2016年2月25日木曜日

SATOUMI資本論

  2月8日の記事の最後の方で「里山資本主義」に触れたことで、バラやんから「里海資本論(角川新書)800円」を紹介するコメントを戴いた。
 「里山資本主義(角川oneテーマ21)781円」については2014年5月29日の記事で紹介はしていた。そしてこの「里海資本論」も書店の店頭ではその背表紙を何回も目にしていた。
 しかし、どうせ里山資本主義の漁業編だろうし、そうだとすれば大体は想像がつくと思って購入はしないでいた。
 それに、名著「森は海の恋人(文春文庫)629円」も読んでいたし、まあいいか!という感じだった。
 因みに「森は海の恋人」は、海の民が疲労困憊した海の蘇生を図るために、森の復活・再生で安全・安心な海の栄養を増やす取り組みの記録だった。
 
 そして「里海資本論」を読み始めたのだが、その書き出しは、富栄養化で瀕死の海を濾過する取り組みだったから、見た目は正反対のことで、えええっ!というように引きずり込まれた。
 こんなことわざが適当かどうかは分からないが、「水清ければ魚棲まず」という言葉もあるが、富栄養化の海も死の海になる。自然は単純ではない。
 だから日生(ひなせ)の人々はカキ筏を使い、アマモの種を蒔いて海を復活させたのだ。言うは易いが行うは大変だっただろう。
 この本の書評は私のガラではない。今までのブログの記事での本の紹介もそうしてきた。だからその奮戦記は実際にこの本を読んで味わってもらいたい。

 ただ、こういう SATOUMI の取り組みが、当初は欧米では全くウケなかったという話も面白い。
 執筆陣がそれを「一神教の世界観によるもの」だったと言っているのも面白い。
 一神教のロジックによるならば、絶対神の造った自然というものに人間が関与するのはアブノーマルということになるのに対して、八百万の神の感覚でいえば海もカキもアマモもそして人間までもが神の端くれ、その一部であるから、自然と人間が力を合せて自然を豊かに持続させようと素直に理解できるのだと。
 ちょっと寄り道をすれば、人間どおしが最大利益を追求すれば絶対神の造った市場は正しい答えを出すと考える市場原理主義=新自由主義が信じられる理由もそこ(一神教の常識?)にあると考えているのも面白い。

 今の南海本線堺駅の西には、かつて東洋一といわれた水族館があった。
 夏のレジャーの王道が海水浴であった頃、そのあたり、大浜は一大リゾート地であった。
 その浜の石ころにコールタールのようなシミが付きだしたのは高度成長が始まった頃だった。
 そして遊泳禁止になり、海は単なるタンカーの海路でしかなくなった。いや、工場排水の吐き出し口になった。大阪湾は「悲しい色」どころでなくなった。
 私の青春時代はそういう公害の時代であったが、当時、発想の大転換をして、どこの工場がどれだけ出したからこれだけの責任があるという現実には埒のあかない議論を止め、総量規制という大方針をすすめたのが大阪府の黒田革新府政だった。
 後に美濃部都政でも活躍した、四日市の公害Gメンとして有名な海上保安庁の田尻氏などの活躍もあり、日本の公害対策は大きく改善された。
 また寄り道になるが、その頃中国の鄧小平氏が松下電器茨木工場を見学したが、そのとき黒田知事は「日本の産業技術だけを取り入れるのでなく公害対策も忘れないよう」説いたという。昨今のPM2.5のニュースに接するたび、鄧小平氏の理解不足に思いが至る。

 原発反対をいうと「江戸時代の生活に戻っていいのか」という人がいる。
 しかし、地球誕生以後営々と蓄えられた地下資源をここ1~2百年の人間が使い切っていいのだろうか。
 大部分の自然が倒れ伏した地に健康な人間だけが生活できると考える方が異常でないか。
 この本は、非常に読んだ後の気分がいい本だった。それは、未来が見えてくるからだろうか。
 この本を紹介してくれたバラやん、ありがとう。

1 件のコメント:

  1.  私は角川新書の回し者ではありませんが、コメントに答えて頂いて早くもブログにコンパクトに、それも要領良く載せて頂いて有難うございました。長谷やんのブログの最後のくだり「大部分の自然が倒れ伏した地に健康な人間だけが生活できると考える方が異常でないか。この本は、非常に読んだ後の気分がいい本だった。それは、未来が見えてくるからだろうか。」は、私もその通りだと考えています。
     それにしても、長谷やんの読書スピードと読解力には恐れ入りました。私は読むのに一週間はかかりました。パソコンと携帯を持った「縄文人の生活」も「八百万の神」も素敵で素晴らしいと思います。

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