2017年12月6日水曜日

年賀状の季節

   この間から「喪中欠礼」の葉書が木の葉のようにポストに舞い込んで来る。
 こんなのを「風物詩」と言ったら叱られるだろうが、如何にも師走という感じがしみじみしてしまう。
 それが高齢の親御さんだと「天寿を全うされた」ようで少しホッとするが、年賀状をやりとりしていたご本人の場合はなんとも寂しい。

 近頃の喪中の考えや欠礼はがきとその方に年賀状を遠慮する考え方がおかしいことは2015年12月28日の「喪中はがきのこと」に書いたがとりあえずそのことは横に置く。

 喪中欠礼が来るということは翻って年賀状を準備する季節ということだ。
 季節と言えば、毎年この季節になると新聞の投書欄に「味気のない印刷した年賀状」という「声」が載り「手書き年賀状」が絶賛されるが、それを読む度に私は毎年哀しい気持ちになる。

 理由は悪筆の上に筆圧が強く、個性と言って笑っていただけるレベルをはみ出しているからである。

 その代わりと言っては何だが、毎年年賀状いっぱいにこの1年の状況や思うことをパソコンで印刷している。
 私にして見ればありきたりの常套句の手書き年賀状より心を込めているつもりだが、どう感じてもらえているかは不明である。
 まあ、何人かからは「あんたの年賀状は毎年”今年はどんな事を書いてるのか”と楽しみにしている」と言ってもらえている。

 基本的に夫婦連名で出すから私が案を考えて妻に「どうや」と言って相談する。
 来年の年賀状案は「ちょっと面白味が足らんな」と先日妻からダメ出しを喰らった。
 昨日のブログ記事に「時代は真っ当な宗教心が求められている」とのコメントをいただいたが、歳のせいか少し宗教臭い年賀状になっている。

 昨日の朝日新聞「天声人語」に年賀状のことで筆者が悪筆であることが記されていた。
 南方熊楠が無双の悪筆であったことや大江健三郎も決して上手でないとあって少し慰められた。
 昔のことだが、尊敬する元国公労連委員長内山昻さんも相当な癖字で、あかつき印刷には内山氏専門の植字工がいたという伝説がある。
 先の「天声人語」は「少し努力して添え書きをしてみよう」と筆者の決意が語られていたが、私の場合は心を込めて書いてみても「なぐり書き」みたいに見えてしまうので、原則として添え書きを近頃は止めている。
 そういうことなので、私の年賀状を見て「添え書きぐらいしたらええのに」などと叱らないでほしい。

1 件のコメント:

  1.  市田忠義さんが12月5日15:29のFbで、この天声人語を引いて思いを述べられている。コメントで私も「パソコン年賀状は味気ないという常套句で切って捨ててほしくない」旨のことを書き込み、市田さんから温かい返事もいただいた。
     年賀状は、要はどれだけ心を込めて作成するかであって、それが文字であったり、俳句等であったり、絵や写真や版画や文章など、いろんなパターンがあってそれぞれいいのです。
     事実、毎年、「今年はどんな絵だろう」「どんな版画だろう」と待遠しい方がおられます。そして、「今年はどんなボヤキ節が綴られているだろうか」とその顔が浮かんでくる方もおられます。そんな多様な問題を、この季節になると「印刷は味気ない」「年賀状は手書きに限る」という常套句でバッサリ斬り捨てて、何か正論を語ったように思っているようなのには同意できません。

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