2016年7月4日月曜日

人生 意気に感ず

   私がまだ現役で仕事をしていた頃、私たちは仕事上、ある漢籍に詳しい先生とお付き合いがあった。
 なので、その先生の影響もあってか、職場にはその種の名言に堪能な先輩方も少なくなかった。
 その一人が先輩のYさんで、酔ったときなどに「人生 意気に感じるや」「お前とは考えは違うが、その意見とやる気には賛成したるわ」と言われたことなどをいま思い出す。

 唐詩選にある述懐という五言二十句の詩の最後の2行だが、唐王朝建国の功臣魏徴が自分を認めてくれた天子の知遇に感激して活躍する決意である。
 なので、少し古めかしい感じもするが、あまりに損得ばかりで社会や人生が語られる現代には、一種の清涼感もある。私は嫌いではない。

 と思っていたとき、共産党の比例区の候補者大門みきし氏のプロフィールに、「座右の銘はなんですか?」に答えた次のような文を見つけた。
 
 「意気に感じる心」です。これにはエピソードがあります。
 中学生のはじめの頃は大変な「問題児」でした。
 「こいつはもう手に負えんわ。転校させるか、施設に入れるしかしゃあないなぁ」という、まことに乱暴な先生たちの話を聞いて、「ちょっと待ってんか、ワシにまかせてくれ」と買って出てくれたのが、植山忠次郎先生(あだ名が「はげ忠」)でした。
 口はやかましいが心のとても温かい先生でした。
 もうすぐ定年を迎えるお歳でしたが、毎日、私の家へ来て「大門、うどん食いにいこか」と私を連れ出し、きつねうどんを食べさせながら、こんこんと説教をしました。そういう植山先生の熱心さに根負けして、何とか立ち直り、高校へも進学できたわけです。
 先生はいつも「大門、男はなぁ、意気に感じる心を忘れたらあかへんで」と言っていました。
 それ以来、私の座右の銘は「意気に感ず」ということになりました。
 出典は唐の名臣・魏徴(ぎちょう)の詩「述懐」にある「人生、意気に感じては、功名誰かまた論ぜん」だと思います。
 もちろん意味が理解できるようになったのはずいぶん後になってからですが、先生がなぜ定年まで教頭にもならず、一教師にこだわったかがわかる気がしました。
 植山先生のことを今でも一生の恩師だとおもっています。

 よく「共産党の人は堅物で、みんな同じことを言うという印象がある」と言われたりするが、以上の文章からもそれが大いなる誤解だと私は感じた。
 人生 意気に感じて正義を貫く、・・・なんと人間臭い候補者でないか。
 なので今、人生 意気に感じて共産党を応援したいと思っている。

 そんなことで、古い友人に「SNSで思いを発信しようよ」というと、「それでどれだけ効果があるの?」と尋ねられた。
 おいおいおい、人生 意気に感じて挑戦するのに「費用対効果」ですか?

1 件のコメント:

  1.  Y先輩にこのブログをプリントアウトして郵送した。
     きっと、「お主、やるやないか」「よし、意気に感じた」と言ってくれるに違いない。

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