2019年2月13日水曜日

馬はいないが鹿は嗤っている

 「下々の人間は黙っとれ」というシーンを度々見るようになった。
   奈良公園高畑地区に高級リゾートホテルを建設するという奈良県政もそうだ。
 名勝奈良公園ということで非常に厳しい規制を甘受してきた住民であるから、ほんとうに奈良公園のためになると思えば少々のことでも甘受できると思う。
 しかし、県の説明には多くのおかしなことがある。
 そしてアリバイ作りのような説明を「行なった」という。
 どうしてそんなにすばらしい計画なら徹底的に「判ってもらう」というような説明ができないのだろうか。
 「噂の真相」ではないが何かおかしい。
 この国の政治では、奈良県政では、人の血が通っている気がしない。

   12日の朝8時半から工事着手に抗議して人々が集まった。
 応対する中間管理職かそれ以下かもしれない県職員には答えられる余地は少ないかもしれない。
 しかし、多くの人々が納得していないという刻印を刻んでおく必要があると思って私も参加した。
 自然環境や文化が蹂躙される先には人権の蹂躙が控えているだろう。
 京都市で「観光公害」が問題にされているときに、この知事の頭の鈍さは何だろう。

   古都統べる守に最も欠けたるは歴史と自然へのリスペクトなり

2019年2月12日火曜日

自家製ポン酢

   たくさんの橙(だいだい)と「ポン酢(ポン酢醤油)のレシピ」をいただいたので妻が挑戦した。
 材料は、橙、酢、醤油、煮切り味醂、昆布、鰹節で、レシピに有った割合で煮て?何日間か寝かして完成。
 橙を大事にしたいので他の柑橘類は加えなかったので、まったりとした味になった。
 大阪で有名な旭ポンズの親父がてっちりのづぼらやに通い詰めて作った味とまでは言わないが、親父さんの苦労がしのばれた。

 昆布も鰹節も結構使ったし、原材料費は手作りだからと決して安くはなかった。
 「あれだけの橙でこれだけ?」と考えると、市販の中でも安くない品物があるのも納得できる。
 私は引きあげた鰹節と昆布のフリカケが大いに気に入ってご飯のお伴にしている。
 
 就職して初めて水炊きやポン酢を知った。1960年代後半のことだ。宿直室で先輩方から教わった。
 ポン酢醤油が出たのはまだまだ後であったので、ポン酢と醤油と七味などを各自が調合して食べていた。
 近頃は「〇〇鍋の出汁」というのが豊富に出回っているが、ポン酢醤油ほど戦後の家庭の食卓を変えたものはないのではないだろうか。
 私は「カレー鍋」「坦々鍋」以外なら、ただのポン酢でいただく水炊きが結構好きだ。
 ただし、鶏は骨付きぶつ切りですな。(イオンには滅多に出てこない)

   ポン酢とはオランダ語という説楽し  

2019年2月11日月曜日

建国記念の日(洞村と神武天皇陵)

   建国記念の日というと、私は高校生時分に寝ずに読みふけった住井すゑ著『橋のない川』を思い起こす。
 小森部落の誠太郎が親戚のいる路(みち)部落に行くというと祖母のふでは「それがええ。路は立ち退きになるというさかい」と言い、「来年は京都で即位式があるやろ。路を立ち退かしたら峰山さん(畝傍山)がまるまる神武ご陵になるさかいな」と解説する。
 小説の路部落は現実にあった洞(ほうら)村のことで、即位式とは大正天皇の即位式だった。
 
 これを機会にと村の改善を考えた村の指導者、それを後押しした融和運動の指導者の指導と重ねて、神武天皇陵を飾り立てたかった政府が強行した”村まるまる”の強制移転だった。
 政府の側からいえば、「初代天皇の神地、聖跡を見下ろす神山に穢多村があり、その土葬墓が存在するのは言語道断、恐懼に堪えざること」と正直に文書に残っている。
 事実、移転反対者には警官が説得に当たり、土葬墓の移転に際しては「一片の骨さえ残すな」と警官監視の下に掘り返された。

 そも神武天皇の和名カムヤマトイワレヒコは6世紀の継体天皇の王宮イワレタマホノミヤからして6世紀に創作された神話上の天皇という有力な説があるが、約200年後の8世紀に編纂された記紀によると、その陵は、日本書紀が「畝傍山東北陵」と書き、古事記は「畝火山之北方樫尾上」と書いている。
 ということは、少なくとも記紀の上でさえ現在のような「畝傍山の下」ではなく、「尾根の上」となる。
 なので、幕末段階では普通に記紀を読んでそれは畝傍山中の「丸山」だと多くの人が考えていた。

 しかし、幕末から明治維新のあわただしい状況下で「丸山」に隣接する洞部落を全村移転させる時間的余裕もなく、やむを得ず麓の小さな土饅頭二つを神武天皇陵だと決め、橿原神宮を建て、その後洞村を全村移転させ、さらには昭和15年、紀元2600年に大々的に用地買収と整備事業を行い、日本史でいえば”ついこの間”作られたのが現神武天皇陵である。そして建国記念日とそれにまつわる”歴史たる神話”である。

 神話が滑稽だと笑うつもりはない。神話は所詮そういうものである。神武天皇が127歳の長寿は微笑ましい。
 しかし、神話を適当に摘んで「事実」だという先には独裁政治や戦争の顔が見える。
 歴史を学ぶということはそういう視点を養うということだろう。
 安倍内閣の下で進められる天皇の代替わり行事もそういう理性的な目で見ることが大切だと私は思う。
 本日は神話という蜃気楼の上に建てられた楼閣の日である。

   混ぜるな危険神話と歴史と

2019年2月10日日曜日

古墳ブーム

   2月2日3日と「古代史を推理する」という記事を書いたが私の周りでは全く反応がなかった。
 まあ、相当マニアックな感じで書いたからそんなものだろう。

 しかし世間では相変わらず相当な古墳ブームである。
 そんな中、桜井市が箸墓古墳の周濠を歩く企画を発表したと新聞で読んだので応募した。
 応募受付は2月1日からで先着100名というので、確実に2月1日の第1便で到着するよう郵送した。
 ところが、2月1日だけで699名、その後8日までに940名の応募があったらしい。
 で、抽選になったと新聞記事になったその日に「落選通知」が届いた。
 箸墓おそるべし。

   ちなみに、箸墓古墳は定型化された大型前方後円墳として最も古く、3世紀の中葉頃まで遡る。
 宮内庁は倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の墓と治定しているが、白石太一郎先生は実在した卑弥呼の墓である蓋然性はきわめて大きい。造営は後継者の台与によってなされたものであり、初期ヤマト政権の成立を象徴する記念碑的構築物であったといえる。と述べられている。
 落選は残念だった。
 北側の大池の水抜きがされるのに伴い、周濠まで行けるはずだった。

 それにしても、何回も(百)襲われた姫という名は何だろう。
 姫は毎朝帰ってしまう夫である大物主神に「帰らないで」といい、大物主神は「明朝櫛笥に入っているから驚かぬよう」応答した。しかし櫛笥に居たのは小蛇であったので姫は驚いた。で怒った大物主神は三輪山に帰ってしまい、姫は悔いて陰(ほと)を箸で突いて亡くなった。
 ある人の曰く、これは人は神の姿を見てはならぬということなのだと。
 神武天皇や現人神を利用しようとする神社本庁の偉いさんは心するべきではないか。

   冴え返る古墳の主は黙ったまま

2019年2月9日土曜日

エナガ

   テレビでは若い女性タレントがやたらに「かわいいー」とか「あまーい」を乱発しているが、一方で野鳥を見ると「こわい」と言ったりする。ええ加減にしなさい。
 そして「かわいいー」などという言葉はじっくりエナガを見てからにしてもらいたい。

 わが家周辺では賑やかな「カラ(シジュウカラなどのカラ)の混群」としてやってくる。
 エナガ、シジュウカラ、ヤマガラ、コゲラ、メジロなどが集団(混群)でやってきて忙しなく飛び回る。
 あっ、カメラ、カメラと言っているうちに去ってゆく。

 わが国最軽量クラス(スズメが24g程度に対してエナガは5~8g)で、頭の上を飛び回っているときなど自然に楽しくなる。

 ものの本によると、エナガは母親以外のメスやオスも育児に参加するというから、児童虐待などのニュースの続く人間様など威張っていられない。
 一夫一婦で子育てをするペアを「つがい」というが、哺乳類約4500種では多く見積もっても10%以下だが鳥類約10,000種では90%以上が一夫一婦で「つがい」になる。
 「つがい」は抱卵、子育てに有用だからだろうから、一夫一婦は単純な財産がらみの欲得ではなく生物としての「進化」かもしれない。

   エナガたちそんなに急いでどこへ行く

2019年2月8日金曜日

私の菜園自慢

   NHKの「ぐるっと関西お昼前」の園芸の畑先生が遠くないところにお住まいである。
 先生曰く、「ホームセンターよりも園芸専門店の苗や土が良い」とのことで、私もできるだけ園芸専門店に行っている。
 もちろん社長というか大将も専門家で、尋ねればいろんなことを教えてくれる。
 そこで私は「老夫婦だけだから白菜の葉っぱを外から数枚ずつ取って食べている」と言うと、「それでは白菜の生命力が落ちるからよくない」とアドバイスされた。

 しかし、今年も外から取っていって食べている。味が落ちたり元気が亡くなったりはしていない。
 少しずつ身を剥いでいくのは白菜には申し訳ないが、一度にバサッと刈り取るのも白菜にとっては五十歩百歩だろう。

 今年は白菜も丸くなった。水菜は食べきれないぐらい盛んだ。そして初めて挑戦したスティックセニョール(枝ブロッコリー)もよく出来た。
 あとは毎年恒例のルッコラで、わが家の庭と相性がよく、この冬は野菜をよく食べた。

   冬野菜春を知らせて固くなり

2019年2月7日木曜日

早春

   2月4日が立春、5日が旧正月で、文句なく?春が来た。早春である。
 立春は太陽黄経315度で、冬至から数えると(365日×3節気/24節気)過ぎた日というか、冬至(黄経270度)と春分(黄経0度(360度))の中間の日。
 あと(365日×3節気/24節気)すると春分となる。

 旧正月は24節気の中の立春の次である雨水を含む陰暦の月の朔日。
   今年はそれが1日違いで隣り合った。こういうことがあるから立春と旧正月を一緒のものだというような誤解がある。
 それに、旧暦大晦日の行事の多くが節分に移っていることも誤解の一因。

 そんなことよりも、5日が旧正月ということは、前日の4日は旧12月30日。
 2月4日は月の暦では12月の大晦日なのに太陽の暦では立春。「年内立春」という奴である。
 昔の人は「年の瀬だ」と感じていたのだろうか「もう春だ」と感じていたのだろうか。

   庭に来たスズメもヤマガラも心なしかウキウキしていた。

   早春や20%オフの冬帽子

2019年2月6日水曜日

憲好芳志

 タイトルは「憲法好きな良い心」=憲好芳志。ダジャレである。
 選挙の年のダッシュに備えたチラシを考えていて、チラシの一番頭に次の文句(キャッチコピー)を入れようかと考えた。
   おぼしきこと言はぬは腹膨るるわざなれば集はむとぞ思ふ

 で、憲好芳志を思いついたわけ。(徒然草第十九段)

 大阪に限っていえば、維新府市政の傍若無人な振る舞いに反対する幅広い連帯を大事にして奮闘しつつ、安倍自公政権に追随して市民要求を軽んじる自治体の改革を目指すという複雑な選挙になるかも知れず、単純に「今度も頼むで」では済まない気がしている。

 ここは、腹ふくるることのないようホンネで大いに語り合うというか、みんなから話を聞かせてもらいことが大切だろう。で、集おうよ!と呼びかけるつもりだ。

 近年特に、国会もマスコミも、毎日どうも歯がゆい気持ちがある。
 毎月勤労統計調査のそもそもは、国、都道府県を問わず、法律が要請する行政水準を到底維持できなくなるほどの公務員削減に遠因があるのではないだろうか。
 2018年の復元を隠していた影に大臣や政治家の介入があったのかなかったのかがポイントではないか。
 ・・・しかし報道されているところはなにかズレていないか。

紅梅が咲き始めた
   加えて、賃金構造基本統計調査は、総務省と相談をしなかったところがポイントだろうが、しかし、そんなことを何もかも一緒くたにして大々的に報じるというならば、公務員の莫大な超勤未払い賃金を「こんな法律違反を許しておいていいのか」と何故報じない。
 郵送手法そのものには大きな問題はないように思うのだが。

 そんなことあんなこと、きっと、みんな語りたいことが山ほどあるに違いない。
 集いが楽しみだ。
 おぼしきこと言はぬは腹膨るるわざなれば集はむとぞ思ふ

   立春と同時に吹きたるようずかな

2019年2月5日火曜日

冬の奈良公園

   春日大社の奥でアトリを見つけた。スズメみたいに小さい鳥なので「あっアトリだ」と思ってシャッターを押したのだが、帰るまで「ほんとうにアトリだっただろうか」と半信半疑だった。薄暗い森の奥で枯葉と保護色みたいだったが、拡大(トリミング)して見たらやはりアトリだった。
 小さいけれど美しい。

   次の写真はチャッチャッチャッチャと言っていたからウグイスだと思うが、逆光の樹の上なものでよく判らない。
 しかし何となくウグイスの感じがする。
〽 時にあらずと 声も立てず
  時にあらずと 声も立てず だ。
 遠くて小さかったというのは言い訳で、近頃の言葉だと「フォーカス」だが、要するに「ピント」が合っていない。ピンボケである。

   最後の写真は冬鳥の中でも貫禄を漂わせているツグミ。
 いつ見ても姿勢が良い。
 やましいところがなく逆境にあっても頭(こうべ)を立てつづけているようで、大いに見習いたいものだと自身を振り返っている。

 以上の野鳥は、東大寺の声明(しょうみょう)について受講するついでに撮影してきたが、奈良公園のメインストリートはインバウンドでその賑やかなこと。それはそれでよし。
 ただ猿沢池前・南円堂下の土産物屋にしても、若草山周辺の土産物屋にしても、冬だからか土曜日だというのに閉まっている店が多い。
 観光振興だというなら、こういう基本的なことから改善する必要がないか。
 古くからの利権(営業権)に胡坐をかいているように私には見える。
 そうしておいて、環境を破壊して高級ホテルですか?
 あえて言うが、奈良県政は田舎者だ。

   東大寺の教学部長は修二会について「その理由がよう解らんものもあるが、それも含めて教わったとおりに引き継いでいきたい」と言っていろんな声明を聞かせていただいた。
 お経は漢文だからその訳はそれほど難しいものではないが、それはそれとして、声明の心地よいリズムとメロディーは確かな伝統であり文化だと思う。

   夏鳥がいて冬鳥のいる不思議

2019年2月4日月曜日

ありがた~い節分会

   昨日2月3日、去年に引き続き友人のお寺の節分会を友人たちと一緒に行なった。
 勤行では節分会に集った面々の厄除けを住職から高らかに?祈ってもらった。(写真1)
 現実問題を心の持ち方や神仏に逃げ込む気はないが、近頃の社会は、ほんとうに追っ払いたい邪鬼が多すぎる。
 こちらの退治は選挙で決着を付けなければ・・・。

    勤行の次は言わずと知れた福豆行事で、赤鬼が登場して暴れるも、参加者全員から豆を撒かれ、住職の説法にひれ伏すという宗教劇?をKさんに楽しく演じてもらった。
 福豆の最後は私の強い希望で大阪地方の古式にのっとり、「福は内、鬼は外、戌亥の隅にどっさりこ」と大きな声で唱和して見事に劇は締まった。(写真2、これはひげ親父さんのFBから頂いた)

 私はこのごろ、よう意味が分からんことでも、大問題がない限り「言い伝え」は大事にしたいと思っている。
 古典芸能だけが文化や伝統ではないはずで、各自が親の世代から聞き覚えた「言い伝え」を途切れさせずに次世代に伝えるのが大人の役割だと感じている。
 ただ「戌亥の隅にどっさりこ」は12月7日『鬼が笑う話』で書いたとおり、古い大阪周辺のしきたりだった。
 「伝統野菜の復活」みたいな話があるが、是非とも上方文化としてよみがえらせたい。

 もちろん帰ってから、妻と二人で格調高く豆を撒いたのは言うまでもない。
 息子ファミリーも「手作り巻きずしで丸かぶりパーティーをしようか」と誘ってくれていたが、4日は朝から娘の方の「孫守」なので断わった。
 子どもたちの両家にはミニコミ紙に書いた「戌亥の隅・・」の記事を渡してある。きっと、そのように唱和してくれているに違いない。

   そのあとは席を変えて、厄除け善哉に移った。
 Iさんのお母さんが家中の神仏に御鏡(小型)を供えたからと言ってそのお下がりを十あまり持ってきてくれた。
 これの開き方はわが家でテスト済みであったので、ワインのコルク抜きのスクリューで引っ張り出したが、中には手に負えずプラの上から包丁を入れたのもあった。
 餅きり包丁は私が持参したが、わが家で確実に100年以上経っている骨董品だ。(写真3)

 少し昔の風習では、厄年の人が多くの人に善哉を振る舞うと厄がそれだけ取ってもらえるなどと言ったので、街の中で歩いている人を捕まえて大勢に振る舞っていた。
 反対に、親が子どもには「厄が移るから食べたらあかん」などとも言われたりした。
 まあ、一人ではしんどい世の中、荷を分かち合う精神というのでいいのではないだろうか。

   善哉と言いながらビール、ワイン、日本酒のお供えが続々とあり、場は新年会・・・、ただ目出度い話だけでなく、現職の後輩の皆さんの危機的な職場・仕事の話に「何か応援できないものか」と深く深く考えさせられた。
 これは書き始めたら長くなるので割愛。ひげ親父さんのFBに幾らか紹介されている。

   ひととおりの様子はそんなものだったが、節分会の基本テーマは厄除けであってボケ封じではなかった。ナニーッ!
   私はみんなの福豆の土産に付けて「焼い嗅がし」用の柊の枝をたくさん持参していたのだが、ご本尊に供えたままみんなに渡すのを忘れてしまった。
 嗚呼!勤行の言葉の中に「ボケ封じ」を入れてもらうのだった。
 (写真4)は住職から送信してもらった柊。
 参加者の皆さんにも、ごめんなさい。

   最後に、今年の福豆のキャッチコピーは「善い年にするために力を合わせましょう」。(写真5)
 小指の痛みを全身で!という言葉もある。今こそほんとうに力を合わせることが大切だ。

   厳かに宗教劇や鬼は外

追伸 焼い嗅がしの写真を追加しました

2019年2月3日日曜日

古代史を推理する Ⅱ

 昨日の記事の冒頭で、古代史関係の本の中には論理的でない説も多いと書いたが、結局、緻密な考古学の積み上げだけでは巨大な伝仲津姫陵の仲ツ山古墳(藤井寺市)や伝履中陵である上石津ミサンザイ古墳の真の被葬者も昨日は解らなかった。よって、冒頭の主張を忘れて空想(妄想)を書いてみたい。君子は豹変するのだ。

   先ず、ヤマトにとって東海道新幹線ないし国道一号線に当たるのは大和川であった。その亀の瀬近辺の要衝を抑えていたのは葛城氏で葛城氏は大王家とも結びつきつつ、氏族中心に大きなネットワークを拡大していた。
 神功皇后(息長帯日売命)の母も葛城だった。
 後の平群、巨勢、波多、蘇我、紀氏などなど。それは河内、丹波、因幡、越まで伸びていた。
 つまり、大王家以前に河内を開拓していたのも彼等であった。例えば、一族の依網吾彦(よさみのあびこ)などはその名のとおり住吉、我孫子、松原の天美などを開拓していた。
 オーバーラップして考えれば、住吉の神もこの地を先行して開拓していた豪族(同族)だろう。(注:今の大和川はなく河内湖に北流していた)

 そこで応神天皇に話を戻すと、母神功皇后と一心同体のように奮闘したのが葛城に繋がる武内宿禰であり、記紀での活躍もずば抜けている。

 さて、神功皇后も武内宿禰も架空の人物だという論があるが、そうであるなら応神天皇の真の「父母」は一切記録や記憶に残されなかったのか。
 仲哀天皇は突然死んだとされている。神の託宣を疑ったからだとされているが、その場には仲哀と意見を異にした神功と武内宿禰しかいなかった。
 そも応神は仲哀死亡から十月十日後に誕生した。記紀自身が仲哀の子であることに疑問符を付けているように見える。
 「皇后、大神と密事あり」(住吉大社神代記)との記録もあるといい、正体が非常に解り難い住吉の神が実は武内宿禰と類推する説もある。

 とまれ、武内宿禰は書紀では孝元紀、景行紀、成務紀、仲哀紀、神功紀、応神紀、仁徳紀、允恭紀、継体紀など21件に及ぶのでそのことが反って実在性を疑わせているが、しかし、武内宿禰とは市川團十郎、笑福亭松鶴、木村庄之助のような名跡扱いされていなかったか。つまり武内宿禰は複数「襲名」していたと考えられないか。これは小笠原好彦氏が葛城襲津彦について検討された考え方を援用したのだが。

 遠く考古学から離れてしまったが、巨大な伝仲津姫陵の仲ツ山古墳(藤井寺市)や伝履中陵である上石津ミサンザイ古墳が実は武内宿禰A及び武内宿禰Bの墓だとしたらどうだろう。
  書紀允恭紀には、葛城襲津彦の孫玉田宿禰が反正天皇の殯(もがり)をサボって酒宴したのを天皇の使者に見つかり、使者を殺して武内宿禰の墓に逃げ込んだというのがあり、アジールであったと推定される。
 そこで反正天皇陵であるが、現反正天皇陵である田出井山古墳は小さすぎて大王墓とは考えにくいというのは定説に近くなっている。これで百舌鳥の巨大古墳は出尽くした。

 昨日の記事では白石太一郎氏は、考古学的な築造順にいえば大仙陵古墳(仁徳陵の蓋然性が高い)→土師ニサンザイ古墳(履中陵の蓋然性が高い)→岡ミサンザイ古墳(藤井寺市伝仲哀陵)だと指摘されている。
 だとすると応神の父である仲哀の墓が履中よりも新しいのはおかしい。
 実は岡ミサンザイ古墳こそが反正陵ではないのか。
 そして玉田宿禰は仲ツ山古墳(武内宿禰AorB)に逃げ込んだとするとどうだろう。
 真の仲哀陵は津堂城山古墳、河内大塚古墳など想像の翼は広がるがこれ以上の想像には疲れた。
 すべて空想の世界に遊んでみた。

   年度末時空を超えた説明会河内王朝はありやなしや

2019年2月2日土曜日

古代史を推理する Ⅰ

   古代史の本は数多(あまた)あるが、証明抜きのまるで文学作品のようなものが多いので注意が必要だ。
 近頃では「この先生の本はどうも」と最初から排除できるが、読んでから嫌になった本も多い。理由は論理的でない、証明がないというのが多かった。

 そういう玉石混交の中で私は、白石太一郎氏先生の講義を度々聞き、その本を何冊も読んで、非常に共鳴するところが多かった。この先生の論建ては信用できる。
 なのでこの本、白石太一郎著『古墳の被葬者を推理する』(中公叢書)を書店で見つけた時には文句なく購入した。

 そこでその読後の感想をブログに書こうとしたが、実は一向に筆が進まない。
 理由は、比較的馴染みのある古市百舌鳥古墳群あたりをピックアップして氏の緻密な論建てと推論を皆さんに紹介しようと思ったが、それが間違いのもとで、私の知識如きでは到底ついていけないという挫折感に似た気分に陥ったからである。

 一挙に結論を言う。膨大な考古学的知見と文献史料の徹底した検討の結果、氏は「誉田御廟山古墳の築造時期は5世紀の第1四半期の新しい段階」「被葬者はやはり4世紀末から5世紀の早い時期に在位したであろう応神天皇(大王)」と想定された。(その根拠は膨大な頁数に及びここでは割愛するが説得力がある
 そして誉田御廟山古墳=応神天皇陵だとすれば、大仙陵古墳=仁徳天皇陵の蓋然性は非常に高まるとされたのである。
 この結論は私には驚きだった。ええっ、延喜式~宮内庁の治定どおりだと???

 考古学的な見地から氏は古市百舌鳥古墳群中の大王墓候補の築造順を、仲ツ山古墳(藤井寺市伝仲津姫陵)→上石津ミサンザイ古墳(堺市伝履中陵)→誉田御廟山古墳(羽曳野市伝応神陵)→大仙陵古墳(堺市伝仁徳陵)→土師ニサンザイ古墳(堺市陵墓参考地)→岡ミサンザイ古墳(藤井寺市伝仲哀陵)とされているが、河内王朝とは言わないまでも、これでは始祖的応神陵が誉田御廟山となるので、伝仲津姫陵や伝履中陵が大王墓でないということになる。それとも応神以前に河内に出てきた大王(後の天皇)がいた???

 この二つの古墳が大王ではなく、ヤマト王権を河内に引っ張り出してきた豪族首長だとしたらそれは誰か。
 後の蘇我に匹敵するような河内の豪族は文献史料中の誰か? わからない。
さらに履中陵が土師ニサンザイ古墳だとしたら反正陵はどこか(田出井山古墳は元々大いに疑われているが)。さらにわからない。
とりわけ延喜式(927年完成)はあてにならぬようであるが、そうすれば文献史学は何を解明すべきか。
 
 そこでいろいろ読み返してみた。森浩一著「天皇陵古墳への招待」、宮川徏著「よみがえる百舌鳥古墳群」、小笠原好彦著「古代豪族葛城氏と大古墳」、大塚初重著「古代天皇陵の謎を追う」、中井正弘著「仁徳陵」、石渡信一郎著「応神陵の被葬者は誰か」、石部正志著「古墳は語る」、吉村武彦著「古代天皇の誕生」、高城修三著「神々と天皇の宮都をたどる」、猪熊兼勝著「飛鳥の古墳を語る」、吉村武彦著「ヤマト王権」等々。結局、ストンと落ちる文章にはたどり着けなかった。

 さて、考古学の方は、石棺の変化、石窟の石組みの変化、前方後円墳の形の変化、埴輪の変化、土器の変化、炭素年代測定、年輪年代測定等々によって格段の進歩があった。白石先生のこのあたりの推論は圧巻だ。
 となると、文献史料の勘違い、あるいは偽造、粉飾等々、「裏」にうずもれている真実を解き明かしていかなければならない。
 現代史だって嘘にくるまれているのだから、過去もきっとそうなのだろう。
 どこかに解くカギはあるに違いないが、道遠し。
 私が半ば絶望感を漂わせながらこのブログ記事を書いた気持ちがご理解いただけると思う。
 何の紹介、読後感想にもなっていない。公文書改ざん問題とオーバーラップして頭がくらくらする。
 明日に続く!

   書き換えたひと名乗り出よと太一郎

2019年2月1日金曜日

病院に行けてる間は健康だ

 3つほどの症状で(薬をもらうために)3週間に1回かかりつけ医に通っている。花粉症の季節には4つの症状になる。おもな症状は高血圧症である。
 寒い朝、血圧測定をするのに、手が冷たいと血圧が上がるからと看護師さんが私の手を包んで摩擦をしてくれた。
 これがもし若い看護師さんならこのことで血圧や脈拍が上がりそうだが、私の血圧は130でその日は嘘みたいに低かった。
 看護師さん、ときめかずにスミマセン。

   検尿で癌がわかるからこれからは3か月に1回検尿すると言われた。
 「分かったらどうなるの」と聞くと、「検尿で分かったときは手遅れだ」と答があった。
 帰宅してからそういうと、妻は「あそこの医院とお父さんは相性がいい」と笑っている。

 医院の部屋のカレンダーにインフルエンザの発見数が正の字で綴られていた。
 文句なく流行している。
 おかげ様で流行に流されない(実は取り残されている)我が夫婦は今日まで罹っていない。
 持論だが、私たちの周りにはばい菌もウイルスもうじゃうじゃいる。これを取り込まないというのは至難の業だ。となると発症するかしないかの大きな決め手はコチラの体力・抵抗力だろう。
 無理をせず早い目に休養することに尽きる。

   柚子を食う孫治ったと電話あり