2017年8月20日日曜日

特攻兵器

 北朝鮮の軍事パレードを見て、ISの自爆テロを見て、「信じられない」という声を聞くが、ついこの間、72年前まではこの国・日本があの通りであった。
 ウーマンラッシュアワーの村本が朝生で山本一太から「みんな北朝鮮嫌いですよね」と振られたときに、日本が朝鮮半島を植民地にした歴史を踏まえないで拉致だけ問題にして憎悪を煽るのは都合が良すぎると答えたのには一理がある。

震洋
   ISの自爆テロだが、72年前の日本は特攻という名で国家ぐるみで自爆テロを行っていた。
 人間魚雷「回転」は外側から鍵をかけられたら内側から開錠できない仕組みだった。特攻の目的が実現出来ようが出来まいがその先には死しかなかった。

 先日、堺の平和のための戦争展で紀伊半島の特攻基地の調査レポートが報告されていた。
 大阪湾の入口に当たる由良町には、人間魚雷「回転」の基地、そして、ベニヤ板製モーターボートの船首に爆薬を積んで特攻する「震洋」の基地、海底に潜って棒突き機雷で攻撃する「伏龍」の基地があったそうだ。

 ベニヤ板製「震洋」のレポートを見ていて私は父のことを思い出した。
 私の父は現東大阪市盾津にあった松下飛行機(株)にいて、ここで海軍の木製飛行機「明星」を造っていた。
 もしかしたら、父の作っていた木製飛行機も木製ボート「震洋」同様特攻機だったのだろうか。
 いくつかの本やネットの記事を見ると爆撃機とあるから特攻機ではなかったようで、変なところで一安心した(何が一安心か?)。

 それよりも、テスト飛行のとき、木製の円筒(つまり飛行機)が飛ぶと前面の穴が「尺八の歌口」となって巨大な尺八よろしく ♪ポ~ポ~と高らかに音をたてたので、これでは敵に見つかってしまうと慌てた話などは今読むと少し可笑しい話だった。

 要するに、72年前の日本はそうであったのであり、それらを忘れて、否、知らない顔をして、斬首作戦だ!、ミサイルは撃ち落とせだ!と叫ぶのには「少し待て」と言いたい。
 韓国も中国もロシアも北朝鮮もアメリカも、硬軟併せてしたたかに外交を展開している中、日本政府だけが街のチンピラみたいな言葉でカッコをつけている。
 それもまた、戦前の実責任な戦争突入時の時世とよく似ている。

    エサくれと人に媚び売る金魚かな


 以下は「マルレ」に関する朝日新聞デジタルからの参考記事

 太平洋戦争末期、飛行機だけでなく船による「特攻」が行われた。爆雷を積んだベニヤ板製の簡易なボート。訓練を重ね、死を覚悟していた若者たちは揺らいだ。「お国のため」に捧げる命とは何なのか、と。(岡本玄) 
 ◆全滅は「玉砕」、退却は「転進」…美辞が隠した地獄
 瀬戸内海に浮かぶ江田島(広島県江田島市)。海軍の兵学校があったことで知られるこの島は、かつて陸軍の「水上特攻隊」の秘密基地でもあった。島の最北端にいま、その歴史を伝える石碑が立つ。 
 《祖国の為(ため)とは言え 春秋に富む身を国に殉ぜし多数の若者の運命を想(おも)う時 誠に痛惜の念に堪えず》 
 米軍による本土侵攻に備え、この島で極秘の訓練を重ねた多くの若者たちが、沖縄やフィリピン、台湾へ送り込まれていった。 
 使われたボートの秘匿上の通称は「連絡艇」。頭文字から「マルレ」と呼ばれた。資材不足の中、速度を出すため、薄いベニヤ板と自動車のエンジンでつくり、船尾には250キロの爆雷を積んだ。 
 捨て身で敵艦に夜襲する作戦。元隊員たちがまとめた「マルレの戦史」によると、前線へ赴いた計30戦隊3125人のうち6割近い1793人が亡くなった。 
 「死へのパスポートのようでした」。元隊員の深沢敬次郎さん(91)=群馬県高崎市=は言う。沖縄・慶良間諸島に派遣されたが、上陸に備えた米軍の攻撃により、陸に隠していたボートが焼けた。作戦は実行されず、死を免れた。 
 派遣を控えた1944年8月のこと。上官から「マルレの存在は秘密だ。秘密を守る条件で休暇を与える」と言われ、群馬の実家に帰省した。家族や友人と「最後の別れ」をする機会だが、「隊のことは聞かれてもごまかしていた」。死ぬ覚悟はできていた。 
 だが、6歳の時に病死した母の墓前では、少し違った。正直に「特攻隊員として戦場に行き、国のために立派に戦ってきます」と報告すると、内心は揺らいだ。「同じ墓に葬られるかもしれないと想像すると、離れがたくなった」 
 大義のために死ぬなら悔いはない。笑って「神兵」になる――。そんな覚悟で入隊した横山小一さんも、慶良間諸島に派遣される前に休暇を与えられ、故郷の秋田から広島に両親を呼び寄せた。当時19歳。地元の米で握ってくれたおむすびを食べ、「川」の字になって寝た翌朝、告げた。 
 「上官から『日本の国のために死んでくれ。そうでないと日本は勝てない』と言われた。人は必ず1度は死ぬ。親孝行もせず申し訳ないが、あきらめてくれ」 
 小一さんは45年3月、沖縄で米軍から急襲され、亡くなった。両親とのやりとりは、小一さんの弟が両親から聞いた内容として記録に残していた。 
 《大君の/御盾となりて/捨つるみと/思へば軽き/我が命かな》 
 小一さんはこの歌とともに、恩賜(おんし)金を農業にあてることや、両親の長生きを願う遺言を残していた。 
 天皇の盾となり、捨てる命は重いのか、軽いのか。小一さんの弟は92年、これらを刻んだ石碑を実家の庭に立てた。「どんな時代になろうとも、多くの犠牲を忘れてはならない」との思いからだった。 
 「国を批判できない時代のぎりぎりの表現では」。遺言碑がある実家でいま暮らすのは、小一さんのおいにあたる和仁さん(60)だ。「負けると分かっていながら、上げた拳を下げられない大義とは何なのか。国のために捨てる自分の命とは何か。真剣に考えていたんだと思う」 
 小一さんは、ほかにも歌を書き残していた。 
 《大君に/捧げまつりし/命なれ/無駄に死するな/時代来るまで》 
 「特攻への出撃というよりは、戦争が終わった後の平和な時代を願っていたのではないでしょうか」と和仁さんは語る。  

 〈特攻〉 太平洋戦争末期に日本の陸海軍が編成し、敵に体当たりなどをした「特別攻撃隊」。略して「特攻隊」と呼ばれた。1944年10月、海軍が航空機による「神風(しんぷう)特別攻撃隊」を編成し、フィリピン沖で米艦隊に突入。以後、沖縄戦などに次々と送り出した。海軍のベニヤ板製ボート「震洋」や、人間魚雷「回天」などの特攻も行われた。特攻による戦没者数は諸説あるが、公益財団法人「特攻隊戦没者慰霊顕彰会」の調べによると、6千人を超えるという。

4 件のコメント:

  1.  以前にも書いておられたので「明星」について少し調べました。爆撃機であるから特攻機ではなかった、と云う点は正しくもあり、そうでない可能性もあります。終戦間際は「ゼロ戦」のような戦闘機だけでなく、練習機や軽爆撃機も特攻に使用されました。
     「明星」は英空軍の木製飛行機で名機と云われた「モスキート」(1940年初飛行・木製であるためレーダーに感知されにくい)に刺激され製作されたようですが僅か4機しか製作されず終戦を迎えたという事で特攻には使用されなかったというのが正しいのではと思います。

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  2.  ひげ親父さん、コメントありがとうございます。なるほど、ゼロ戦も普通に戦闘機だったのですね。
     モスキートというのは基本的に布張りだったのでしょうか。名機といわれていますね。紅の豚ではありませんが、兵器というより「愛車」のイメージを抱かせます。

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  3. 正確ではありませんが機体の大部分がモノコック(違う種類の木材をサンドした)のベニヤ板で作られていました。布張りの部分があったかどうかはよくわかりませんが、この辺は英国機が好きな(ただし平和的な旅客機のみ)スノーさんが詳しいかも知れません。
    ちなみにこの「モスキート」を製造したデ・ハビラント社は後に最も美しいと謂われたジェット旅客機「コメット」を世に送り出しました。
     また話は横道にそれますがF・フォーサイスの短編集に「シェパード」という名作があります。空で迷った飛行機を連れて帰るパイロットを描いた不思議な作品ですが彼の愛機が「モスキート」で迷った飛行機を捜索する任務を「シェパード」と呼びました。

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  4.  楽しいコメントをありがとうございます。この種の知識、今後ともよろしくお願いします。
     昨夜、鳥人間を見ました。人力で40km飛びました。ああいうのに必死になるのは平和的でいいですね。

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