2017年4月16日日曜日

堺幕府のこと

 標記のことは2013年8月4日に「堺時代」というタイトルで書いたが、先日から少し堺憑いているので、二番煎じになるが再び書く。

 歴史の時代区分は、奈良時代、鎌倉時代、江戸時代のように、通常その時代の権力の所在地の名を付けて呼ばれているから、私は常々安土桃山時代の後半は「大坂時代」と呼んでほしいと思っている。
 さらに、もう少し夢を語らせてもらえれば、どこかの出版社あたりが室町時代の一時期(五年間)は「堺時代」だと、日本史年表の中にスリットのようにでも記述してもらえないかと夢見ている。

 それというのも、大永七年(1527)桂川の戦いで、足利義雄を擁した三好元長・細川晴元軍が第十二代将軍足利義晴軍を打ち破ったため、義晴将軍は京を脱出し室町幕府が崩壊した事実がある。
 代わって足利義雄は朝廷から「従五位下 左馬頭」に任官されたが、この官位は近い将来征夷大将軍に就くものが従前に受ける官位である。
 このため足利義雄は「堺公方」「堺大樹」「堺武家」など現役の将軍の名称で呼ばれたし、義雄の政権は堺の地で幕府形式の独自の文書も発給し、故に少なくない中世史研究者はこれを「堺幕府」と名付けている。

 堺幕府は内紛で天文元年(1532)に瓦解したが、室町幕府の終焉、戦国時代の幕開けを準備したことは間違いない。

 2013年に前回の記事を書いてから4年が経過した。
 再び堺市長選挙の年となり、巷間、最近までテレビアナウンサーとして有名であった何某が維新から出るとか出ないとか。
 松井知事と吉村大阪市長は卑怯な「勝つまでじゃんけん」で再び大阪都構想を打ち出している。
 その財源のために堺市を吸収したいのは見え見えだ。
 堺市民には今回述べた堺の歴史と先人の矜持を思い返して、屈辱的な大阪都構想を粉砕してほしい。

    ここは何処日本語聞こえぬ春の奈良

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