2017年1月17日火曜日

22年前

 22年前の1.17というと、いうまでもなく阪神淡路大震災があった。
 震災後だいぶ経ってから、労働組合の兵庫支部の委員長と会ったとき、「水がないのが不便や」と語る氏のワイシャツの襟が鼠色に汚れていたのを今でも覚えている。慰めの言葉など見つからなかった。

 同じ仕事仲間のために! という義援金の話が持ち上がったときには、「被災者に仕事仲間も何もないやろ」という気分も湧いたが、そういう繋がりで広がる支援が重なって現実があるのだろうと考えて、一般の義援金とは別にこれはこれで大きく取り組んだ。ただ、この気持ちの整理は今も100%は整理できていない。

 仕事では先例のない質問が相次いで、私がたまたまそういうポストに座っていた以上、決断に次ぐ決断が迫られた。20年以上経った現在は懐かしくもあるが当時は必死だった。
 被災者の身代わりにはなれないが、それなりに努力した自負はある。
 やはり私の人生のなかでも特筆すべき日々だった。
 22年経ったが、被災者の苦労、周辺で努力した人々の苦労を今一度思い返したい。

   さて、大阪の谷町四丁目の近くに一等水準点がある。
 上町台地の北端近く、大阪城の少し西である。
 上町台地から東はかつて河内潟・河内湖であったとおり低地である。
 西は見事に大阪湾に向かって下っていく。
 北はすぐに「浪速」(なみはや=なにわ)の語源である旧淀川=大川で天満橋がある。
 なのでここは、谷町筋に近いので上町の頂上ではないけれど、大阪市内でいえばほぼ頂上に近いあたりである。
 そこが標高17mと表示されているので驚いた。
 ちなみに、東日本大震災の津波の高さは、最高点では40.5mだった。

 阪神淡路大震災の経験から「地震と火災に注意」だけだと考えていたら、南海トラフによる東南海地震の津波の軽視にならないだろうか。
 東南海地震は歴史的周期からいうと「明日起こっても不思議でない」といわれている。
 私としては、大阪府市政が万博だとかカジノだとかに浮かれているときではないと思うのだが。

 商品のキャッチコピーの様に響いたなら嫌であるが、やはり言っておこう。
 忘れてはならない、1.17、3.11、そしてフクシマ。

   忘れないの言葉も重し1.17(いちいちなな)

5 件のコメント:

  1. 長谷やん、久しぶりです。
     長谷やんの阪神大震災の記事を読みながら、私も兵庫の震災による労災認定の担当者として、本省との連絡や監督署への伝達等で忙しい毎日だったことを思い出しました。この辺の状況は、作成中の「自分史」に登場するはずです。
     いずれにしても、あの混乱と悲惨な事態からはや22年もたつのかと、感慨ひとしおです。

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  2.  大災害があるとテレビの中のお笑い芸人のコメンテーター?などが、軽々に、頑張ろうとか、絆だとか、語り継ごう、忘れない等々と言うのを少し違和感を感じて聞くことがあるのですが、真面目にしっかりと思い起こして語り継ぐことは大事なように思います。
     神戸の人口の半数以上が震災を知らない世代だというのには驚きです。

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  3.  マスコミというのはニュース性を重視するためにセンセーショナルな話題を取り上げる傾向があります。例えば、倒壊した家屋の下敷きになって動けない方々が、迫りくる炎に家族に「逃げろ逃げろ」と言って亡くなっていったことなどです。
     これはこれで重く受け止め記憶しなければならない事実ですが、こういうニュースばかりが取り上げられると、普通の小さな困難や努力を語ることが憚られるような雰囲気になったりします。
     私は22年も経って、普通の小さな記憶も語り伝えることが返って必要な気がしています。私の記事を読んでいただいた皆様もどうか体験をコメントしていただきたいと思います。

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  4. 大阪府内でも被害の大きかった豊中市で1・17を経験し、その体験を話したところ、兵庫の人に「なに被害自慢をしてるんや」的に云われて以来、語ることを止めました。でも昨日のTVニュースで災害直後の街の様子をムービー撮影をした市の担当者が「10年目のときは公開をためらい控えたが20年目のときに「30年目になると震災経験を語り継ぐ人がいなくなるかも、体験者と未体験者が混在している今こそ公開すべきでは」とそれからいろんな場所で当時の映像を公開している、と仰っていたのが印象的でした。我々の小さな記憶も何らかの形で残していかなければと長谷やんのブログに啓発されました。

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  5.  ひげ親父さんコメントありがとうございます。「被害自慢」の話、よくわかるような気がします。私も、大阪での経験など語るのはおこがましい気がしていたのですが、テレビなどを見ていて、いわば「典型的な被害」の話ばかりがクローズアップされるのに、何かこれではよくないと思い始めているのです。いろんな所にちっぽけな努力がいっぱいあって、それが重なり合ってあの日々があったのだと思います。そういう記録も大事ではないのでしょうか。

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