2018年11月11日日曜日

少子化のこと

 私は団塊の世代のトップランナーの位置に居る。
 二部授業、プレハブ教室、講堂内を間仕切りした教室・・・各種の福祉的諸制度は「持ちこたえられない」として次々に改悪されていった世代である。(その一方で、団塊パワーで新しい時代を切り開きもしてきた。それはそうとして)

 だから、息子は団塊ジュニアである。
 景気の巡り会わせもあり、就職氷河期で苦労もあった。ミニ団塊の世代であった。
 ところがその子、つまり私の孫は団塊ジュニアのジュニアにはならなかった。で、やっぱり少子化なのだと実感された。

   小学1年生の孫の運動会があった。少し遅いがジュニアのジュニアである。
 子ども(つまり孫の父親)の運動会は父母がひしめいていたなあと思い出した。
 運動場の周囲では収まらないので父母は教室から眺めてくれといわれたこともあった。
 それが、今はガラガラとまでは言うほどではないが、余裕のある父母席だった。なので、やっぱり少子化なのだなあと感じた次第である。

 ただ、大阪中心部は、早期に少子化だということで学校を潰していって、建築規制を緩和してマンションを建て、その結果、今は学校不足、過密校が問題になっている。全く落語にもならないほど無策だと思う。

 そんな例外もあるが、それ以外の地域では学校の統廃合が進んでいる。
 それでいいのだろうかと私は思う。
 学校というのは建物をさす言葉だろうか。
 母校だとか、同窓だとか、そういう心の故郷を「子どもが減ったから」といって失くしていいものだろうか。

 教育だとか行政だとかを株式会社のスケール、経費の考え方(つまりは損得)で律していいのだろうか。
 宇沢弘文氏の「社会的共通資本」の考え方をじっくり学び直してみたい気がしている。

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