2017年5月29日月曜日

文科省文書あれこれ

 政権による文科省前次官への人格攻撃は目に余る。
 これこそ共謀罪社会の先取りだろう。
 「下着売り場のマネキンを見て笑っただろう。わいせつ罪の準備罪だ!」と言わんばかりの法律だ。
 「まさかそれほどでは?」では済まない現実を直視しよう。

 だから、共謀罪成立で逮捕される前に、私の狭い狭い経験で得た意見を述べておこう。
 文科省もそうだと思うが国の行政組織にはキャリアと呼ばれる主に東大法学部卒の幹部候補生とノンキャリアという人がいる。
 キャリアは若い時から幹部候補生でいわゆる官僚になっていく。
 圧倒的なノンキャリアはいわゆる公務員で日々所掌する業務を処理する。
 キャリアとノンキャリアは同じ部屋の中で仕事をしていても、全くレベルの違う仕事をしている。いや、通常はキャリアは一人だけの部屋や部屋に近いスペースを持っている。
 マスコミなどがこういう高級官僚と一般公務員を十把一絡げにして官僚批判をするものだから、公務や公共事業や公務員全体が無駄であり不正であるかのような危険で誤った誤解となっている。

 さて、キャリアである幹部は通常は自分で事務作業はしない。それらは部下の仕事であり、それを要所要所で判断するのが主な仕事である。
 そして文科省もそうであるが、部下が進めている業務の範囲は多岐にわたりかつ専門的で緻密である。
 なので、ルーティン業務は専決といって大幅に部下に任せつつ、重要事案の取りこぼしがないようその種の事案は必ず部下に折々のレクチャー(説明)を求める。
 ノンキャリアからすると、そのレクチャーでキャリアからOKをもらうことが何よりも重要である。
 レクチャーの対象は、場合によっては本来何十ページ何百ページに及ぶ文章になるものもあるが、もちろんそんなことではレクチャーにならない。普通は急所となる論点をA4の1ページ位にまとめて部下は説明する。当たり前だが、文書主義の行政組織で文書なしの口頭説明だけのレクチャーはない。
 前川前文科次官が示した文書はそういう「レク資料」だろう。

 そういう意味では、成案になった公文書よりも真実が凝縮されている。
 ノンキャリアも含めて行政側の人間にすれば、これらのレク資料や想定問答など各種検討段階の内々のメモまで情報公開せよ言われるのには抵抗があるが、今回の文書の信憑性をどう考えるかと言われれば、限りなく真実に近いと私は考える。

 ようやくマスコミも内閣人事局が官僚の人事権を握ったことの弊害を述べたり、規制緩和や特区構想の弊害を述べ始めているが全く不十分だ。
 ブラック企業を取り締まる労働基準監督行政を社会保険労務士に外注しようという案もこういう延長線上にあるのだから、心ある人々は大きな声で反対の意思を表明してほしい。

    楝散る映画のような散歩道

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