2016年9月27日火曜日

俳句入門

こんな本も持っている
   テレビ番組で今のところ一番気に入っているのはプレバトの俳句コーナーである。
 気に入っているとはいうものの、提起された写真を見ても私には全く俳句が浮かばない。
 出演者が「凡人だ」「才能なしだ」と一蹴されるが、その彼らの足下にも私は及ばない。
 そんなレベルではあるのだが、夏井いつき先生の選評にはほゞ納得させられる。
 そこに感心するのでこの番組が好きである。

 先日、呑み屋にいる友人から「近々句会を始めるぞ」とメールが入った。
 そういうことで話は盛り上がっているらしい。
 ただ、アルコールは根拠なしに未来を明るく照らすものだから、実現性は「?」である。

 昨日の記事で、明日にでも楽しく収穫しようかと思っていた柿をヒヨドリに齧られて残念無念、あまりに悔しいので齧られたところを包丁で切り捨てて残りを食べたことを一句捻ってみた。
 だが、どうも平板で説明的になる。
 上手くいかない。

 何を隠そう、私は相当以前から「俳句入門」の本を持っている。
 その上に「大歳時記」も持っている。
 この「持っている」というところがミソで、持ってはいるが内容は全く頭に入っていない。
 この「波長の合わない」理由は自分でもわかっている。
 小学校のときに受けた教育にある・・・と、責任を転嫁する。

 私の小学生の時代というのは、ほんの数年前までは戦前の教育だったのだから、教育者が必死になって新しい民主主義教育を模索し試行錯誤していたし、戦後民主主義に危機を覚えた戦前派による巻き返しも始まっていた時代だった。

 そして私の受けた教育は、戦前の反省と新しい民主教育に熱心な先生たちによるものだった。
 だから、世の中で当然だとされている決まり事を先ず疑いなさい、人の言うことを鵜呑みにせず自分の頭で考えなさいと繰り返し教えられ、話し言葉で自由に書いた作文が誉められた。
 対局として、漢文調の美文、常套句は偽りの「国体」を飾ってきたものとして徹底して嫌われた。
 そういう原点があるものだから、定型句(詩)を否定するものではないのだが、どうしても定型句とは波長が合わない脳の体質になったのだと、今でも人のせいにしている。

 そうであるから、理屈抜きで入門書の1ページ目の「有季定型」という決まり事を疑ってしまう。
 「そんなものは、野球でいえば何故3球で三振か、4球でフォアボールか、3アウトでチェンジか、9回で終了かと問うことと同じで、俳句とはそういうものなんだ」という説に理屈上は同意するのだが、現実生活と季語のギャップに度々戸惑うのである。

 ほんとうに季語は大事なものなのか、季重なりは絶対にいけないのか、違う季節の季語が入るのは言語道断なのか、1ページ目の数行で私の思考は停止する。
 読者の皆さんからのご教示をお願いしたい。

2 件のコメント:

  1.  オリオンが朝真南に控えてる
     朝の5時に南の空にオリオンがくっきり。なので冬が控えている秋本番を感じたのですが、オリオンは冬の季語。こんなときはどう読めばよいのでしょう。

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  2.  有明にしかと控えしオリオン座
     これで秋は無理ですか?

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