2017年4月10日月曜日

「良いことも書いてある」か

    俳句で「花」といえばそれだけで「桜」だが、そこまで言い切ってしまってもよいのだろうか。
 桜も花見も嫌いな方ではないが、4月9日の朝日俳壇・大串章選にあった、戦争に人を束ねし桜咲く(東京都)三角逸郎 の感性も大事なことだ。
 評には『「同期の桜」を思い出す。「咲いた花なら散るのは覚悟・・・」が悲しい』とあった。単純に桜に反発せよ忌避せよと言うつもりはさらさらないが、ものごとにはいろんな角度や側面があることを忘れないことが大切だと振り返らせてくれた句だ。
 同じ歌でも「思い出のアルバム」では『桃のお花もきれいに咲いて もうすぐみんなは一年生』と歌い、今では一人前の母親の顔になっている娘の卒園式を思い出す。
 写真は、我家自慢の『源平枝垂れ花桃』
 
 卒園のアルバムの花は桃の花


 安倍内閣の大臣方や日本会議議員連盟の民進党の一部議員も含む国会議員が「教育勅語には良いことも書いてある」と口を揃えている。
 小藪何某などお笑い芸人の一部もテレビの中で同じようなことを言っている。
 私はそんな折、記者やアナウンサーには「そうであれば、次のような「綱領」も学校教育で使用しても良いとお考えですか」と尋ねてほしいと思う。何れにも信義や礼節が述べられている。

 一、内を固むるに和親合一を最も尊ぶ。
 一、外は接するに愛念を持し、信義を重んず。
 一、長幼の序を弁え礼に依って終始す。
 一、世に処するに己の節を守り譏を招かず。
 一、先人の経験を聞き人格の向上をはかる。

 「柳」印は東。すなわち大木に宿る太陽を意味し、正義人道のあかるい前進を示す。
 「川」子を中心に父母相抱く平和の姿を意味し、心を一つに結び合い、強い団結力を示す。
 「仁」博愛の精神。すなわち道徳であり、人の道を守ることである。寛大な心の錬磨とともにすべてが培われる。
 「義」物事の理に叶うことである。自分の利害を考えずに人のために尽くす義理の厚い人でなければならない。
 「礼」敬意であり作法である。先輩を敬い朋友相扶け後輩を導く礼に失することなかれ。

 以上は、たまたまネットで見つけたものだが、前者は「山口組の綱領」、後者は「神戸山口組柳川組の綱領」である。
 「良いことも書いてある」論が如何に不適切かは論を待たないだろう。
 それとも先の面々は、「綱領から外れた暴力団員が良くないのであって、暴力団の綱領は悪くない」「良いことも書いてある」とおっしゃるのだろうか。

 朝日新聞の報じたところでは・・・
 自民党の船田衆院議員は6日、自身のブログを更新し、戦前・戦中の「教育勅語」を教材で使うことを認めた政府答弁書について、「いささか違和感を覚える」と批判した。 
 船田氏は教育勅語について「戦前の軍部や官憲による思想統制の道具とされてしまったことは言うまでもない」と指摘し、1948年に国会が排除・失効の確認を決議した事実を強調。その上で「憲法や教育基本法等に反しないような形で教材として用いることまでは否定されることではない」とした政府答弁書を引用して、「『憲法や教育基本法に反しない形』で教育勅語を教材に使えるのだろうか」と疑問を呈した。
 ・・・作新学院の学院長として私学教育に携わってきた人のこれが常識だろう。

 テレビは、それでもまだ「良いことも書いてある」という意見を批判もなしで流し続けるのだろうか。

 なお、「良いことも書いてある」派の人々が引用している現代語訳なるものが非常に作為的に「マイルド」な戦後制作の「不当表示」であって、戦前の文部省自身「命をささげて皇室の爲につくせ」と指導していた(第五期修身書)こと、あるいは明治天皇上覧の「官定解釈」といえる「勅語衍義(えんぎ)」では、「国家の為めに死するより愉快なることなかるべきなり」と率直に記されていることは、このブログの4月6日の記事に書いている。

   藪のきは鶯が経おち椿

1 件のコメント:

  1.  ネットでは「北朝鮮の少年団の綱領のようなもの」も掲載されている。一つ一つは教育勅語より立派な言葉が踊っている。「良いことも書いてある」派の方々は日本の学校で教えれば如何でしょう。立脚点を批判的に評価しないとそういうことになります。

    返信削除