2018年4月12日木曜日

歴史とりどり

   OB会の遠足で今城塚古墳に行ってきた。
 圧巻は堤上の「埴輪祭祀場」で、約190点の埴輪が約1500年前にそのようにここにあったように再現されていた。

 問題は・・・、大王の葬儀であるから武人や武具(盾)や馬は解る、僻邪のための巫女も相撲取りも解る、だが、それにしても白鳥のような水鳥のこの多さは何だ。
 これは渡り鳥である水鳥は、この世(地)に見えない間は黄泉の国に行っているのだ、渡り鳥は黄泉の国の使者だ・・と信じられていたからとしか思えなかった。
 継体大王は、このとおり水鳥に守られて無事?黄泉の国に行ったと伝えているのだろう。
 しかししかし、そうであれば、そこかしこの鶏(の埴輪)はこれまた何?(かしわ=豊かな食料?)
 ああ、遠足で全てが理解できるほど古代史は簡単ではない。


 今城塚古墳は、真の天皇陵としては日本で唯一古墳に登れる御陵で私たちは後円部に登ったが、天皇陵にふさわしく野鳥が見事に囀って御陵を荘厳していた。
 中でも一段ときれいな声だったのがイカルで、とても素晴らしかった。
 だから私は「イカルは尋ねられて自分の名前と歳を答えているのだ」「お菊二十四」と・・・と解説したが、ほゞ誰にも信用してもらえなかった。
 平均的現代人には、はっきりと「お菊二十四」とか「お菊十七」ってイカルたちが答えているのが聞こえないようだ。 
 生まれたての赤ん坊は鳥や獣の言葉が聞き分けられていたが、俗世で成長するに従ってみんな言葉を聴けなくなるのではないだろうか?この考え如何?

 
 遠足が終わって昼食しながら「秋の遠足は?」という話になり、私が「伏見稲荷で雀を食べようツアー」はどうかと話すと、圧倒的には「雀なんてほんとうに食べられるの?」との反発を受けて、その案は即座に却下された。
 
 しかし念のため言えば、伏見稲荷で雀を食べるのはゲテモノ食いの世界の話ではない。
 今でこそ商売の神様のように喧伝されているが、稲荷の字のごとくそこは元々は稲作の神である。
 だから古来、参拝者が、秋の害鳥たる雀を食べて心の底から豊作を祈ったのは当然といえば当然で、それこそ正しい伏見稲荷詣りのマナーであり伝統であった。

 天皇の承継の行事にしても、大相撲の土俵にしても、はては憲法改正問題でも、日本の歴史の上ではあだ花だった明治から昭和前半を指して「伝統だ」などと世迷言をいう人士が多いが、ほんとうにこの国の伝統や文化を大事にして現代の民主主義につなげようとする人々は、もっと深い歴史を味わいつつ、例えば伏見稲荷で雀を食べてほしいと私は念願するのだが、それはやっぱり私の変わった趣味の発想なのでしょうか。

    春深しお菊二十四と鵤(いかる)啼く

4 件のコメント:

  1. 先日、京都錦市場で雀の焼き鳥を見つけました。大きさは親指の先位で厚さはミカンの皮位で1本1羽450円でした。

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  2.  一つの疑問があります。歴史というのは現代人から見た歴史であって、発掘の成果、研究の成果として今我々が認識しているのでしょうが、この大王たち以降、我々に至る間の権力者や歴史学者などの人々の歴史認識、研究成果は何を見ればわかるのでしょうか?それともそういう時代の人々の研究成果が連綿と受け継がれてきたものなのでしょうか?
     愚問ですが何か分かればご教示ください。

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  3.  スノウさん、伏見稲荷は確か1羽400円か300円だったと思います。昔は一串に2羽刺されて200円か300円だったように思います。高級食材になってきました。

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  4.  「〇〇の研究史」というものがあります。近いところでは江戸時代の誰それはこういう根拠でこういった、それを明治の誰それはこういう理由で違う説を唱えた、その後昭和前期のだれそれはこう主張し、戦後考古学的成果で誰それはこう訂正した、・・というもので、論争史のようなものです。文春学芸ライブラリー上野誠著「日本の古代を読む」でいえば本居宣長、坂本太郎、津田左右吉、井上光貞、瀧川政次郎、青木和夫、石母田正、三浦周行、内藤湖南、和辻哲郎、WGアストン、辻善之助、林家辰三郎、折口信夫、西田直二郎、亀井勝一郎の説が順に紹介されています。
     高松塚の被葬者像についても多くの方々が論争されています。そういう論争がほぼ落ち着いたものが定説とされていますが、数十年後にどう覆るか分かりません。
     ただ私は、万葉の時代から人間という奴はよく似た感情や思考方法を持っていたのではないかと思います。お答えにはなっていないでしょうが・・・

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