2015年9月10日木曜日

卑弥呼に逢いに行く

  私はいわゆる邪馬台国論争には深入りして来なかったが、この国の歴史(ルーツ)を考える時には避けて通ることのできないテーマのひとつでもあったので、頭の隅には常に問題意識が無かったわけではない。少しはあった。
 そういう比較的低レベルといえる程度のベースの上で好きな本を読んだりしていたのだが、先日、文化庁遍「日本発掘」の石川日出志著述部分を読んでいたら「渡邉義浩先生が〔大率〕〔刺史〕という語からたいへん重要なことを指摘されている」という文に出会って興味を抱いた。
 前後して、ゲノム研究の斎藤成也著「日本列島人の歴史」を読むと、ここにも「渡邉義浩は・・論じている」と出てきた。
 対象は中公新書「魏志倭人伝の謎を解く」だが、この標題からすると私が一度は書店で手に取ったことはある筈であるが、それでもこの本が私の記憶にないということは、倭人伝の片言隻句を好き勝手に解釈して文章を書いている本があまりに多いことにうんざりし、弥生の終盤、古墳時代の黎明期は主に考古学で考えたいと思っていたからである。
 しかし、前述のような興味から、ここは中国古代史、中国思想史を専門とする著者(渡邉義浩氏)の文を一読しておかなければならないと思いなおし、書店に取り寄せてくれるよう注文した。

  その本の内容は興味のおありのお方には手に取っていただくとして、一言感想を言えば、西晋(265~316)の歴史家である陳寿がどういう知識と理念で三国志・魏志倭人伝を書いたのかということが精密に証拠をあげて語られていることで、その緻密さに私は感動した。
 誤解を恐れず答えを言えば、いわく、曹の魏の正当性と、それを継承し自らも使えた西晋の正当性を表現するための、政治的意図を含んだ理念と事実が混交したものである・・と。
 だから、蜀の東の親魏大月氏王(1C~3Cのクシャーナ朝・洛陽から1万6千370里)に匹敵するように、親魏倭王卑弥呼の国は呉の地の背後(会稽東治の東)の遠国(帯方郡から1万2千余里・洛陽からなら1万7千里)の大国でなければならなかった・・等々。
 そして、私が読んでみようと思った動機にもなった邪馬台国の官である「一大率」では、「大倭」という官名と揃えて『一人の「大率」』と読むのが対句を重視する漢文の読み方であるとし、「女王国(邪馬台国)より北には大率を置き、大率は常に伊都国に居り、それは(魏の)刺史のようである」と言われていることから、・・後漢書によれば刺史は地方に置かれる官名で、首都圏の監察は司隷校尉であったから、伊都国=北九州は首都圏ではなく、つまり首都圏なら「司隷校尉のようである」と書かれた筈であるから、よって伊都国周辺は「地方」であった。つまり邪馬台国の所在地は九州ではなかったと論じている。
 その他全般に渡ってこの本は緻密に論理だてられているように私は感じた。
 その緻密さ故、読むのに疲れる本ではあったが読後の気持ちの好い本だった。

 蛇足ながら、「邪馬台国論争」自体を近代史として分析する小路田奏直教授は、私が理解した言葉で言えば、東京帝国大学白鳥庫吉博士が九州説を唱えたのは日露戦争後の脱亜入欧のときであり、大和(ヤマト)の天皇の祖先が中国に朝貢したとか、我が国文化の源泉が渡来に多くを負うものだったとか、中国文明の端の半未開の国であったとするのは皇国の歴史上許されず、それ故、それ(邪馬台国)は九州の一豪族のことであって、大和(近畿)にはアジアの影響のないもっと高度な固有の文明があったとしたかったからである・・との分析は慧眼であろう。
 とすると、このテーマは現代に通じる『歴史修正主義』の問題と大きく重なり、古代史なんか趣味の領域だと笑って捨てておけないテーマでもある。・・・俄然愉快になってきませんか。
 なお、考古学から考える邪馬台国は別の機会に・・・。

1 件のコメント:

  1.  蛇足の部分で「帝国は万世一系の神の国であるとする皇国史観のために邪馬台国九州説が唱え始められた」と書いて自分自身は楽しかったのですが、賛否を含めてあまり反応はいただけなかった。むむむ。

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