2015年11月29日日曜日

呉王夫差

  年末の餅つき行事が近づいてきたので、改めて餅つきのルーツについて考えているうちに、ジャポニカ米の故地「江南」をもう一度考えたいと思った。(江は揚子江)
 テーマは日本列島に稲作(弥生文化)を伝えた人々のことである。
 そこで、30年以上前に読んだ陳舜臣著「小説十八史略」を引っ張り出したが、読み返し始めると楽しくて瞬く間に時間が経ってしまった。

 殷の末期、今から3000年ほど前、酒池肉林の話で有名な紂王が周の武王に敗れ、代わった周王朝も後には名ばかりになり実権は各地の諸侯(公)の手に移った。主な国だけでも斉、魯、衛、晋、そして呉などである。春秋時代である。

  呉(後の三国志の呉ではない)は、周王の長子太伯(たいはく)が江南の地、現在の蘇州に赴いて建国したといわれている。
 そしてその南方、紹興に起こったのが越であり、呉王夫差(ふさ)と越王勾践(こうせん)、それぞれの名臣である伍子胥(ごししょ)と范蠡(はんれい)の攻防が『臥薪嘗胆』の中身である。

 呉王夫差が越王勾践に敗れたのが紀元前473年で、越は北上して都を移したから、完敗した呉の王族・貴族たちが逃げられた道は東の海上しかなかった。北や西には大国があった。
 このボートピープルが日本列島に稲作を伝え弥生の指導者になったと推定するという説に私は説得力を感じる。
 これに先立つ呉越の戦乱や春秋時代の戦乱の中でも先行するボートピープルもあっただろうし、同じように戦国時代に後を追ったボートピープルもあったに違いない。
 後の「魏志倭人伝」が記す帯方郡から朝鮮半島の旅程や、さらにその後の百済や新羅からの渡来人ルートに意識が引っ張られ過ぎると見えなくなるが、非常に明らかな事実は、稲の遺伝子は韓半島経由でなく、長江からのダイレクトな足跡を物語っている。
 「魏略」では、『自謂太伯之後』、つまり倭人は自らを呉の末裔だと称していた。

 私の実母が小さい頃上海で暮らしていたこともあり、また、戦前の長崎の暮らしを伝えるテレビの中で、長崎の人は東京には行ったことがなかっても、年末の買い物などは上海に行っていたと話していたことなどを思い起こすと、この長江下流からのダイレクトルートに親しみを感じる。
 話は楽しいが、机の上が関連の本で埋まり始めている。

 邪馬台国以前のことである。考古学的には北部九州が日本列島の先進地域であった頃のことである。

3 件のコメント:

  1.  黄河の中華文明よりも、この照葉樹林文化圏、納豆トライアングル、醤油(含む魚醤)の文化圏に何か懐かしさを感じるのです。
     ここいらの非漢民族は、遠い昔には北方に居たという説もあり、漢民族に押し出されて南を含む各地に移動したとも言われています。

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  2. 先日TVで山極京大総長(ゴリラ研究で有名)と冒険家の関野吉晴氏の対談番組があって、関野氏が人類発祥の地、アフリカから一番遠い南米に至る旅路の中で、先へ先へと旅していった者は、実は弱い者だった、強いものはその地に定着し、そこから追い出された者が仕方なくまた次の定着地を求めて旅するという事ではないか、と述べていました。

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  3.  ひげ親父さん、その番組私も観てその発言の部分には大いに刺激を受けました。
     そして、そういえば苗(ミャオ)族など越といわれる諸族は私たちやイヌイット同様、胴長短足の元北方系だなと思いました。
     有史(文字文明)以前の民族の攻防・大移動が日本列島からでは見えにくいですが、目をアジア大陸に向けると見えてくるように思います。
     ただ私は人類学的な日本人のルーツにはそれほど興味が無く、今日につながる日本文化のルーツに興味があります。とすると、縄文を軽視するなという声もありますが、やはり稲作を伝えた弥生の指導者に興味津々です。その後、古墳時代です。

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