2019年1月24日木曜日

暦を考える。

満月まえの日の入り
 日曜月曜あたりは見事な満月だった。テレビの天気予報のときにも「きれいですね」とか言って映していた。
となると、あと半月ほどで奈良公園は大賑わいとなる。中国の春節(旧正月)、韓国や東南アジアの旧正月である。インバウンドである。

私などは旧正月という言葉を聞くと、ベトナム戦争時の「テト(旧正月)攻勢」という言葉が直ぐに浮かぶのだが、もうワードでも直ぐには出てこない。時は過ぎた。

旧正月、つまり太陰太陽暦の正月について、それは「春分の日」だとか「春分を含む月の朔日」と書いてある本があるが間違いで、「七十二候の雨水を含む月の朔日」というのが正しいようだ。
だから「年内立春」という言葉もあった。
芭蕉の句に「春や来し年や行きけん小晦日」というのは「立春(新年?)だ、しかし晦日(旧年)だ」と言っている。

アジアでもその暦法には微妙な違いがあり、朔日の0時というときにその標準時を中国の標準時(つまり0時)でいくか自国の0時でいくかによって1日のズレ、ひどくは1月のズレが生じるというのは面白い。未だに元号を標準としている国が何を言うかと反対に笑われそうだが。

さて、今日の記事の本題に入る。
日本に関する史料の最も古いものは魏志倭人伝である。その裴松之(はい しょうし)の注に現代語訳でこうある。「『魏略』に曰く、倭の俗では正月を歳初とすることと春夏秋冬の四節を知らず、ただ春の耕作と秋の収穫を目安に年を数えている」と、つまり「倭人は暦を知らない」と言っている。
対抗する史料がないので何とも言えないが、言いたいことは、官製の暦は知らなくても、各地には豊かな自然暦があり、人々は決して無知蒙昧ではなかっただろうという私の感想である。

例えば「白馬岳に白馬の雪代が顕れたら代掻きをする」というように、各地に「種まき爺さん」「代掻き〇〇」のような雪代がある。
ただし私は思うのだが、豪雪の冬があったからといって代掻きや種まきを遅らせると耕作は失敗することもあるのでないかと。
とすると、雪代と併用して日の出・日の入りの角度(場所)による太陽暦的自然暦を共有していたのではないか。
弥生時代、古墳時代の人々の知識は劣っていたに違いないというような考えは捨てた方がよいだろう。

日本ではどうしても稲作を中心にして考えてしまう所があるが、魏志倭人伝ではないが日本は漁業の国でもある。
今でも釣り人は大潮や潮の干満を重視して釣行の計画を楽しく練っている。
それは月の運行、太陰暦的思考となる。
古代人が、そんなことを考えもせず気の向くままに漁に出ていたと考える方がおかしいだろう。

哀しいかな文字を持たなかった日本列島の古代には記録が残っていないが、太陽暦的発想、太陰暦的発想はあったに違いないと想像するのだがどうだろう。
そして一般に、太陽暦が新しい考え、太陰暦は古臭い考えのようなイメージがあるが、漁民にとっては太陰暦的暦が重要であったし、稲作農民にとっては明治の改暦を待たずとも、根に太陽暦的1年という周期を使いこなしていたに違いないと思う。
農村や漁村にそんな欠片が残っていたら教えてほしい。

この間から本屋の新書コーナーに「暦の話」というのがあって興味をそそられているが、読みさしの本がいくつかあるので購入していない。そんなうちに旧正月が近づいてきたので、感想のようなものばかりでこの記事を書いた。

  大寒は春の気配の窓の外

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